消極的自由のメカニズム
うちの隣のレストランは、
少し変わった特徴があります。
駐車スペースはあるんですが
白線が引かれていません。
大きなL字型のスペースに
自由に停めるシステムになっています。
そのため、日によって
車の停まり方がバラバラ。
お構いなしに
縦列でポンポン奥に停めるパターンもあれば、
出るときのことを考えたのか
中途半端な位置で縦列するパターンもあります。
たまにイケてるのが
斜めに停めるパターンで、
入るのも出るのもラクですが
その分、台数は入らなくなります。
そしてL字の折れた位置に
横に停める頭の悪い人もいて
人々の戸惑いとセンスの違いを感じます。
不思議なことに、
白線のない駐車スペースは
人々に不自由さを感じさせています。
「好きにしていいよ。」
と言われると
かえって何もできなくなる現象と似ています。
初めて彼氏の家を訪れた少女のように
固まってしまいます。
急な休みをなぜか持て余してしまう
現象ともソックリです。
自由なはずなのに、不自由だと感じる。
不思議な現象に思えるんですが
こうなってしまうのは
そもそも『自由』には
意味が2つ含まれているからです。
調べてみると自由には、
1.自分の意のままに振る舞えること。
2.他からの束縛から解放されること。
の2つの意味があります。
多くの学生や社会人が
心の底から自由を欲していますが
自分の好き勝手にやる自由よりは
他からの束縛から逃れたいという
解放を意味する言葉になっています。
おそらく2のニュアンスで発しています。
これは牢獄を抜け出そうとする
囚人と同じ気持ちです。
囚人も学生も社会人も全く同じように
「自由になりたい!」と思っています。
牢獄も学校も企業も
構造はほとんど変わりません。
辞書を引いて
自由を考えていくと
『他者に縛られずに
自分の意のままに行動すること!』
これが自由ってことになります。
・・・ところが、
レストランに駐車する人々は
不自由さを感じています。
自分の意のままに駐車しているのに
(これでいいのか。)
とモヤモヤしてしまいます。
状況は自由ですが、自由とは感じていません。
辞書に書いてある『自由』が
受け入れられていないわけです。
これは、どうも
辞書に書いてある本来の自由と
人々が求めている自由は
少し違うようです。
おそらく駐車しようとしている人は
白線のない駐車場よりも
白線がしっかり引かれている駐車場の方が
自由を感じます。
洋服を買う人は
自分で店頭で選んでいるときよりも
オーダーメイドで選んでもらっているときの方が
自由な気がしています。
自己診断をするよりも
占い師にズバッと言われた方が
解放的な気分になります。
つまり、多くの人が
本当に求めている自由とは
『強制されずに決めてもらうこと』
を意味していることになります。
(私が望んでいることを
誰かに決めて欲しい!)
と思っているわけです。
こちらの同意のもと縛ってほしい
というドM的自由な願望ってわけです。
拘束を望んでいないのに
拘束を求めに行ってしまう・・・
『拘束依存症』が多いということです。
あなたがどうかはさておき、
多くの人が”拘束に”縛られています。
自由なようで
実は自由ではないことに
注目してください。
以上がタイトルと対照する
受動的自由・消極的自由の表れです。
一方で、
僕たちが目指していきたいのは
能動的・積極的自由です。
他者から強制されることなく
自分で決めたことをやることです。
「これだ!」
と自分の意志のままに
行動していくことです。
自分で透明なラインを引いて
そこに駐車するまで
これで積極的自由を行使したことになります。
思うだけじゃなく
行動しないと自由になりません。
『自分で決めて、やってみる』
このシンプルなフレーズが
本当の自由ということです。
自由って実は、責任が伴います。
自分で決めるので
自分のおかげ・自分のせいになります。
これが苦しい人は
今までどおり思うがままに
縛ってもらってください。
自分で責任取れない人は
自由になれないってことです。
覚悟がいるんです。自由って。
とはいえ、自分で決めた時点で
自由を半分つかんでいるわけです。
優柔不断でもいいので
とにかく自分で決めること。
「今日は何をしようかな?」
朝にこれを考えるだけでも
日常が潤っていくはずです。
すなわち、
自由とは
自分の内側にあるもの
ということです。
僕らはすでに、結構自由に生きています。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
nagatouch