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【5/1 #日めくりクラシック音楽 】今日はチェコの作曲家アントニン・ドヴォルジャークの誕生日(1841年)~交響曲第9番『新世界より』~

こんにちは、名古屋クラシック音楽堂(@nagoyaclassicca)です。今日の #日めくりクラシック音楽 でご紹介するのは、1841年に誕生日を迎えたチェコの作曲家アントニン・レオポルト・ドヴォルザークの代表曲~交響曲第9番ホ短調 作品95『新世界より』~をご紹介します。

アントニン・ドヴォルジャークとは?

アントニーン・レオポルト・ドヴォルジャーク(1841-1904)は、後期ロマン派に位置するチェコの代表的作曲家。 チェコ国民楽派を代表する作曲家である。ボヘミアの民族感情に溢れた多くの曲を書き、スメタナと共にボヘミア楽派と呼ばれる。

プラハ近郊のネラホゼヴェスに宿屋兼肉屋の息子として生まれる。6歳から師ヨゼフ・シュピッツにヴァイオリンと歌の指導を受ける。8歳から村の教会で少年聖歌隊員、9歳で父が指揮を務めるアマチュア楽団でヴァイオリンを弾く。

1853年進学した実業補習学校でドイツ語教師で校長のアントニーン・リーマンに出会い、ヴァイオリン、ヴィオラ、オルガンの演奏のみならず、和声学をはじめとする音楽理論の基礎を学ぶ。

1857年にはプラハ・オルガン学校に入学。アントニーン・アプトが指揮する「セント・チェチーリア協会管弦楽団」でビオラを演奏。

1861年頃から作曲を開始し、翌年62年には国民劇場仮劇場のビオラ奏者として出演する。66年(25歳)には首席指揮者に任命されたベドジフ・スメタナ(42歳)と出会い、その後、スメタナの影響下に、スラブの民族舞曲の形式をとり入れて作風を確立する。

73年に愛国的カンタータ「賛歌ー白山の後継者たち」の初演で作曲家として最初の成功を収める。74年に作曲した交響曲第3番がスメタナの指揮によってプラハで初演される。

74~78年までオーストリア政府の国家奨学金を受けるようになり,その奨学金の審査員であった E.ハンスリックやブラームスと知合う。

ブラームスに才能を見いだされ、1878年『スラヴ舞曲集 第1集』がドイツ・イギリスで大好評となり一躍人気作曲家となった。

1884年に初のイギリス訪問中、ロンドンで自作の『スタバト・マテール』を指揮し絶賛され、96年にかけて9回訪英。その間 1891年プラハ音楽院作曲科教授。

その後ジャネット・サーバー夫人の要請により、1892年にアメリカに渡ってニューヨーク・ナショナル音楽院の校長、作曲家教授として音楽教育に貢献ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を吸収し、自身の作品に反映させている。

1893年にA.サイドル指揮、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団による交響曲第九番「新世界より」の初演が大成功。

その頃ジャネット・サーバー夫人の夫(ナショナル音楽院最大のパトロンだった)が1893年恐慌のあおりを受け破産寸前に追い込まれていたことから、ドヴォルザークへの報酬も支払遅延が恒常化しつつあった。それでも2年の契約延長を受け入れる。

1894年からチェロ協奏曲に着手し、翌1895年にこれを完成させるが、これが限界だった。ドヴォルザークはサーバー夫人に辞意を伝え、アメリカを去ったのである。

1901年オーストリア貴族院議員,プラハ音楽院院長に就任。最後のオペラ『アルミダ』を完成させた後、初演を指揮できぬまま、1904年病気のためプラハで亡くなり、ヴィシェフラット墓地に埋葬される。

代表作に、弦楽セレナード、管楽セレナード、ピアノ五重奏曲第2番、交響曲第7番、交響曲第8番、交響曲第9番『新世界より』、スラヴ舞曲集、この分野の代表作でもあるチェロ協奏曲、『アメリカ』の愛称で知られる弦楽四重奏曲第12番などがある。

アントニン・ドヴォルジャーク:交響曲第9番ホ短調 作品95『新世界より』

ドヴォルザークは1892年に、ニューヨークにあるナショナル・コンサーヴァトリー・オブ・ミュージック・オブ・アメリカ(ニューヨーク・ナショナル音楽院)の校長に招かれ、1895年4月までその職にあった。この3年間の在米中に、彼の後期の重要な作品が少なからず書かれており、「作品95」から「作品106」までがそれである。

この作品は『弦楽四重奏曲第12番 ヘ長調《アメリカ》』(作品96, B. 179)、『チェロ協奏曲 ロ短調』(作品104, B. 191)と並んで、ドヴォルザークのアメリカ時代を代表する作品である。

オーケストラの演奏会で最も頻繁に演奏されるレパートリーのひとつでもあり、日本においてはベートーヴェンの『交響曲第5番 ハ短調《運命》』、シューベルトの『交響曲第7番(旧第8番)ロ短調《未完成》』と並んで「3大交響曲」と呼ばれることもある。

『新世界より』という副題は、「新世界」のアメリカから故郷ボヘミアへ向けてのメッセージ、といった意味がある。

初演は1893年12月16日、ニューヨークのカーネギー・ホールにて、アントン・ザイドル指揮、ニューヨーク・フィルハーモニック協会管弦楽団による。初演は大成功だったと伝えられている。

ドヴォルジャーク:交響曲第9番ホ短調 作品95『新世界より』第2楽章 larɡo

『新世界より』第2楽章のイングリッシュホルンによる主部の主題は非常に有名であり、ドヴォルジャークの死後にさまざまな歌詞をつけて『家路』『遠き山に日は落ちて』などの愛唱歌に編曲された。

ドヴォルジャークの弟子であるウィリアム・アームズ・フィッシャーが1922年に作詞、編曲した歌曲、合唱曲。霊歌風の楽曲「家路 (Goin' Home)」とした。

もともとこの旋律が、先住民オジブワ族の英雄譚に取材したヘンリー・ワズワース・ロングフェローの詩『ハイアワサの歌』のオペラ化のために構想されたものを元にしていたことや、ドヴォルザークが黒人の弟子であったハリー・バーリーから多数の霊歌を聞いており、これを『新世界より』の構想に活かしたことがあった。

日本でも1930年代には「家路 (Goin' Home)」として伝わっており、多くの作詞家や音楽家によって歌詞が充てられた。

その中でも歌い出しの歌詞でもある「遠き山に日は落ちて」として知られる堀内敬三によるものは、戦後長く教科書に教材として採用され、愛唱歌とされるほど定着している。また、学校や公共施設などが夕方の帰宅時刻などを告げる音楽として、この曲を流すことも多い。

日本人がこの曲を、ふるさとを感じさせる日本の曲の様にとらえるのは、「遠き山に日は落ちて」の影響も大きいがヨナ抜き音階(ヨナ抜き長音階を西洋音楽の長音階に当てはめたときに主音(ド)から四つ目のファと、七つ目のシがない音階(ドレミソラ)のことが使われていることに起因する。

ヨナ抜き音階は、日本以外にスコットランド民謡やアメリカ民謡、ラテンアメリカのフォルクローレでも使われている。「遠き山に日は落ちて」のようにスコットランド民謡をもとに日本語の歌詞が充てられた曲に「蛍の光(原曲:Auld Lang Syne)」や「故郷の空(原曲:Comin' Thro' the Rye)」が知られている。


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