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秋のお彼岸に、彼岸へ渡りゆく愛犬と此岸を歩いたお話。

愛犬との最期の数日のできごと。一語一句実話。
はじめに断っておくと面白くも愉しくもない雑記。ホラー1割。

愛犬、約14歳という高齢で2年ほど前に病気もして足も弱っていたので、無事年が越せるかな・・・?という頃ではあった。
「約」というのは引き取った仔なので、正確な年齢がわからない。
3.11で被災した動物たちのシェルターからお迎えした保護犬だった。

久し振りの海外旅行をしている間にこの仔が熱中症で倒れてしまい、帰国したときには既にとても弱っていた。
食は細っていく一方で、こうなってしまうと長くないということは今までの経験でわかっていた。だから余計な延命治療はしなかった。

いつもより贅沢なご飯をホンのわずか食べる以外は、これまでと同じように過ごし同じように散歩に行った。そして次第に食べなくなった。
散歩で行ける距離もめっきり減った。そんな或る日。

行きたいところに行っていいよと私がリードを握ると、覚束無い足取りで迷いなく、いつもの川沿いコースを歩き始めた。

今日は昨日より少し元気だなと思っていたところ、あれよあれよと言う間にずいぶん遠くまで来てしまった。
普段なら絶対にこんな遠くまでは来ない。そもそも私の体力が続かない。
この仔の体力を考えたら到底自力で家まで戻れる距離ではなかった。
そこで家族にLINEを送り車の迎えを待つことにした。

ところが、足取りはふらふらなのに一向に立ち止まる気配がない。
ふと気付けば辺りは真っ暗。
半袖でも汗ばむほど暑いのに、暦の上ではもう秋。思いのほか日暮れが早い。

私と一匹は二級河川の右岸の土手を歩いていた。
春ならば早咲きの桜が咲き、車が通れないほどの狭い小路ということもあってお散歩にはちょうどいい。人生で二、三度は来たことがあった、くらい。

でも今は腰まで届く夏草が生い茂り、人家も街灯もなく、月明かりでかろうじて足元が見える程度。対岸のパチンコ店のネオンだけが煌々と光る。

昼間であればお散歩中の老夫婦とかジョギング中の人とかすれ違うことがあるけれど、日も暮れて真っ暗闇になった獣道のような川岸は、人どころか動物の気配さえない。
聞こえるのは草を踏み分ける私自身の足音と、秋の虫。

うら若い女子ならば痴漢の心配をしなきゃいけない程度には危険な状況だけど、その時は不思議と怖さを感じなかった。
心なしか、この仔の足取りが速くなった気がする。
生い茂った草を掻き分けて、私は愛犬の後に続いた。

私が抱きかかえて運ぶにはキツい程度の大型犬なので、ここで立ち止まったりしたら詰む。車道に出るまでどうか歩いてと願いながら川岸をゆく。
対岸にはパチンコ屋のネオン。

・・・あれ?パチンコ屋はもう通り過ぎたんじゃなかったっけ?
それともこれはスーパーの灯り?
確かもうそろそろ、小さな祠が見えてくるはずだけど。
そこまで行けば石のベンチもあるし・・・ああ、うん、見えて来た。

ここは橋までだいたい半分の距離。橋に行けば車道に出られて、迎えの車と合流できる。この仔も、あともう半分なら歩けそう。
普段ならとっくに家にたどり着いている時間なのに、まだ立ち止まる気配がない。いいよ、歩こう。

相変わらず川岸は暗く、秋の虫は鳴き、対岸のネオンは明るかった。
目と耳に入る風景が、不思議なほど変化しない。
10秒前のデジャヴを永遠に繰り返している、そんな感覚に陥る。
もうずいぶん歩いた気がするのに、まだ対岸にネオンが見える。

もしかして、気付かないうちに橋を通り過ぎたんじゃないかと不安になって、一度振り返って目を凝らしてみた。
前方と変わらぬ暗闇が背後に続いている。
半分どころか体感では3倍近く歩いている気がする。でもまだ車道に続く橋が見えない。

こんなに橋が遠いのは、速いようでもこの仔の歩みが遅いから?
それともここはもしかして、常世につながる路とか?
いやもう既に、引き返せない場所に足を踏み入れていたり?

