「ザ・ファー・イースト」を読む その1
ザ・ファーイーストと薩摩軍楽伝習生
「ザ・ファー・イースト*1」はジョン・レディー・ブラック*2が明治3年(1870)5月に横浜で創刊した英字新聞で、紙面には記事に即した写真が貼付*3され隔週で発行されました。その発行部数を知ることができていませんが1部1ドルで販売されました。
この新聞には薩摩藩軍楽伝習生に関する記事が少なくても3回(4記事)掲載されました。
・1870年7月16日 第1巻4号 「鐘楼」「薩摩バンド」
・1870年9月16日 第1巻8号 「山手公園での最初の演奏」
・1871年7月 1日 第2巻3号 「山手公園の野外ステージ」
第1巻4号 1870年7月16日(明治3年6月18日)
鐘楼(THE CAMPANILE)
(筆者抄訳)
日本は昔から鐘で有名で、その多くは非常に大きく、ヨーロッパの大きな鐘を日陰に追いやるほどの大きさです。丘の上にある寺に気づいている外国人は限られています。(中略) 7月16日にブラック氏とカメラマンが茅葺屋根の鐘楼と梵鐘の取材をするために妙香寺を訪れると寺の建物の中でたくさんの日本人の若者が笛やラッパでイギリスの曲や招集ラッパなどの様々な曲を練習しているのが見えました。
薩摩バンド
《筆者によるあやしい翻訳》
腰に2本の刀を携える薩摩藩の若者は、大英帝国第10連隊軍楽長フェントン氏の指導で洋楽を学んでいます。日本で最初の洋式軍楽隊を編成しようとする試みには難しさを感じていましたがそれは間違いでした。
フェントン氏はバンドの写真を撮影するように依頼してきました。そこで私たちは30人ほどの若者が寺とすぐ近くの家に分宿し1日に2回フェントン氏の教えを受けていることを知りました。彼らはすでに楽譜を書いたり読んだりすることが上達していて、かれらが書き写した楽譜は最上のものでした。ラッパの音は巧みで笛の曲も上手に演奏します。
カメラマンの準備ができるのを待っている間に彼らは整列し、いくつかの行進曲と舞曲を演奏しました。特に太鼓奏者はかなりの水準の演奏をしました。私たちはとても興味深い時間をすごしました。
写真を見てもわかるように若者の何人かは紳士的な風貌をしていて、全員が驚くほど知的で愛想がありました。彼らは自分達の毎日の学びとフェントンの教えをとても気に入っているようで、フェントンも彼らに熱意をもち教えているようでした。
このバンドに関する最も目立つことは、大半の楽器が日本で製造されたということです。科学的な楽器メーカーが作ったものではなく、ロクロ細工師と銅職人が見よう見まねで作ったということです。したがって、笛の調律は完全ではありませんでしたがそれなりにそろった音で演奏されていました。4鍵の笛は1つ1ドル半*4で江戸と横浜で作られたものでしたが、ロンドンで作られた元の笛の値段は12シリング*5です。
指揮杖を持って前に立つ隊長は、フェントンの世話をしたり隊員に指示を与えたりします。彼らは通常、和服で練習をしていますが写真を撮ることをフェントンから提案された時、ラッパ吹きの2人が「着替えよ」と号令をかけ、10分後には全員が再び整列し楽しそうに演奏を始めました。
このバンドのために軍楽隊で使われる全種類の最高品質の楽器がロンドンのディスティン社に注文されていて、彼らはその到着を待ち望んでいます。フェントン氏は楽器の到着後3ヶ月以内に若者たちが簡単な曲目を公開演奏できるようになることを期待しています。
脚注
*1 ザ・ファー・イースト(The Far East)1870年(明治3)から1878年(明治11)まで発行された英字新聞
*2 ジョン・レディー・ブラック(John Reddie Black、1826-1880)英国人 出版者、ジャーナリスト
*3 写真を印刷する技術が確立していないので、プリントした写真が貼られていた。
*4 1ドル半は現在の6万円程の価値
*5 12シリングは3万円程の価値
ファーイーストの他の記事
・「ザ・ファー・イースト」を読む その1
・「ザ・ファー・イースト」を読む その1-2
・「ザ・ファー・イースト」を読む その2
・「ザ・ファー・イースト」を読む その3
・「ザ・ファー・イースト」を読む その4
・「ザ・ファー・イースト」を読む その5
・「ザ・ファー・イースト」を読む その6
・「ザ・ファー・イースト」を読む その7
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writer Hiraide Hisashi
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