三浦春馬さんという人の死(1)_あの日のこと
2020年7月18日(土)
単身赴任先の相方の家(10年前学生の時の気持ちを思い出すようなせまぁい部屋。クーラー付けたらすぐ寒くなって、止めたらすぐ暑くなる。)で昼寝して、相方が帰って来て、お笑い芸人ダイアン津田さんか、サバンナ高橋さんのYouTubeのライブ配信だか、アーカイブだかを見てた。相方はこの日契約予定だった数百万の契約に関する情報を集めてた。まだちょっと眠くて、携帯で時間を確かめようとしたとき、NHKのポップアップが入ってきた。
"俳優の三浦春馬さん(30)死去"
多分そういう文字の並びだったし、そこにはどう亡くなったのか、書かれていなかったと思う。今でもこの文字の並びを見ると、心臓と肺に穴が開いて、口から内臓が抉り出されるような感覚になる。出来れば見たくない。
まって、まって、、まって、、、
多分、私、すごく焦って、震えて、怒鳴ってたと思う。最初「驚かさないで」といった感じで私を睨んでいた相方、私が「三浦春馬、死んだって..」って言った瞬間、顔色変えてすぐ携帯を探して何も言わなくなった。10年以上前、私が三浦春馬さんの"表現"に最初に出会った頃、既に一緒にいた相方は、時々しか私は口にしてなかったけど、私が三浦春馬さんという俳優を特別に思っていることは(自分の本質をほぼ明かさない私のことだけど、)多分だけど、少しは理解しているかな、と思った。でも気づいてないかもしれない。
次にニュースから入って来た文字は、「自殺か。」だった。
やっぱり
それが最初に思ったこと。
なぜ、とは思わなかった。それは、何となく、(本当におこがましい話なのですが)本質的に選ぶ選択が、自分と三浦春馬さんは似ているのではないかと、ずっと思っていたからかなと思う。
その日、私たちは人生で初めて大きな買い物をすると決めていた日で(イタ車を買った)、その後、バスでお店に出向いて数百万の契約書に署名して、帰り際に見つけた自然派ワイン屋でオレンジワインを買い、その足で近所のおすし屋さんに行って、ビールを飲んだ。
弔い酒、として記録を残しておかないといけないような気がして、ビールとつまみの写真を白黒で撮ってインスタに載せた。
本当は、三浦春馬と死 を連想させる言葉は見たくなかった。でも、多分この日は自分にとってとても重要な日で、書かないと、記録しないといけないような恐怖感があった。弔い酒、とだけ書いた。絶対に彼の名前は書けないと思った。
その日の夜、丁度テレビで三浦春馬さんが出ている「コンフィデンスマンJP」の映画版を放送していたけど、怖すぎて怖すぎてみれなかった。
観たら、本当に壊れてしまうと思った。
「音楽の日」を見るのも怖かった。でも、どうにもならなくて「音楽の日」を見て、ただただ泣いた。
今後彼(三浦さん)と共に歳をとり、今後更にどんどん変わって、更に次のステージに行く様を見れなくなると思うと、頭がどうかなって、爆発して、心臓や肺に穴が開き、内臓が口から出てくる感覚が止まらなくて、隣でぐーすか寝てる相方には絶対に気づかれたくなかったけど慟哭した。
*
相方が疲れて早々に寝ていたのが救い。
この気持ちは絶対に誰とも共有できるものじゃないし、私だけのもの。
今後の人生も、私は泣きたいときはひとりでいたい。ひとりにして欲しい。また同居することになったらそういう事が出来るだろうか、あ、でもこの人は信じられないくらい早く寝るから、夜型の私には時間はたくさんあるか。本質的に持っている孤独は共有したくない。誰かに分かってもらおうなんと一ミリも思わない。
三浦さんも同じ気持ちで死を選んだとしたら、とてもとても、深く理解できる。
言葉がある「歌」が辛い。音楽は悲しみに寄り添い、深く理解してくれるけど救ってはくれないのか。
常に自分の考える表現に向けてやるべきことをやり、出来ないことに向き合う。それは、うまくできたとしても常に切り刻まれるような苦しみを伴い、それに直面するたびに、「ああ、同じことがあったら次は死ぬだろう」と考える。他人に何かを言われるよりも、自分の何かを生み出すとき、大きな苦しみが自分を取り巻き、それが人生で最大の苦しみ。それはすごく孤独な作業だけど生きている幸せでもある。
*
そんなことを考えた。
