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あの日の記憶を召し上がれ

IV アフタヌーン・ティー

山には一応道はある。ほとんど獣道だけど。
それに、そんなに大きな山でもない。私の足でも、そんなに時間はかからないだろう。
草を踏む音と、少し乱れた私の呼吸が静かに聞こえる。葉が擦れる音が自然の思うがままに聞こえてくる。風が木の緑を空気に馴染ませながら吹いていく。丸い音。その子たちが、真っ白なブラウスの隙間を楽しそうに駆け抜ける。少しそばかすが浮いた私の頬も、どれほどか美しく見える日差し。
どれもこれも優しかった。
優しく撫でられていくような気がした。
思ったよりあっという間に山の麓に到着した。
まだあの建物は見えている。見失わないようにしないと。瞬きするのを我慢して目を見開いたまま歩き進める。
そうでもしないと、また消えてしまう気がして。
目が乾いてきた頃、ようやく建物の前に辿り着いた。
その建物は平屋建てのようだった。周りには色鮮やかな花々が美しく咲き誇り、年代を感じる古い扉が何とも柔らかだった。
本当は近くまで来ただけのはずが、そんなことはとっくに忘れていた。
気づくとゆっくりと扉に手を掛けて、恐る恐る開こうとしていた。
「あ……」
思わず息を呑む。
木目調のアンティークな家具が顔を揃え、埃ひとつ見当たらない程掃除が行き届いた美しい部屋。特に多くの本棚とその中に整頓された本たちが印象的だった。でも、お家にしては机と椅子が多すぎる。
これじゃあまるで喫茶店だ。
「新しく開店したのかな」
お昼見えなくなったのは私の気のせい?
こんなにはっきりとあるんだし。
奥にはカウンター席もあり、コップやお皿、サイフォンやティーポットなどが所狭しと並んでおり、その奥に何か部屋があるようだった。
からんとした雰囲気の中、窓際の小さな丸机の上にティーポットと湯気が立った紅茶、開きっぱなしの本が置いてあった。
椅子も引きっぱなしで先程まで誰かが座っていたとしか思えない。
その席にゆっくりと近づき、無意識に本を手に取ってみようとした。
「ダメですよ」
突然声が聞こえた。
反射で手を引っ込める。
「ご、ごめんなさい」
振り向くと、白いワイシャツに黒いエプロンをかけた若い男性が立っていた。茶髪がかったくせっ毛と屈託のない笑顔を振りまく優しそうな人。
「いらっしゃいませ、お客様」
「へ?」
その人は私の謝罪なんざ気にした様子もなく言った。
お客様? どういうこと?
「あの……」
「遅れて申し訳ございません。私はここのオーナー、蒼空と申します」
「あ……どうも」
「お客様は?」
「え……ああ。土屋かほこと言います」
人として名前を言われたら言い返すのが礼儀。まだ大丈夫。何とか正気を保てているようだ。
「ここは?」
そう聞くと蒼空は待っていましたとばかりに
「ここは不思議な本屋。ノアです」
「不思議な本屋?」
ふしぎなほんや? どういうこと?
もう頭ごちゃごちゃだよ。
「簡単にご説明しますと、記憶の旅をご提供させていただくお店でございます」
「記憶の旅?」
「ここで僕の淹れた紅茶を飲みながら本を読むと、その本の中に迷い込んでしまうのです」
「そんな訳!」
「それがあるんです。そしてその本から帰ってきた時お客様から消されていた記憶を、取り戻すことができるのです」
この人何を言っているの?
「ただし、大切な記憶を取り戻す代償としてあなたの大切なものをひとつ頂くことになります」
「代償?」
「はい。それはその時によるので、代償にも個人差がありますが」
そして蒼空は空いたままの椅子に手をかけて続けた。
「このお店に辿り着けるお客様はなかなかいません。何か忘れてはいけないことを忘れていたり、大切なことを思い出したいと強く願っている人でなければ、このお店を見つけることはできないのです」
「じゃあここに座っていた人は今、本の中に吸い込まれているってことですか?」
「はい。人が入り込んでいる本を誤って閉じてしまうと、その人は二度とこちらの世界には戻ってこられないのです」
「からかってます? さっきから本の世界とか吸い込まれるとか」
そう言いながらも、そっと足を一歩後ずさった。
「そんなに疑うなら試してみます? ここに辿り着くことができたお客様なのですから、きっと何か思い出したいと願うものがあるのでしょう」
思い出したいもの?
「そんなの……」
「お客様にはわかりませんよ。記憶から全く消されているので。まぁ物は試しです」
蒼空は一通りの説明をし終わって、ほっと一息ついた。これまで何度も同じことを同じように説明してきたのだろう。そして蒼空は奥側にゆっくりと歩いていった。
「お好きな本をお選びください」
奥から蒼空の声が続く。マイペースだなぁ。
「それにしてもすごい本……」
列を乱さずきっちり整頓された本を、まじまじと見つめた。
かほこは本棚から好きな作家の本を見つけて、ひとつの椅子に腰掛けた。
「まだ開かないでくださいね」
蒼空が続けて言った。
「お待たせしました、アールグレイです」
蒼空はティーポットに淹れたての紅茶をいれ、それを銀色のプレートに乗せて運んできた。目の前でティーカップにコポコポといい音をたてながら紅茶を注ぐ。ふわっと湯気がまつ毛と重なる。
「どうぞ」
鼻いっぱいに香りを吸い込み、言われるがままかほこは紅茶を飲んだ。
「美味しい」
紅茶の味なんて全くと言ってもいいほど分からないかほこにも、その美味しさはわかった。
「本を開いて、読んでみてください」
紅茶を一度受け皿に置いて、本を一ページ開いてみた。すると蒼空は笑みを浮かべて
「いってらっしゃい」
と言った。
「え?」
という間もなくかほこは知らない場所にいた。

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