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言わずに後悔した一言

洗濯物を干しているとき、ふと思った。

昨日、先生に「お世話になりました」って、なんでその一言を言わずに帰ってきたんだろう…。

言えたはず。
言うべき一言だった。

だって、次診察に行く日には、ちがう先生に変わっているんだから…。

耳の聞こえ方に異常を感じて耳鼻咽喉科を受診。

紹介状を書いてもらい大きい病院に移った。

その中の耳鼻咽喉科。

待合室からナイキのシューズを履いている先生の足元が見える。

若いんだろうなって想像する。

名前を呼ばれて中に入る。

椅子に座って先生と対面する。

30〜40代といったところ、かな。

男性だった。
簡単な自己紹介と挨拶をする。

言葉の発し具合から、どちらかと言えば寡黙なイメージと勝手に捉えた。

高からず低からず、静かなトーンで喋る。

カーテンが間仕切りとなっている診察室。
隣の先生の声の方がまだ聞き取れてしまう感じ。

いつから、どんな症状が出ているのかを先生に話す。

するとパソコンに向かい、カタカタと打ちだした。

何年も前、フルで受けた健康診断の内診のとき、初めて見た光景を思い出した。

患者と面と向かって話しを聞く地方の医者とちがって、こちらの話しを聞きながら直にキーボードを打つ方式を。

たしかに、顔を見て話しを聞いてくれるのは、患者としては安心するのだけど、こちらを向いてじっくりと話しを聞くべきは、外科内科医じゃなくて心療内科の医師。

患者は気持ちじゃなくて症状を伝えるまで。

どんな症状が出ているのか、聞きつつその場で打つ。
記録としてそれ以上に確かなものはないんだから。

買い物してくる食材ですらメモらなかったら一瞬で忘れ去る。

それを、いつ、どこがおかしいと感じて…とか、急に痛くなってきて…とか、話しを聞いているだけじゃカルテには残せない。
あとで書いているんだろうけど…。

わたしが話しをどんどん続けてしまって、途中でどうなったのかが追っ付かなくなってしまうと「どうでしたっけ?」と聞かれたけど、話しを戻して先生に伝えるのにイラッとはしなかった。

患者の話しに耳を傾けながら打つ方にも集中しないといけない。

患者は話すだけ。
わたしは話しつづけるもんだから、タイプミスでもしようもんなら、話しだけがどんどん先にいってしまう。

パソコンはできて当たり前な時代ではあるけれど、先生はタイピングの、じゃなくて、患者を診るプロ。

それからはゆっくりめに、先生の指が止まりかけるくらいのところで次を切り出すみたいに順を追って話した。

聴力や状態から突発性難聴と診断された。

そうだろうなって自己判断しながらも不安に包まれていた気持ちは、先生に言われたことでほっとした。

そこまで落ち込まなかった。

難聴の原因となった、気持ちの落ち込みに比べたら全然と言えるくらいに…。

それから薬を処方するのに、先生は辞書を開き確認しはじめた。

背表紙には治療薬って見えた気がした。

おお…
今ここで調べながらなんだ…と内心思った。

自分もこれから仕事をする上で辞書は欠かせないアイテム。
辞書をひくということは、その内容のちがいはあれど、とても大切なこと。

わたしが使っている国語辞典を下に見るつもりはないけれど、薬となると人の命にかかわる。

とんでもない種類があるんだろうし、飲み合わせだったり副作用だったり、とにかくまちがいがあってはならない。

確実に処方するためでもあるし、用量を決めるのも体格だったり先生の知識次第。
それらを確認していたんだろうと思う。

難聴の治療法は、とにかく早目が肝心。
ステロイドを服用するって聞いたことがあったから、自分にもステロイドが処方されるのか、ちょっと気になっていた。

塗ったことしかなかったステロイド。
それが錠剤になっているものを3段階に分けて、徐々に減らしていくという。

飲みはじめてから、帰宅した主人は「聞こえてきた?」と口癖のように毎日言ってきた。

いや、ステロイドを飲んだからといって、はい!聞こえてきました〜とはならない。

心配してくれているのはわかった。
患った本人はなるようになると腰を据えていて、それよりまわりの人に影響をあたえてしまった。

難聴がどんなものなのかわからないし、未知なる恐怖と感じてしまっているからなのか…。

飲み始めてから3日後、急に副作用が出てきて辛かった。

辛さを乗り越えたことで聴力が戻ってきていると感じられた。

薬がなくなる数日前、音楽を聴くことに抵抗がなくなるほど、鮮明に聴こえがよくなった日があった。

わたしはとても感心した。

早目の受診が功を奏したのだけど、2週間分処方された薬で聴力が戻ったことに。

再度診察に行った。

検査を受けると聴力は両方同じように聴こえているようだった。

ただ、雑音のような耳鳴りとはまたちがう耳鳴りがすることを先生に伝えた。

右耳だけから聴こえていた耳鳴り。
低めでザーとか、ジーといった感じの耳障りな音。

うるさい。

一度はなくなったのに、今度はもっと高めな、ジーという音が二重になって聴こえる。
それが心拍と同時に波打つときもある。

気にし始めると雑音に聴こえてしまう…。

正常ならばそんな音はしないんだから。

しかも右耳からではくて、なんなら両方から聴こえる感じさえする。

そのことを先生に伝えると「耳鳴りは残るかもしれない」と言われた。

どうやら脳も関係しているらしい。

そのあたりはあまり覚えていないけれど「治療としては成功したと思います」と言われ納得した。

これが難聴になった結末なんだなって受け止めたから。

適切な治療を受けなかったり、治療が遅れたりしただけでも症状は残る。

完治するとは言い切れない病気とも聞いていたし、中には閉塞感をずっと感じながら過ごしている人も世の中にはいるんだろう。

そう考えたら、聴こえるだけで十分。

初診の時、MRIも受けることになっていた。
予約が随分先で5月末日。
その翌週に結果を聞きにいく。

ただ、先生は異動があるとのことだった。

だから次病院に行く日には、もうその先生から話しは聞けない。

最後までその先生で完結してほしかったなぁ…。
そんな気持ちだった。

耳鳴りに薬は出ないということで、その先生の診察は終わった。

それなのにわたしは「ありがとうございます」の一言だけ言って席を立った。

14日間のうちたった2日だけ、先生に診察してもらって話しも聞いてもらった。

たったの2日。
時間にしたらものの30分ほど。

内科でも外科でもなく、初めて耳の不具合で紹介状まで書かれて、ことの大きさに戸惑った。

治るのかなって不安だったし、気持ちがかなり不安定にもなった。
心を守ることの大切さも、難聴になって心底感じた。

耳鳴りは残ってしまったけれど、それでも先生の処方してくれた薬のおかげで、こんな程度で済んだことに感謝している。

席を立ってから、改めて「お世話になりました」って言わなかった自分。

後悔したところでもう遅いけれど…。

「お世話になりました」。





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