転生の繰り返し

いつぶりですか
1年ぶりくらい
ここに帰ってきましたね。
きっかけをくれた方には感謝します。

ゆっくりですが
断片的ではありますが
ノンフィクションです。

わたしは、過去に5回以上
自分を殺しています。
それは、肉体的な死ではなく、
精神的な死のこと。
肉体的な死=自殺は、
3回くらいしましたが、死ぬところまでは
至りませんでした。
本当には、
死にたくなかったんでしょう。

過去から遡って、
いわゆる小説のように
時系列に沿って書ければいいんでしょうが、
それは疲れるので
わたしは、
書きたいように
思い出したものからここに記します。

一番大切なことは
「それでもわたしは存在する」

走ってくる車がいることは、
なんとなくわかっていた。
ここで、飛び出せば理由もあるし、
これでしばらくは
学校にも行かなくていいし、
両親も可哀そうと可愛がってくれるだろうと思って、
車の前に走っていった。

なぜだろう。
なぜ、その車は急ブレーキをかけれたんだろう。
わたしは、死角から飛び出したはずで
間に合うわけがないのに。
わたしにはぶつかったが、
わたしは転んだ。
打撲程度。
痛くも痒くもない。
小学一年生。

今思えば、
わたしの人生にまったく関わりのなかった
その車の運転手を犯罪者にしないで済んだこと
奇跡だったなと思う。

わたしは、三人兄弟の一番上の長女、
弟二人。
「しっかり者」として、
親に期待され、洗脳され、支配され、
わたしの意思は
早々になかった。
親の言いなりにしないと、
親が苦しむと、
幼稚園が終わった頃には認知していた。

よく友達どうしの会話である
「戻れるなら、いつの時代に戻りたい?」
わたしは、今まで迷わず「幼稚園」と答えてきた。
本当のわたしが存在したのは
その時までだったからだと思う。

父親は、陸上自衛隊で防衛大学卒の
一応エリートだったというのは
すごく後になって知った。
自分が高校生になるまでは知らなかった。
なぜならば、家がとても貧しかったから。
父は趣味にお金をかける人だった。
結婚していても、優先順位は
「家族」よりも「自分」だった。

仕事で海外出張も多かった。
趣味のお出かけで一週間以上いないこともあった。

母親が三人の子育てで、しんどかったのは
今ではわかる。
でも、当時はなぜ
わたしは母親の世話をして、
弟、
特にまだ小さかった6こ下の弟の面倒を
すべて任せれるのか
よく理解ができなかった。
可愛い可愛いと思っていた弟のことが
憎い
と思ってしまうほど、
わたしの生活は子育て中心、
母親のお手伝い中心で
子どもの頃の思い出って他はなんだか
もやがかかったみたいで思い出せない。

当時住んでいた
自衛隊官舎4階のベランダから
下の草っぱらを見つめて、
落ちたらどうなるんだろうか
そんなことを考える回数も多かった。

一つ下の弟が自転車で転んで
小学校の入学式に
顔にばんそうこうを貼って写真に写らなくては
いけなくなったことがあったが、
わたしが弟の前方を走っていた時に
後ろが気になって急ブレーキをかけたのが
原因で転んだので、
わたしのせいで弟がこうなり
弟は可哀想と、
母親だけでなく他の人にも言われた。
弟も「〇〇ちゃん(わたしの呼び名)が突然止まるから転んだんだよ」と
ストレートに言ってくるので
わたしが悪いことは理解した。

6こ下の弟は、悪さをよくするやんちゃ坊主だったので
度々腕が抜ける(見た目は抜けていなくて、関節が外れる)ことが
度々あった。
家族旅行先で、母親がピリピリしている際に、
宴会場で遊んでいた弟はなかなか部屋に戻ろうとせず、
そこにあった机にしがみついて離れなかった。
わたしが、早く行かないと母親にわたしが怒られるので、
弟の左腕を引っ張った。
痛かったんだと思う。
すごく泣いていた。
やはりまた腕が抜けてしまったので、旅行先でどこかの病院に
行ったのかな。
もうここはわたしは放心状態だったので、
記憶がない。

この二人の弟の怪我が、
わたしのせいだったエピソードは
母親がその後
繰り返し
繰り返し
繰り返し
事あるごとに
言っては聞かせるので
私の脳裏からは離れなくなった。
わたしは、
永遠否定される人間で
心の奥底にしまいたいつらい話も
リアルに言い聞かせされるので
苦しいという気持ちも
つらいという気持ちも
出さなくなったし、
自分の感覚を「分離」させて
おくようになっていった。

今はここまでにする。
次回は、
父親の浮気、不倫、
そのときの母親がわたしにしたこと

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