見出し画像

あの日の記憶を召し上がれ

Ⅶ 常連

「こんにちは」
次の日の放課後、昨日よりも帰り支度を早く済ませて急ぎ足でここに向かった。
「いらっしゃいませ」
蒼空がまた笑顔で言った。
「今日も辿り着けたのですね」
「はい……」
一直線に走ってきたせいで肩で息をする。
「まぁそんな焦らず。今日はアイスティーにしてみましたよ」
キッチンの方から言った。
「どうしても気になって。私の思い出したい人が誰なのか。夜も眠れなくて」
しゃべりながら昨日の席に荷物をかけた。
「今日もですか?」
「はい」
「ではお好きな本をお選びください」
「あれ? 昨日の本って」
本棚の前に立った私は、昨日の本が見当たらないことに気が付いた。
「ああ。あれならあちらの本棚です」
蒼空は奥側に置かれた本棚を指さした。
「一度お客様が入り込んだ本は再び入ることができません。あちらの本棚にある本はお選び頂けないので、こちらの本棚から新しい本を見つけてくださいね」
蒼空が例の銀プレートを持って来た。

私は今日の本を決めた。
昨日と同じ席に着いて、改めて周りを見渡す。
またあの席が空いていた。
空いていたという表現が正しいのかは分からないが、昨日と同様椅子が引かれたままだった。
「どうかされましたか?」
戻ってきた蒼空が机にアイスティーを置きながら聞いた。
「あの席……昨日も空いてましたよね」
「ああ。あの席は常連さんが座っているんです」
「常連さん?」
「ええ。どうしても思い出したいことがあるそうで、毎日お昼時に来られて夕方には帰っていく女性の方でして」
「へぇ」
「ここで記憶が取り戻せるとはいえ、狙った記憶が手に入るわけではないので、気長に通うしかないんですよね」
すると突然、その視線の先にあった机がガタガタと音を立て始めた。
「え?」
「もうお帰りのようですね」
蒼空がそれだけ言い残してその机の方に向かった。
冷めていたと思われるティーカップの中の紅茶が泡を立て始めた。
まるで沸騰しているみたい。
受け皿ごと飛んでいきそうなくらい、ガタガタと揺れながら湯気をモンモンと立ち上げている。
蒼空は慣れた手つきで本を開いたまま持ち上げ、その湯気を包み込むようにして本を勢いよく閉じた。
すると紅茶は落ち着きを取り戻し、ガタガタといわなくなった。
蒼空がその閉じた本を椅子の上に置くと、本がひとりでに開いてそこから湯気が立ち始めた。
その湯気がゆっくり人の形となっていき、本が床にバタンと落ちた瞬間、白い女が椅子に姿を現した。
「おかえりなさい」
蒼空が紅茶を淹れ直しながら言った。
「どうです? 今日の収穫は」
抜けるように白い顔の女は横にゆっくりと首を振り、床に落ちた本を滑らかに拾い上げた。
上品な白いワンピースに赤いブラウスを肩にかけた女は、小さく口を開いた。
「また明日も来ます」
彼女はふと、目を真ん丸にしていた私を見て微笑んだ。
「あら。珍しいお客様ね」
「あ……」
突然話しかけられあたふたしている私に
「ご紹介が遅れてしまったわね。私、香織。小説家です。毎日お昼時にここに通っているわ。あなたは?」
香織は艶の良い瞳を向けた。
「あ、私は土屋かほこです。高校一年です」
「かほこちゃんね。あなたは何を思い出したいの?」
「私が幼い頃に出会ったことのある人の名前を思い出したいんです」
「あら素敵ね」
「その……香織さんは?」
急にこんな馴れ馴れしく名前を呼んでもよいものか、一瞬ためらった。
しかし香織は何を気にした様子もなく続けてくれた。
「私は初恋の人の名前を思い出したくてここに来ているの」
「初恋の?」
「ええ。ずっとずっと前好きだった人。私がかほこちゃんくらいの時に急にいなくなってしまったのだけれど」
香織さんは少しだけうつむいた。
「そんな……」
「思い出せているのはここまで。大好きな人だったはずなのに私、このお店に来るまでその人のこと忘れてた。たった十年で。時間って怖いわよね」
香織さんはわざと明るく言った。
その時、掛け時計がボーンボーンと陽気な音を鳴らした。
「あらもうこんな時間。ごめんなさいね。もう帰らなくては」
「あ……」
「明日も来るかしら?」
「はい!」
「嬉しいわ。明日お会いできたらまたお話しましょう」
香織さんは柔らかな微笑みを置いて
「ごちそうさま」
と扉を押した。
「蒼空さん」
「はい?」
「香織さんはいつから毎日通うようになったんですか?」
香織さんが出て行った扉を見つめ続けていた蒼空に聞いた。
「さぁ……いつからだったかな。すみません、正確には覚えていません」
蒼空がこちらに向き直してまたあの笑顔で言った。

