初めての旅立ち♬温室育ちの甘ったれた島っ子が日本一へ挑んだ話⚽️
この日記は、時系列で回想しています。もっと深いところの話をしたいです・・・・が、中々濃い人生だったようで、しばらく僕の幼少期をお楽しみください!www
恐らく、回を増すごとに刺激的になると思います😂
さてさて、今回は中学時代。僕は、長崎の五島列島出身だから、同じ長崎県内でも船に乗って島を出なければ行けない⛴
つまり、僕にとっては異国であり、海外に行くのと一緒の感覚⛵️
島を出て大人を見た時に、何故だか全員が成功者にしか見えない。
この人たちは世の中の全てを知っているのでは無いのか?何も知らないのは自分だけでは無いのか?という、そういう感覚。
そう。僕が中学校で向かった先は、長崎県の島原半島にある国見と言う地域。何があるかと言うと、農業・畜産が盛んなのでとにかく臭い。笑
冗談はさておき、国見と言う場所は知っている人は知っている。サッカー⚽️がビビるくらい強い全国有数の超名門校。僕の同じ歳のメンバーは、小学生時代44戦負けなしのスペシャリスト軍団。
五島列島でサッカーがうまいとチヤホヤされていた僕は、一瞬にして鼻をへし折られた。入学前の練習から、もうビビってしまって、今後やっていけるのか不安に感じていた。
ただ唯一僕の支えであったのは、自分の兄がその当時の国見中学のサッカー部のリーダー的存在だったこと。
だから、「きっと僕もいける」と思っていた。そう思っていただけ。www
案の定、練習はハードすぎた。テクニカルからフィットネスまで。追い込みに追い込みをかけられ、やっと練習が終わったと思ったら、強制自主練でまた、テクニカルの課題が残る。もう立つのがやっとなのに、、、
何回、「立つんだジョー」と自分に言ったことか。それでも、僕は立てなかった。
何故かといえば、僕の名前は【アキノリ】だからだ。(あれ?滑った?笑い声が聞こえないwwww)
どれくらいハードかと言うと、中々表現しづらいが、とりあえず、試合は1日に4〜6試合くらいは当たり前。試合内容が悪過ぎれば、ハーフタイム中はずっとダッシュし続ける。そして、負け試合の場合は、負け点数×4Kmを走るという罰則付き。
なんと、国見高校の大先輩方と練習試合したとしても、容赦無く負けたらダッシュ。(勝てるわけが無い笑)
ヒドイ時は、県大会の決勝戦でボロ勝で優勝しても、皆ビンタされて、喝を入れられて、競技場から走って帰れと。(今の時代では考えられないよね笑)←あ、この時にビンタされることへの抵抗感が身についてのかも。www
先輩は、隠れてクレープ食べてたのがコーチに見つかって1ヶ月間練習に参加できず毎日40キロ以上走らされてた。「あれ?部活かわったのかな?」ってみんなにディスられてたくらい。笑
でも、本当に全国制覇を目指すくらいのチームだったので、心構えからたくさん学ぶことがあって、【挨拶・掃除・返事】。これに対してはかなり厳しく育てられた。
それから感謝することだったり、一流としての心構えをインストールしてもらった気がする。本当に通わせてくれた両親には感謝だな。
挫折もしたけど、最後は仲間たちと全国3位という成績を残せたから、これは大きな自信に繋がった♡
でも・・・この時から僕の人生に変化が生まれ始めた。
中学3年の時、父がガンを患い、そのまま国見高校へ進学するか、自分の出身の五島列島へ戻るかと言う選択。地元に帰れば、プロサッカー選手になるという夢はかなり厳しくなる。初めての自分の人生の大きな選択と決断。
でも、内心は国見高校での練習に耐えれる自信がなかったので、ちょっとホッとしたというのもここだけの話😂(つまり、五島へ帰る道を進んだのよ)
ってことで、中学時代の回想は終了♬www今回も聞いてくれてありがとうございました。
愛と感謝を無限に込めて・・・
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