その日どうやっていつ寝たのか、あんまり覚えてない。
辛すぎて、品川庄司の品川が、庄司とDead by Daylightの配信を見始めて、途中で眠くなって消して、寝た気がする。
**
前日(17日)、私は休日だったので、夕方からサロンに行って毒素を抜き切って、東京から新幹線に相方の単身赴任先に移動した。着いた時はもう22時くらいだったと思う。
近くのBarで少し飲んで、いつもの通り相方は早々に就寝。
私は、また芸人だかのYouTubeライブ配信を見ながらぼんやりしてた。
途中から雨が降って来て、単身用住まいだからか分からないけど、パラパラパラと、雨の「粒」が金属の屋根をたたいている音がした。
相方はいつもその音を「うるさい」という。
子供のころ、ほぼ熱帯の地域で育ったのでその音には聞きなれて、その音が鳴るときには、世の中はシンとして、精神を落ち着けてくれる薬のような存在だったけど、東京では「粒の音」を聴くことがあまりなくて、久しぶりにその音を聞けて、すごく心が落ち着いた。こどものころ、疲れると二階の自分のベッドに横たわって、「粒の音」を聞きながら、雨の日の弱弱しい日中の光がグレー、黒に変わっていくのをいつも感じていた。
凄く静かな夜。きれいな音。
って深く思った。深く深呼吸できた。
多分、私は近く子供を授かり、大好きな「粒の音」を長時間楽しめるような時間がくるときには、自分の人生の最後の時に近いときだろう。だからこの日のこと、多分忘れないな。あ、でも忙しい日々になると忘れてしまうのか..
とか考えた。
その音、今でも思い出せるくらい印象的な夜だった。今書くと結果論で嘘みたいな話だけど、本当にそう思った。3時くらいまでその音を聞いてた。
次の日(18日)の朝早く、だいぶ雨足が強かったけど、夜のような「粒の音」はしなかった。もう「粒の音」がつくりだす深い空間はなくなっていて、東京の、雑踏の中の雑音のような、それでいて全てが無になったような音だった。私は朝遅い派なので、たしか雨の音を聞きながら10時半くらいまで寝てたと思う。その頃には雨は大分上がって、セミが鳴いてた。
あー東京ではまだ聞いてなかったな、と思った。
そのあと、早めの昼ご飯を、近くのラーメン屋で食べて、「食べログ評価高くて芸能人の色紙一杯貼っているのにこの味かあ、この土地の味はやっぱりまだ理解できない」とか文句を言って、近くのコーヒー屋でよくわからないながぐつ型のコップに注がれたレモンスカッシュを飲んだ。
その後家に戻り、相方が脱毛にいくだかなんだかだというので、シャワー浴びて、YouTube見て笑って、おなかいっぱいなので昼寝した。
そこまでは、本当にいつも通りの日だった。
*
私の人生において、三浦春馬さんが息をしていなかった日は、私が生まれてから彼が生まれるまでの6年間だけで、それからの私の人生のすべての時間において、彼は息をしていた。
私が幼稚園で泥団子を作っていた時、小学校高学年で塾でカメムシと戦っていたとき、中学生でいじめにあったとき、それを乗り越えた時、高校生で皆とテニスばかりしていたとき、浪人して一人上京してただひたすらに勉強していたとき、第一志望の大学に入って楽しい日々を送っていたとき、学部に納得がいかず、その学校を辞めて他の大学に入って建築を始めて幸せいっぱいだったとき、相方と別の土地で大学院の勉強を始めた時、世界を相手に働き始めたとき、一人で心細く紛争国に海外単身赴任したとき、また、建築の世界に戻って来たとき、流産したとき。
私が、いつも通りサロン行って、新幹線にのって、この土地に降り立ち、コロナ禍で東京は閑散としてるのにみんなが飲み歩いて大声で喋ってるのに驚愕したとき。
あの「粒の音」を聞いていたその瞬間。
彼はずっと、ずっと、息をしていた。
*
私がいた場所は東京から少し離れていて「粒の音」が深く綺麗になっていたけど、その日、東京でも、夜は大雨だった、とテレビから聞こえてきた。
私が深く綺麗だ、と思った「粒の音」を、彼はどう聞いてたのか、彼の心はあの瞬間に静かに死を決めていたのだと思うと、吐き気がして、頭がかき回されて気が狂う。
なんでその瞬間に時を戻せないのか。戻らない。
前日と、当日はそんなことがあった。
2020.8.6
(2020.8.6 改訂2)