今日選んだのはファンタジー小説。
主人公の少女が都会の街から忽然と姿を消す。
ひょんなことから狐の世界に迷い込んだのだ。
狐たちが人間のように暮らす狐の世界で巻き起こる事件。そして見え隠れする闇。
彼女は狐の世界にとって招かれざる客であり、世界を救えるたった一本の生命線でもあった。
そこで出会う狐たちとともに、狐の世界に忍び寄る世界滅亡の足音を振り切っていく。
世界の淵に立った時、少女は正義を振りかざし一人で走り出す。

昨日のように一瞬で世界に入り込めた。
でも頭にあるのは香織さんのことばかり。
なぜ蒼空さんが覚えていないくらいずっと毎日あのお店に通いつめているのに、初恋の人を思い出せないのだろう。
香織さんの初恋の人ってどんな人だったんだろう。
目の前にあるものを一度信じてしまえば人間、適応するのに時間はそれほどかからないらしい。

気づけばお店に帰っていた。
「お客様? 大丈夫ですか?」
「え! あ……はい」
自分のことに集中しなくちゃ。
頭の中を探ると、昨日より鮮明に情景が浮かび上がった。

幼稚園と遊具。
これは私の通っていた幼稚園。
その砂場で私は昨日と同じようにあの子と遊んでいた。
黒い前髪が白い顔に少しかかったその綺麗な横顔を私はずっと見つめていた。
「かほこちゃん」
その子が口を開いた。
昨日と同じ声。
昨日聞こえていた声はこの子の声だったんだ。
直感的にそう悟った。

ビュッと目の前に蒼空が見えた。
「何か思い出せましたか?」
「昨日私の名前を呼んでいた子は、もしかしたら同じ幼稚園で育った子かもしれません」
「お客様が思い出したいのは同級生……ということですね」
その言葉を飲み込むようにうなづいた。
「名前は?」
「分かりません」
「もう少しですね」
蒼空が優しく言った。
外に出ると夕日が山に溶け込んでいく直前だった。
「あ……」
そう言うより早いか遅いか、一本の線だけを残像に置いて太陽は闇夜に消えた。

「こんにちは」
「お客様今日はお早いですね」
今日は短縮授業だったのでお昼時に顔を出してみた。
「あの、香織さんは?」
「もうそろそろお見えになると思います」
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
ちょうどよく香織さんが店内に入ってきた。
「あら、かほこちゃん。今日は早いのね」
香織さんが嬉しそうに笑顔で言った。
「はい」
聞きたいことをちゃんと考えてきたのに、香織さんの声に笑顔で返すことしかできない。
どうしてもこの目の前の人の役に立ちたい。
そうは思っても、いい方法は一日中考えても思い浮かばない。
「香織さん」
香織さんが席に着いたのを見てから、勇気を振り絞って聞いてみた。
「ん?」
首を傾けて優しく言った。
「初恋の人の話……聞かせてくれませんか?」
「聞いてくれるの?」
香織さんは羽織っていたカーディガンを椅子にかけた。
こくんこくんと勢いよくうなづいた。
すると香織さんは窓から振り込む日差しを肌に溶け込ましながら、ゆっくりと口を開いた。
「中学生の頃だから十一年前くらいの話ね。同じ学校の男の子に恋をしたの。恋って呼べるような素敵なものではなかったのだけど、あの頃の私はただひたすらその人のことしか見えていなかったわ。私は弓道部だったの。ある夏の日、部活動の帰りが遅くなってね、帰り道で三人の高校生に絡まれてしまったの。今思えば逃げれば良かったのだけれど、あの時は本当に怖くて足がすくんで動くことができなかった。持っていた弓を掴まれてもうダメだと思った。その時その弓を掴む白い手が見えた。ぱっとその方を見ると彼がいたのよ」
「その人が香織さんの初恋の人ですか?」
「ええ。その人は持っていた竹刀で相手を追い払ってくれて。本当にその日からその人しか見えなくなってしまって。彼の名前も思い出せないんだけれど、優しいラベンダーの匂いだけが鼻の奥に残っていて。覚えているのはここまでなの」
香織さんが少しだけ悲しそうに笑った。
「そうなんですね」
そこに蒼空がプレートを持ってやってきた。
「お客様……今日の本はどれになさいます?」
「あら、長話をしている間にもう紅茶ができてしまったようね」
私にそう言いながら香織さんは本棚の前に立った。
私はその背中を何も言うことができないまま見つめていた。
横目に蒼空が見えた。
いつもの笑顔ではなく、少し寂しげな複雑な表情を浮かべていた。
「蒼空さ……」
「おすすめとかってありますか?」
同時に香織さんが顔をこちらに向けて言ったので、私のその微かな勇気はヒュルヒュルと音を立ててしぼんだ。
「おすすめですか。そうですね」
蒼空が瞬時に人のいい笑顔を香織に向けた。
何だか蒼空らしくないと思いながら本棚に近づいていく蒼空の背中を見ていた。
「ならこれにします」
気づけば香織さんが席に着き直すところだった。
「じゃあね、かほこちゃん。また後で」
香織さんはそう言って蒼空の紅茶を飲んだ。
「あ……」
香織さんは一瞬にして本に吸い込まれていった。

