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「投馬国」の探索と「水行二十日、水行十日、陸行一月」

本文は、「邪馬壱国・倭国」三十国の比定内の「音形」読みによります。

「投馬国」を探す最適な方法は、「卑弥呼」の母国である「邪馬壱国」を確定することです。

※「邪馬壱国」の確定
「邪馬台国」では有りません。「邪馬台国」は、「卑弥呼」が死んだ後に,「台与」が「狗奴国」内に確立した「台与」統一王権内の「狗奴国、倭国」範囲です。

〇(魏志倭人伝内)「女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。

以北 … 「魏志倭人伝」内で「倭国」内の「戸数、道理」を略載したのは、玄海灘面の「末盧国、伊都国、奴国、不弥国」だけです。
以北が玄海灘面の「末盧国、伊都国、奴国、不弥国」ですから,この反対の以南は、背振山地を越えた筑紫平野です。筑紫平野の吉野ヶ里遺跡面に(卑弥呼の母国)「邪馬壱国」があります。

上記関係で「倭女王の邪馬壱国」は「有明海、筑後川」に面した筑紫平野にあると確定します。

「有明海、筑後川」に面した筑紫平野の「倭女王の邪馬壱国」に「水行十日」の行程で到着できる距離を考えます。

「水行十日」ですから「筑後川、有明海」に続いた水路面になります。幸いに「有明海」に続いた湾水は「島原湾、八代海」があります。

地図を見て「水行十日、陸行一月」ですから、水路が続いて陸路も続いた場所を探しますとちょうど良い場所がありました。「宇土半島、大矢野島、維和島、戸馳島」に囲まれた「三角港」です。

※三角港 … 宮崎康平氏のまぼろしの邪馬台国で時化に強い港と褒めちぎっています。

「三角港」を抱えた「宇土半島」を「投馬国」内の一部としますと、「(※)不弥国」の「志賀島」から「水行二十日」の表現が、玄海灘を西に進み,平戸瀬戸を通り、北九十九島を通り抜けて南行し,橘湾に入って「三角港」に入る距離の「二十日」と

「三角港」から「島原湾、有明海」を通り筑紫平野内の「倭女王国・邪馬壱国」への日数が「十日」との距離が二分の一の長さと見えますので適切かと考えます。

また、「三角港」を囲った「宇土半島」面から「島原湾、有明海」沿岸をあるいて「邪馬壱国」への行程に日数が一月というのも(何の根拠もありませんが)適切かと思えます。

「投馬国」
したがって「投馬国」は、「宇土半島」を国内にして「緑川」の右折湾曲内領土であると確信します。

※「不弥国」… 「倭国」倭王国である「邪馬壱国」が陸地内であるために中国と交易するための外洋港がありません。
そこで、従属連合国である「奴国」の「博多湾」内になる「能古島、志賀島、玄界島」を「邪馬壱国」が徴収して,外洋船の港がある「志賀島」を利用して中国との交易をしていたと考えます。

つまり、「不弥国」は、「邪馬壱国」倭王国の飛び地国になります。

「不弥国」から「投馬国」。「投馬国」から「邪馬壱国」の行程図


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