好景気の名古屋、戦争そして復興 2024NEO舞踊劇「名古屋ハイカラ華劇團」と祖父・西川鯉三郎。(文・西川千雅)
冒険の連続だった「名古屋をどり前夜」
ことしの新作舞踊劇「名古屋ハイカラ華劇團」は「名古屋をどり」がはじまるまでの祖父らのエピソードがたくさん盛り込まれています。この執筆に何度も読み返した本があります。それが「鯉三郎百話」
二世家元西川鯉三郎の波乱の半生を描いた「鯉三郎百話」とは
(昭和52年(1977)に中日新聞社発行)
西川鯉三郎は私の祖父です。
西川流の二世家元で、名古屋西川流を全国区に拡げた立役者です。“名人”六代目尾上菊五郎の門弟として子どもの頃から、尾上菊丸、という名前で活動、名家の出身ではなく、父母を早くに亡くしています。
名題を許され尾上志げる、となったのち、2年後に歌舞伎界を飛び出し浅草へ。4年後に許され門下に戻り、2年後に東宝歌舞伎へ移籍。
のちの尾上流二世家元になる尾上菊之丞師(当時:尾上琴次郎)とは“御神酒徳利”と呼ばれるコンビで、六代目はその二人に「鏡獅子」の胡蝶という、当時一介の弟子には踊らせない踊りを何度も踊らせました。
俳優で子どものころから仲が良かったのは十七代目中村勘三郎師、二代目尾上松緑師。この縁は亡くなるまで続きました。
2度も“破門”となりながらも、師匠は二人を護りました。
転機のひとこと
ある食事どき。門下十数名で食べていると師匠・菊五郎が言いました。
「名古屋から稽古に来ている静子は好きか?」
静子とは近藤静子、私の祖母です。西川流を当時取り仕切っていた西川石松の孫です。
嫌いではないので「はい、好きです」と答えると
「それじゃあ名古屋に言って一緒になったらいい」
こうして、志げるは、名古屋に婿入り。半分東京、半分名古屋という生活がはじまりました。当時の西川流は芸妓によって護られ怖いおばあちゃんばかり。でも名取試験で踊ったら、みんな納得してついてきてくださったそうです。
戦争中の慰問隊
時代は日中戦争が広まりつつあり、第二次世界大戦が広まりつつありました。西川流では慰問隊を結成、70人が軍の経理部で働きながら、軍需工場や病院などを周り慰問を終戦まで続けました。トラックに載せられて、あるいは歩いて大八車を引きながら、空腹に耐えながらあちこちを廻ったそうです。西川流の家元稽古場も空爆で燃やされ、最終的には三重県に疎開しながらの慰問隊活動でした。
終戦の年に、はじめての「名古屋をどり」
昭和20年(1945)、終戦の焼け野原の名古屋。焼け残っていた名宝劇場(名古屋東宝劇場)で同年の9月24日から3日間だけ行われました。
常磐津「釣女」、常磐津「お夏狂乱」、歌謡舞踊「日本風俗舞踊詩」、この3作品。娯楽に飢えていたお客様で劇場は超満員。あまりに人が多くて窓ガラスまで割れたそうです。
「鯉三郎百話」読めます
こちらでPDF「鯉三郎百話」を読むことができます。
中日新聞社様よりご許可いただき、長年サイトに上げていましたが、現在リンクが無くなっているためここに掲載いたします。