「お客様? お客様はどの本になさいますか?」
「えっと」
慌てて席を立って本棚の方に足を一歩出した。
椅子の足に私の足が絡まって派手に転びそうになった。
「あ!」
蒼空が腕を伸ばして私を受け止めようとする。
一瞬の出来事だった。
蒼空の腕は確実に私を受け止めていた。
受け止めていたはずだった。
ガッシャン。
私は気づけば床に倒れこんでいた。
蒼空の持っていたプレートの上のコップが私の目の前で割れた。
え?
思わず蒼空の方を見る。
蒼空が唇を軽く噛んでいたのが見えた。
しかしすぐ
「お客様大丈夫ですか?」
そう言って割れたコップの破片を拾い始めた。
無言で破片を集める蒼空をひたすら眺めることしかできなかった。
今確かに蒼空の腕は私を捕らえていた。
それなのになぜか私は倒れた。
私が唖然としているうちに蒼空は全ての破片を拾ったのを確認し、向こうの部屋に歩いていった。
そして新しいプレートにカップを乗せてゆっくり歩いてきた。
顔は晴れないまま。
「あの蒼空さん」
「情けないです。もう十年にもなるのにまだこの身体に慣れていないなんて」
「え?」
蒼空は少しうつむいていた。
「僕は人に触ることができない身体なんです。簡単に言えば、通り抜けてしまうのです」
「それって」
「僕は生身の人間ではありません。一度天昇しております」
「幽霊……ということですか?」
「そうですね」
「だからさっき私を受け止めていたのに」
「思わず手を伸ばしたけれどお客様に触れることができなくて、受け止めることができなかった。すみません」
目の前のこの人が幽霊。
この人の目を見て嘘だとは思えない。
本当なんだ。
「怖がらせてしまいましたか?」
「いいえ。すみません私こそ」
「お客様は何も」
そう言いながらプレートを机の上に置いた。

ふと鼻先を撫でる匂いがあった。

本能的に否定してしまった。
認めていたようで認めたくなかった。

ラベンダーの匂い。

その匂いは心を切り裂くように私の身体に入ってきた。
「蒼空さん」
そう言って胸ポケットに入っていたシャープペンシルを力強く振りかざした。
なぜこんなことをしているのか、そんなことは頭になかった。
蒼空は案の定
「え?」
そう言いながらも、そのシャープペンシルの先を反射的に避けるように後ろに軽く飛んだ。
「剣道部だったんですか?」
「なぜそれを?」
本当に驚いていた目だった。
目に涙が溜まっていくのがわかった。
熱を帯びた涙が顎の先まで音を立てずに流れた。
「お客様?」
あぁ。この人なんだ。
この人が。
そう思った時にはお店を飛び出していた。
「お客様!」
後ろから蒼空の叫び声はしていたけれど、今は聞こえない。
走って走って昨日の雨で濡れた土が靴に飛び散った。
それでも走り続けた。
「はぁはぁ」
ここはどこだろう。
今はそんなこともどうでもよかった。
蒼空さんが香織さんの初恋の人。
まさか、まさか。
蒼空さんは知っているんだ。
そのことを。
直感的に悟った。
胸がキッと痛くなる。
どうすればいいのだろう。
気が付けば木の下に座り込んでいた。
ひたすら時間が経つのを忘れて、汚れた靴を見ることしかできなかった。

「かほこちゃんかほこちゃん」
「え?」
目の前に小さな子が立っていた。
あの子だ。
私の思い出したい人。
「あなたは誰なの? 教えてよ」
「思い出してよ」
白い顔に笑みを浮かべて言った。
「思い出せないの。どうしても」
それを聞いて男の子は無邪気に笑った。
「かほこちゃんならどうしてほしい?」
そして急にこんなことを言った。
「え?」
「香織さんはどうしてほしいかな」
「どうして香織さんのことを?」
「かほこちゃんの考えてることだけが、全てではないこともあるんだよ」
「どういうこと?」
「大丈夫。かほこちゃんなら」
「待って! まだ何も」

