あの日の記憶を召し上がれ
Ⅷ 禁止事項
「こんにちは」
私は勇気を振り絞ってお店の扉を叩いた。
「お客様。もうお越しにならないと思いました」
蒼空が一瞬目を見開いて、しかしすぐに柔らかに微笑んだ。
私の置いてけぼりにされた荷物は昨日の席にぶら下がったままであった。
「昨日はすみません。勝手に」
「いえ!」
またあの笑顔だ。
安心した。
「香織さんは?」
いてもたってもいられず聞いてみた。
蒼空はあちらの部屋からプレートを運んで来ながら言ってくれた。
「大丈夫、きちんと決着はつけられました」
その顔を見てさらに安心した。
香織さんはここにはきっともう来ないであろう。
いや、このお店を見つけることができないであろう。
その必要がないから。
何でだろう。
そんなことが無性に嬉しくて仕方なかった。
「良かった」
ひたすらこの言葉を繰り返すことしかできなかった。
「あとはお客様ですよ」
机にポットを置いてにっこり言ってくれた。
「はい!」
「お客様何かありましたか?」
「どうしてですか?」
「何だか雰囲気が変わった気がして」
自分の頬を右手で触っても、特に変わったところは分からない。
「大人びたと言いますか」
「少しだけ。今まで分からなかったことが分かるようになった気がするんです」
かほこは窓の外を眺めて言った。
蒼空はその様子を微笑んで見ていた。
「今日の紅茶はダージリンです」
「相変わらずいい香りですね」
この優雅なひと時が最近のお気に入り。
「そういえば蒼空さん」
「何でしょう?」
「ここでは記憶を提供する代償として、お客様から何かを頂く。私が初めてここに来た時にそう教えてくれましたよね」
「はい」
「私、もう何度もここに来ていますが、何を代償としているんでしょうか?」
「それはお教えすることができません」
蒼空はニコニコと笑って言った。
気になる。そこまで隠されると。
特段私に変化はなかった。
あの後家に帰っても、変わったところはなかったし、怖い夢なんてのも見なかった。
一体何が代償なんだろうか。
「今日の本はどれになさいますか?」
考えたって仕方がない。
今は自分の記憶のことに集中しなければ。
「今日はこれにします!」
本棚から選んだ一冊を蒼空に見せた。
「無言の教室」
題名を読み上げた蒼空の動きが一瞬止まる。
「学園ミステリーですね」
何か思い出すように口振りだった。
「はい! 久しぶりに見つけたので懐かしいなと思って」
「無言の教室……」
「どうかしました?」
「いえ、何も」
「そうですか」
その様子が少し気になったけれど
「お客様?」
考えていると、蒼空がこちらを覗き込むように言ったので
「いただきます」
そう言って紅茶を一口飲んだ。
「あ!」
「え?」
急に蒼空が叫んだので思わず声が出たが、答えを聞くより先に本の世界に飛んでしまった。
「お客様!」
蒼空の顔からサーッと血の気が引いた。
「無言の教室って……」
蒼空が珍しく慌てて奥の本棚に駆け寄った。
「ない、ない!やっぱりない」
本の背に視線を走らせた。
気づいたら小さく震えていた。
「お客様……」
机の上に広がった本に向かってつぶやいた。
気づけばそこは教室。
ひんやりとした空気が漂っていた。
「ここは……」
私は一人、教室の真ん中の席に座っていた。
椅子と机が異様なほど整列している。
なのに周りには誰もいない。
薄暗いその教室に私はひとりだった。
ひとりぼっち。
椅子から立ち上がろうとしても足が動かない。
後ろでガシャンと鈍い音がした。
振り返って見ると、花瓶が床で割れていた。
女の子が立っている。
セーラー服を見にまとい、長い髪を垂らした女の子。
わざと花瓶を落としたらしい。
力ない目で割れた花瓶を見ていた。
そしてその生気のない目でニタァと笑った。
ゾクッと背中に寒気が走る。
私のことが見えていないのか、彼女はふと窓の外を眺めた。
そして一歩一歩重さのない足を重力に任せて擦っていく。
窓の鍵に指をかけ、細い手首で窓を開けた。
ドロっと重い風が入ってきた。
生ぬるい風が少女のスカートを揺らし、長い髪をなびかせた。
窓枠に腰を下ろし何とも取れない表情でただ一心に空を見つめる姿を、私は見ていることしかできない。
「ねぇ」
ふいに彼女が声をかけてきた。
「え?」
「あなた空は好き?」
唐突すぎる質問に一瞬心臓が跳ねたが、落ち着いて答えた。
「ええ」
「なら雲は?」
「好きよ」
何の質問なの?