この仔が一緒なら、それも怖くない気がした
この仔が寂しくないなら、それでいいような気さえした
不思議なほど現実感がないのに、不思議なほど不安がない。

「ここはまだ此岸?」
控えめな声で前を往く愛犬に話しかけてみた。
私の声など聴こえないかのように一心に歩く。ふらつきつつも迷いなく。
その時、LINEの着信が入った。

「今どこにいるの?」
私たちを迎えに、すぐ近くまで車で来ているはずの家族からの通話。
<なんかこういうシーン、ホラーで見たことあるなぁ>と思いながら応じる。

「私にもわからない」
正直に答えた。
「狐につままれるってこういうことを言うのかな」
私がふざけていると思って、スマホの向こうで笑う声がする。
「いくら歩いても、パチンコ屋のネオンが見える」

私の真面目なトーンに慌てたのか、「あの屋根は見える?」と聞いてきた。
それは私が小さい頃通った保育園のことで、屋根のシルエットが特徴的。
「うーん・・・もう見えていいはずなんだけど・・・」

再び対岸を見渡す。
夜道に慣れた目にはスマホから漏れる光が眩しすぎて一瞬くらりとなる。
闇がいっそう深さを増して世界を見失う。
まばたきをして目を凝らすと、特徴的なシルエットが浮かび上がった。

「・・・あれ?見えた・・・」
見えていた。
「そう、じゃあ待ってるね」
素っ気なく通話が切れた。

ほどなく目の前に橋が現れ、それに続く車道に出た。
いつもは草むらを歩きたがる愛犬が、どこか慌てた様子でアスファルトの車道に飛び降りてふらつく。
そんな段差、とても飛び降りる脚力は残ってなかったはずなのに。

そして数歩あるいたところで、さっきまでの足取りが嘘のように立ち止まった。
再び歩き出す気配はない。
すぐ先のドラッグストアで車が待っているはずだけど、もう一度通話して車を寄せてもらった。

この仔は、車がとても嫌い。
お迎えの車と見るや、慌てて逃げ出そうとするのを抱きかかえて乗り込む。
居心地悪そうにしながらも、腕の中で大人しく短い帰路を過ごす。

不意にその夜が秋分であることに気付いた。
それからほとんど水しか飲まずにきっちり14日後、その仔は彼岸へと渡った。

🍁

秋のお彼岸に、彼岸へ往く愛犬と此岸を歩いたお話。


<ここから先は論路的思考を放棄しているので、辻褄とか結論とか意図とかない雰囲気文章です>

この夜と、それからもう2日間、食べてないとは思えないほどの体力でいつもの散歩コースを歩ききった。
タイトルの写真は2日目の散歩の時の夕暮れ(加工とかしてません)
嘘みたいに赤い空に、正気を吸われそうになった。

夕焼けっていつもこんな色だっけ?
こんなに赤い空を見上げもせず、私はいつも仕事の帰路を歩いていたっけ?

きっと私はこの仔と一緒でなければ、黄昏時の忙しい時刻にのんびり空の色を眺めながら歩くことなどないだろう。
この仔が元気な時だって、早く帰りたいと思いながらいつも急いで歩いてた。
日常とはそういうもの。

フォンテーヌ(突然の推しでごめん)の任務のどこかで、
【 明日この国が海に沈むとしたら、あなたはどうする?】
という命題があった。

明日、世界が滅ぶとしたら。
明日、この命が尽きるとしたら。
明日、永遠の別れが訪れるとしたら。
私は何をする?

メリュジーヌは答える。

だとしても私はここでケーキを食べる。
人間はそれを生活と呼ぶ。

原神(ウロ覚え記憶)

生活?人生ではなくて?
英語ではどちらも同じ単語だけど、原語の意図はどっちだろう?
そもそも生活と人生って同じもの??

今日することを明日もすること。
明日も続けられることを今日すること。

後悔しない程度に愉しく豊かで、それでいて半永久的に続けられる程度に無理なく現実的で、そしてそれが満足できるもので在るよう日々努めること。
私ならそれを生活と呼ぶ。

もうじきいなくなるこの仔にとって、私にどんな価値があったと言えるだろう。
私にとってこの仔の存在は、どういう意味があったと言えるだろう。

喪失を前にして、ものすごく贅沢をしたり、大袈裟に気持ちを伝えたり、悲しみで自暴自棄になったり、現実から逃避して遊び耽るのはなにか違う。
いつもの生活を続けるし、続けるほかない。

覚束無い足取りで歩くこの仔に、重みが負担にならないようリードを絶妙な長さに持って歩きながらそんなことを考えた。
忙しくて凡庸な現代人だから、差し迫らないと命について考えられない。
驚くほどの生命力で14日間、私に考える時間をくれた。

休める仕事はすべて休み、キャンセルできる用事はすべてキャンセルして最期の時間を一緒に過ごしたのだけど、延びに延ばした仕事がこれ以上休めないという日に逝ってしまった。

傍にいてあげたいという気持ちと、隠れたいという本能を邪魔しているのではないかという不安と、あまりに苦しそうな呼吸を聞いていられないという逃げと、楽にさせてあげたいと願う気持ちがまるで死を待ってるみたいな不快さと、これ以上仕事は休めないという焦り。

鳴き声を聴いた気がして起きた時に、そのまま傍にいれば良かった。
明け方には息を引き取っていた。
仕事なんてまだいくらでも先延ばしできたのに、寝てしまった自分を悔やんだ。
今はとてもとても心残り。

死に直面するたび考える。
いまわの際には誰かに傍にいてほしいと希うだろうか?
苦しみもがく姿を見られたくないと望むだろうか?
その本当の答えを知れるのは私自身が死ぬ時だけ。


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