夕日を身体で受け止めて顔を上げる。
どうやら寝てしまっていたようだ。
「あ……荷物」
お店に置いてきてしまった。
でも帰り道が分からない。
「どうしよう」
「かほこちゃん」
ふいに聞こえた優しい声。
「香織さん……」
そこには髪を風になびかせた香織さんの姿があった。
「心配しちゃった。急に出て行ったって聞いて」
「すみません」
真っ直ぐに香織さんの目を見られない。
「そんなに落ち込まないで。引っ掛かっているのは蒼空さんのことでしょう?」
「え?」
どうして。
「大丈夫、全て知っている。わかっているわ」
「え?」
「ならどうして? って顔しているわね」
香織が少し笑って言った。
「すみません」
「いいのよ。気にしないで。私が覚悟を決められないだけ」
「覚悟?」
「あなたも知っての通り、蒼空さんが私の探し求めていた初恋の人。まさか再開する前に亡くなっていたなんて。でもいいの。もう一度蒼空さんという存在であの人と出会えたから。それにね。まだ希望は捨てていないの」
声を押し殺して香織さんが真っ直ぐ前を向いて言った。
信じたいんだ。
見つけたいんだ。
蒼空さんが初恋の人じゃない証を。
「どうして元の名前を聞かないんですか」
「聞けるわけないじゃない。真実をはっきりさせてしまえば、もう二度と会えなくなるかもしれない」
そこでハッと蒼空の言葉を思い出した。

「何か忘れてはいけないことを忘れていたり、大切なことを思い出したいと強く願っている人でなければこのお店を見つけることはできないのです」

「名前を知ってしまったら、お店はきっと私には見えなくなる。もう蒼空さんとは会えなくなってしまう。だから過去ときっちりお別れしたいのにズルズルと長引かせてしまって」
本当は香織さんだって分かっている。
泣いてしまうほど大好きだった人を間違えるはずない。
「香織さん」
「それに、蒼空さんはきっと私のことを覚えてはいない。そう考えると何だかやるせなくて」
静まり返った木々の中、太陽が沈んでいく匂いだけがする。
「そうでしょうか」
「え?」
「こんな曖昧なままでいいんですか?」
「ごめんなさいね。私がただ弱いだけなのよ。傷ついてしまうのか怖いだけ」
「甘ったれないで」
ぎゅっと握った拳を見て言った。
今香織さんはどんな表情をしているのだろう。
こんな言葉人にぶつけたのは生まれて初めてだ。
でも
「香織さん大好きな人だったんでしょう? 忘れられない人なんでしょう? なら傷ついてもその香織さんのまま、どんと構えていてください。悲しくても辛くても仕方ないんです。それが真実なんだから」
気づけば肩で息をしていた。
木の葉に私の声が吸い込まれていく気がした。
「かほこちゃん」
「それにきっと蒼空さんもそれを望んでいる」

ここ最近の蒼空さんは何か変だった。
どことなく落ち着いていなくて、人懐っこい笑顔の先に少し物憂げな顔を見せていた。
私は悟ってしまった。
蒼空さんは気づいているんだ。
気づいてしまったんだ。
「だから香織さん、お願い」
何の感情が私をここまで奮い立たせているのか分からないけれど、香織さんにはやっぱり笑って前に進んでほしいから。
真っ直ぐに香織さんの目だけを見る。
「ありがとう」
香織さんは真っ直ぐ私を見つめ直してくれた。
そして走り出した。
「どうか。どうか上手くいきますように」
私はもう空に祈るしかなかった。

「蒼空さん!」
息を切り、私はお店の扉を勢いよく開いた。
「香織さん!」
案の定蒼空は驚いた顔をして立ち尽くした。
「あの……」
一度冷静になってはダメだ。
聞いてしまおう。
私だって前に進みたい。
「あの」
心を決めて蒼空を見つめた。
「仁科香織さん」
蒼空も真っ直ぐ私を見た。
「え?」
仁科香織。私の名前。
「すみません。これしか思いつかなくて」
「私の名前を知っているんですか?」
「忘れるわけないです。あなたは忘れてしまっているようですが」
蒼空は一度床を見て言った。
「早川七瀬。僕の名前です」
「早川七瀬君」
そうだ。そうだった。

「これはあんた達が気安く触っていいものじゃない。この子の魂の次に大切なものだ」

あの時七瀬君はこう言い放った。
その姿がずっと胸に引っ掛かっていて、忘れられなくて、誰よりも眩しかった。
あんなに何度も唱えていた名前を忘れていたなんて。
七瀬君だ。
剣道部の朝練だって何回も覗きに行った。
隣のクラスだったから、あの日以降話せなかったけれど毎日眺めているだけで幸せだった。
「七瀬君」
涙を目に浮かべて笑った。
「忘れないでくださいね」
「絶対に忘れません」
涙を頬に流しながら何度も何度もうなづいた。
音を立てて過去と現在がつながった気がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?