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「国歌君が代の由来」(昭和16) その1

森山孫十郎

 薩摩藩軍楽伝習生のどの名簿にも、伝習中に死亡した森山孫十郎の名が記されています。明治2年9月に鹿児島から上京して、半年にも満たない明治3年1月12日(陽暦1870年2月12日)に病没(18歳)し、曹洞宗大圓寺(三田高輪付近)に墓碑が建立され、その墓前には30名の伝習生の名と献辞が彫られた献灯碑が建てられました。これは、大正から昭和初期になされた当時の関係者からの聞き書きに基づく記録ではなく、おそらく明治3年に石に刻まれた確かな記録です。現在は寺が杉並区和泉に移転(1908年:明治41)していますがこの灯籠は現存していて大圓寺境内*1で見ることができます。

大圓寺灯籠碑

 小山作之助*2氏はこの灯籠碑に刻まれた人名等を調べていて、大圓寺に依頼していた調査報告が大正3年(1914)1月に届いています。
 献灯碑には30名の氏名が刻まれています。

灯籠碑に刻まれた氏名

 碑には献辞が刻まれています。(書き写した時点で破損し不明となっている箇所があったと大圓寺からの手紙にあります。)

筆者意訳試み
「 明治二年九月に森山孫六は東京から横浜に派遣され英国人から音楽を精力的に学んでいました。十二月、島津藩神田屋敷に戻り、正月十二日に十八歳で死去し東京の大圓寺(三田高輪)に葬られた。鎌田政徳に碑文を依頼したが辞退された。      明治三年一月十五日 甲斐盛顯*3 」

*1 薩摩藩軍楽隊の碑 
*2 小山作之助(こやま さくのすけ1864-1927)は、日本の教育者・作曲家
*3 甲斐盛顕については不詳だが、島津家の文書に1858年(安政5)に書役「甲斐弥右衛」の名がある。
                  

                        writer Hiraide Hisashi


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