溶ける解ける綻びる

 第2回三服文学賞で次点をいただいた作品です。残念でしたが嬉しい。発表は5月だったので今さらになってしまいましたが、よろしければぜひ。
 

けるほどけるほころびる」

 指先に振動。引き戸を開けた音が反響して、白い湯気と蒸された空気に出迎えられた。
 シャワーがタイルを打つ音。お湯が流れる音。人の声。温泉というのは不思議なもので、どこであっても諸々が行き渡る構造になっている。
「はーやーくー」
 母音の目立つ発音に後ろから小突かれ、俺は足の裏をタイルにつけた。入口付近は少しひんやりする。久しぶりだーと見回す声は軽やかで、変わらない蓮沼に俺は苦笑した。
「かけ湯してから入れよ」
「お父さん……!」
「同い年だよ!」
「ほぼ一年違いのね」
 しかも俺の方が後のな。四月初旬生まれの蓮沼と三月下旬生まれの俺。誕生日忘れられがち同盟だねと親指を立てられた高一の初対面が懐かしい。あの頃から十年もたっていないのに、最近あちこち重く感じるのは運動不足だろうか。二人並んでかけ湯をして、長方形の広い湯船につかる。
 熱が染み、吐いた息は上へと向かった。隣で伸びをした蓮沼の右足が俺のふくらはぎを直撃する。
「痛い」
「御免遊ばせ」
 蹴り返そうと左に動かした足はお湯を撫でた。
 げ。
 もしかして。お湯の中を見やると蓮沼の足がない。
「――またお前はすーぐとける……」
 俺は思わずため息をついた。とけて見えなくなった爪先から膝のその上をたどると、太もも辺りがふやふやになっている。
「ごめんごめん」
「いいけどさあ」
 どうせそのために連れてきたんだろと言うと、蓮沼はちらりと俺を見て「まあね」となぜか得意げに笑った。
 今朝方のことだ。久しぶりの連休で眠りこけていた俺を電話で叩き起こした蓮沼は、休みは休むべきだ、光合成も大事だから出かけよう、肉なら食べられる? 等々まくし立ててきた。そしてその煩ささに俺が根負けした途端、実は温泉旅館を予約してある、と告げてきたのだ。
「何かあったの」
 話くらいなら聞く。蓮沼は高校の時から何かあると俺を温泉に――それも天然温泉でないと駄目だ。趣ある昔ながらの銭湯も、娯楽の詰まったスーパー銭湯もとけないらしい。だから必ず天然温泉に――誘ってきた。
 けれどうーんと気の抜けた声を出した蓮沼は「何っていうか、そういう時期なんだよね」とボヤいた。じゃあ俺は必要なかったのでは。率直に述べると俺が誘われるのは、特別落ち込んだ時には一人でいたくないという気分の問題だ。蓮沼だっていつも誰かといるわけじゃない。もしかして旅行代金安く済ませようと思ったろ。
 おい、と睨むと蓮沼はまた笑う。そうしている間にも尻、腰、腹、と順にとけていく。
「なあ岬」
「何?」
 俺の腕に寄りかかってきた頭がするりんと下がっていく。血の巡りの良くなった顔がぽってり笑う。
「満喫しろよ」
「え?」
 聞き返すと同時に、蓮沼は完全にお湯にとけてしまった。水の輪が広がり、別の輪っかと鉢合わせて消える。空気が揺れる音がして――あれ?
 シャワーが並ぶ洗い場。入口すぐの物置棚。ジェットバス。真四角の小さな湯船。露天風呂。そしてここ。見回しても、温泉内のどこにも人がいない。
「……そんなにとける?」
 落とした呟きは大きく響き渡り、俺は身体をずるずるお湯に沈めた。本当にそういう時期だったのか、どうやらみんなとけてしまったらしい。
 頭を縁に預けて天井を仰ぐ。身体の芯が温められてふわふわする。
 目を閉じると眩しい光が和らいで、耳がしんと広がった。お湯が出ている。ちょっと周波数の合わないラジオに似た、さざ波のような音が満ちている。
 一人でいるのはアパートと同じなのにまるで違う。蓮沼はもしかしてこのために俺を連れてきたのだろうか。
 ゆらゆら。さわさわ。そのままぼうとしていると、開放感に誘われて大きく息が出た。
 すうっと要らないものたちが抜けていく感覚。頭から足先へ身体が軽くなっていく。ゆっくり、ひとつずつ。深い呼吸をしていた肩に、何かがさらりと触れた。少し乾燥した、あるいは固くなった人の皮膚に似た感触。
 ――ああそう。そうだな。同じだと思ったけど、そもそも今、ひとりじゃないしな。
 目を開けて座り直すと、跳ねたお湯が顔にかかった。弾みで流されそうになった卵に下から手を添える。指の腹に当たる細かな凹凸、さらりとした感触。
 そのうち自然に割れるらしいけど、こうして隣にいるからには起こしてもいいのだろう。人差し指でつつくと、温泉たまごの殻に細かなひびが入った。
「――ただいまー」
 母音の目立つ発音。よっこいせ、というかけ声を伴って、中からほやほやの蓮沼が現れた。
「――おかえり」
「ね、結構いい時間だったと思わない?」
 飴玉のように丸い眼が二つ、くるんと俺を覗く。
「……そーですね」
 久しぶりに見た生まれたての蓮沼は、ふにゃりと瞼を緩めて笑みを浮かべた。どことなく誇らしげな成分を含んだそれは、防ぎようもなく俺の顔に伝播した。

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