心の内でそう考えながら少女の声に耳を傾け続けた。
「変わっているのね。あなた」
軽く笑ったように言った。
「私は、この世界が嫌いよ」
少女はそう言い残して窓から身を投げた。
というより飛び立ったように見えた。
「あ!」
儚く美しく。
私は動けない。
窓の下なんて見ることもできない。
彼女の運命を見届ける必要はないとまで思った。
空にただひたすらに伸びた飛行機雲が走っていた。
「お客様……お客様!」
蒼空の声でやっと目が覚めた。
「お客様大丈夫ですか?」
なぜか蒼空は焦っていた。
「大丈夫ですけど……」
頭がぼんやりと痛い。なかなか頭が醒めない。
「本当に大丈夫ですか?」
「何かあったんですか?」
「お客様がお選びになられた無言の教室は、一度他のお客様がお読みになられた本だったのです。返す棚を間違えたようで。すみません。一度聞いたことのある題名だと気づいた時にはもう遅くて」
「そうだったんですね。でも特に変なところはなかったですよ」
「それならば良かったです」
蒼空は胸をなでおろしたように言った。
「一度読んだ本を読んでしまうとどうなってしまうのですか?」
「分かりません。今まで一度もなかったので」
「そうですか。でも何も起こらなくて良かったです」
かほこがにっこり笑って言った。
「そういえば本日の紅茶、お味はいかがでしたか? 初めて入手した葉っぱだったので」
蒼空が笑顔でティーポットを持ち上げた。
「今日の紅茶……」
体の芯が一気に冷めていくのが分かった。
「お客様?」
「今日の紅茶って」
「ダージリンですけど」
「ダージリン……」
「お客様、まさか」
また蒼空の顔が凍りついた。
「お客様! ご自身のお名前は」
「土田かほこです」
「本日はどこから参られましたか?」
「……覚えていません」
声が震えた。
「そんな」
「蒼空さん、これって」
「今日の記憶がなくなっているようですね」
「まさか……」
「本来、記憶がなくなるはずは無いのですが。やはり本の影響でしょうか」
ふらふらと私は席を立った。
「お客様?」
息が荒くなってくる。血液が身体中を巡る。痛いくらい速く、強く。血管が破れそう。心臓が脈打つ音が頭のすぐ近くで聞こえて、
「どうなさいましたか?」
そんな蒼空の声さえ耳には届かない。
私の中に何者かが憑依しているかのような感覚。
私の中に無理やり入り込もうとしている。
私じゃない。こんな身体。
嫌だ。何これ。
ぎゅっと強く目を塞いだ。
心臓が熱い。頭が金槌で殴られたように痛い。
やめて。やめて。
目の前にひとつの情景が見えた。
広い道路に立っている。
幼い私とあの少年。
そして思い出された大きなトラック。
迫り来るトラックが目の前まで来た時、やっと蒼空の顔が見えた。
耳の奥に残る誰のものか分からない悲鳴。
「お客様! 大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
無理に息を押し殺した。
「これって」
私の記憶。
でもそれ以上思い出すことができなかった。
小さく肩が震え、立っていられなかった。
ガクンと崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。
「蒼空さん、私……」
顔が涙でぐしゃぐしゃになっていく。
「思い出したくない記憶に当たりましたか?」
震える身体で何度もうなづいた。
「ここに来るのを少し控えましょう。これ以上記憶を失ってしまう可能性もありますし」
「でも」
思い出したい。
本当はそう言いたかった。
でも怖い。
その二つが私の中で激しくぶつかり合う。
波になって岩肌に荒波が押し寄せて、引いて、また押し寄せるように。
その波は一定のリズムで私の中に出たり入ったり。
吐きそうになりながら私は草木の中を歩いていた。
「ここに来るのを少し控えましょう」
蒼空の声が頭の中で復唱される。
怖かったがきちんと家まで辿り着くことができた。
ちゃんと横断歩道を歩いて交差点も渡れた。
家の扉がどちら向きに開くのかも覚えていた。
でも今日の朝食、思い出せない。
どこからあのお店に向かったかも覚えていない。
部屋に戻って布団にくるまり込む。
もう分からない。怖い。
「怖いよ」
声に出さなければ、自分の中で恐怖心が押し殺せない気がしてならなかった。
押し潰されてしまう気がした。
どれくらい時間が経ったのだろう。
そのまま寝てしまったようだ。
辺りは一面淡桃色に染まり、一瞬だけこの世界中から音が消える。
大きな鐘の音が鳴り始めた。
その音は六時を刻む。夜との境目。
何だか今日は私だけ、今日という日に置いてけぼりにされた、そんな気分。
聞き慣れたはずのメロディはどこか懐かしい気がして、一瞬にして街の喧騒がフラッシュバック。
今日という一日の終わりを告げる道すがらだった。
ふと寝ぼけまなこで窓の外を見ると、シュッと筆で書いたような真っ直ぐな飛行機雲が伸びていた。
「逃げないで」
そう伝えているように感じた。
私だって逃げたくない。
自分の運命から。
今はただひたすらに、その一筋の希望を見つめることしかできなかったが。
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