プロローグ

『……なので、無理に相手に合わせるということを続けていると、貴女自身の魅力が半減してしまいます。初めは難しいかもしれませんが、コンビニなどで自分の好きなお菓子を選ぶといった小さいところから、自分自身の居心地の良さを探していくと良いかもしれませんね』

 足首まで隠れるような黒いゴシックなワンピースに身を包み、頭には黒いヴェールを被った如何にも「占い師」といった風貌のアバターは、目の前のVtuber少女風アバター(所謂、量産型と言われるような外見だった)にそう伝えると、目を細めて妖艶に微笑んだ。
 二人が居るのは、欧風スチームパンクなガジェットが並ぶ「スペース」だった。レンガ作りのような壁紙の上に並んで不規則に動く歯車たち。棚には謎の本のようなものと、鉱石や草花が詰められた薬瓶が並んでいる。一見して異世界をモチーフにした雑貨屋のようでもあるが、空中に浮かぶレトロな地球儀や飛び回る小さなドラゴン、何より、目を凝らすと細部に見える解像度の境目が、この世界が現実ではない事を物語っている。
 この「レイヤ」––圧倒的なユーザー数を占める、大規模なメタバース世界––では、課金すればこの世界の中での自分の家、「スペース」を持つ事が可能になる。スペースは申請すれば商用利用も可能だった。

『はい。ありがとうございます、雹緋(ハクヒ)さん』

 相談の始め頃よりは、彼女の声色は明るくなっていた。どうやら占いの内容にご満足頂けたらしい。時間も頃合いとなり、雹緋と呼ばれた占い師は支払いの手続きを促した。量産型少女は雹緋が差し出したコードに軽く触れた。軽快な音が鳴り響き、会計がつつがなく終了した事を告げた。
 少女が再三の礼を告げてのログアウトを見届けると、雹緋は指先を動かして、自らもログアウトのウィンドウを目の前に立ち上げた。まるで魔法陣にも見えるそのウィンドウの中央に手をかざすと、雹緋のアバターは一瞬でノイズとなりその空間から消え去っていった。同時に、彼女が占いをしていたスペースの入口札の字が自動で「open」から「close」に変形し、スペース自体の彩度と透過率が下がって、店主がログアウト状態である事をわかりやすく視認させる形になっていた。



「お疲れ様、侑子」

 レイヤ内で「雹緋」と呼ばれていた女は、自分の夫の声で意識を現実世界に戻した。侑子(つまり、雹緋のことである)は、ログイン中から気になっていた香りが彼の手元のコーヒーに由来することを推察した。

「おれの分はないのか? 晴彦」

 そう言って侑子はニヤリと笑う。侑子は気心の知れた相手に対しては、「おれ」という一人称を使い不遜な言葉遣いをする。それは、男勝りというよりは地方の老婆が自分のことをそう言う感覚に近かった。
 晴彦と呼ばれた彼女の夫は、一瞬驚いたような顔をし、しかしすぐ呆れたような笑顔を見せた。

「ごめんごめん。もう少しかかるかと思ってたから、自分の分しか入れてなかった」

 そう言って晴彦は手元のカップを侑子の前に差し出した。

「これ飲んでて。新しく入れてくる」
「いや、一口貰えればそれでいい。すまんね」

 侑子は差し出されたカップを手に取ると、黒い液体の表面をうっすらと漂う白い湯気に吐息を吹きかけた。小さく啜って、すぐに口を離す。淹れたてのコーヒーは猫舌の侑子には少し熱過ぎたが、その小さな一口で彼女は満足したらしい。カップを晴彦の手に戻した。

「リュミヌー珈琲のドリップを使わせて貰ったよ」
「道理で美味い訳だ。構わんよ、今度豆で買い足しておいてくれればな」
「お嫁様には敵わないな」

 そう言って軽口を交わす二人は、見た目こそ風変わりだが、仲睦まじい夫婦のように見えた。
 VRデバイスとゴーグルをデスクの上に置いた侑子は、真っ赤な椿を大きく刺繍した黒いデニムの着物を身に纏っている。帯は麻の葉模様を敷き詰めたワインレッドの半幅帯で、黒と金の三分紐を締めて猫の帯留を配置していた。目元の赤いアイシャドウが、同系色のタッセルイヤリングに映える。長い黒髪は赤い人工オパールをあしらったゴールドの簪でまとめ上げていた。
 対して晴彦は、そこまで風変わりな格好をしているわけではないが、細身の体が見て取れる黒いデニムパンツと淡いグレーのノーカラーシャツがスタイリッシュさを引き立てる。見た目の若さの割にやや前髪の後退が気になるところだが、それを隠す事なく短く整えられた髪とオーバル型の眼鏡がかえって知的な印象を与えていた。
 30を過ぎてから結婚した二人は、その円熟した空気感から長年連れ添った夫婦であると思われがちだが、こう見えて結婚したばかりの新婚夫婦である。その結婚の経緯は、まるで想像できないというものもいれば、逆に納得がいくというものもいる、不思議なものだった。

「……それで、どうだった? 今日のクライアントは関係ありそう?」

 これまでとは打って変わり、神妙な面持ちで晴彦が問いかける。しかし侑子は、目線をやや伏せて首を横に振った。

「いや、ただの恋愛相談だった。レイヤ内で知り合った相手らしいから、もしかしたらとは思ったんだがな。やはり、アッチ系の依頼は【あいつ】の紹介の方が精度が高そうだ」
「そっか」
「しかしなー。おれは個人的に【あいつ】に頼むのは面倒でな……」
「そうも言ってられないでしょ。今は少しでも多く【ねこね】さんに関わる情報が欲しいんだから、地道にやっていくしかないよ」

 顔をしかめる侑子を諌めるように、晴彦はやや強めに言った。しかし尚も眉を寄せる侑子を見て、晴彦は軽く溜息を漏らすと、カップを持っていない方の手で侑子の顎をくい、と持ち上げた。

「それに……私達はそのために結婚したんだろう? 侑子」

 不意に顎を持ち上げられて目を白黒させている侑子にはお構いなしに、晴彦はちゅ、と軽く唇を落とした。途端に侑子は顔を真っ赤に染め上げ、先ほどまでとは打って変わっただらしない口角であわあわと音にならない言葉を紡いだ。

「ふぁい……」

 侑子がやっとの思いで捻り出した返答に、晴彦はニコリと笑ってコーヒーに口をつけた。

 唐突に、事務所の電話が鳴り響いた。侑子は一瞬ぴくりとしたが、表情を整えてサッと電話を取った。

「はい、アットグラフィック……ああ、リュミヌーさん。ええ……あっ、はい!……はい、わかりました。すぐそちらに向かいます」

 侑子は電話を切ると、晴彦に向かってニヤリと目配せした。

「噂をすればなんとやらだ。『進藤電脳探偵事務所』の方にお声がかかったぞ。今、リュミヌー珈琲にクライアントが来ているそうだ」
「なるほど?」

 侑子の言葉を聞くや否や、晴彦は外出用の黒い中折れ帽に手をかけて頭の上に載せた。侑子は着物の襟を正して、デスクの前のノートPCを閉じ、それを小脇に抱えた。

「では、行こうじゃないか旦那様」
「承知しました。お嫁様」

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