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私の住居遍歴

私の父は銀行に勤めていましたので、住まいは銀行の寮でした。
記憶は無いのですが私が幼稚園のころには、大阪の豊中市にある銀行の寮に住んでいました。
古い写真と母から聞いた話では、共同の台所、共同便所で、風呂は銭湯でした。

小学校に入る頃(1967年/昭和42年)、兵庫県の園田市にある寮に移りました。
4階建ての鉄筋コンクリートの建屋が3棟あり、独身寮も併設された立派な物でした。
野球のグランド、バスケットボールのリング、テニスコートもある大きな施設でした。

間取りは、4LDKでバスルームもありはじめて自分の部屋をあてがわれました。
中学1年までの約7年間をここですごしました。

寮に住める期間は決まっており、それまでに家を建てるか借家に移らなければならない事情がありました。

中学1年(1974年/昭和49年)の後半ごろ父は新大阪にマンションを購入し、一家は引っ越しをしました。
マンションは、11階建ての大型マンションでしたが移りすんだ先は2DKの狭い間取りでした。
その頃、兄弟3人で5人家族で住むにはとても狭い環境になりました。

母の家財道具は入りきらず、鏡台とタンスを引っ越しの日に廃棄する事になりました。
父親は、借金を嫌い現金で購入できる金額のマンションにしたようですが、母親の理解は得られませんでした。
母親は一戸建ての広い家をのぞみ、そのことを口癖のように言いました。

家を建てたいという母親の思いが私の意識に強く影響しました。

結婚してからの住まい(1984年/昭和59年)

大阪府堺市 泉北ニュータウンの泉ヶ丘の府営住宅 家賃25,000円
結婚してすぐに娘が生まれました。間取りは2DK 風呂はありませんでした。
6畳が2間、6畳程度のキッチンと玄関脇に3畳ほどのホールがあり、広々とした間取りでした。
勤めていた会社は、紳士洋品メーカーで景気が良く、年3回賞与がありました。
会社の先輩が30代で相次いで一戸建ての家を購入していました。
この頃、良く万博公園のABC住宅展示場に家族で見学に行きました。
その頃気に入っていたハウスメーカーは、パナホームでした。
天井近くまである長く重厚な扉が気に入りました。
天井も高かった印象があります。
デザインだけで好き嫌いを決めていました。
住宅展示場は、将来を夢見る楽しい場所でしたが若い夫婦には注文住宅は高嶺の花でした。
建て売り住宅も見て回りました。
家を買うと言うよりも、勉強のために見て回る感じでした。
当時大阪の堺市に住んでいましたが、奈良県との県境、五條市に住宅開発のチラシが入り、見に行った記憶があります。
建て売りでしたが、3000万円ほどでした。
車で峠を越えて、えらい山奥のように記憶しています。

阪神が優勝し(1985年/昭和60年)、バブル景気が始まる頃です。
NTTが上場(1987年/昭和62年) 
会社の先輩は、株を買っていました。
客先の洋品屋の主人も株の話でもちきりでした。
土地の値段が上がり、家を買えなくなった人がそのお金でニッサンのシーマを買ったと言うニュースを聞きました。
株をやらないと、家を買わないとどんどん値上がりして手に入らなくなる。
そんな風潮がありました。

バブル景気が1986年~1991年の51ヶ月ですから、そのまっただ中で建て売り住宅のチラシを見ては、見学に行きました。
奈良の山奥の建て売りが3000万円もする時代でした。
その頃の私の年収は250万円ほどで、とてもローンを組める経済状態ではありませんでしたが、「家を建てたい」という気持ちがあり住宅展示場や建て売り住宅の見学をしていました。

気持ちの中にはいつも「家を建てたい」という感情がありました。

測定器メーカに転職(1990年/平成2年)が人生の分岐点

大阪の洋品メーカーから測定器メーカに転職しました。
その会社は、二部上場の会社で一部上場を目指していました。
毎年1.5倍の売上増をおこないどんどん営業所を出していました。
私は静岡営業所に配属になりました。
大阪を出ることは無いと思っていましたが静岡転勤を決めました。

洋品メーカーからの転職のきっかけとなった事件はまた別の機会にお話しします。

最初の転勤地は静岡県

静岡県清水市の借家 3LDK 6畳が3つに6畳程度のキッチン。
風呂もありました。
清水の借家は新築で間取りは、大阪に比べて同じ6畳でも広く感じました。
はじめてフローリングの6畳の部屋に4人掛けの大きなソファーを入れました。
足を投げ出して寝ることもできる紺色のソファーと、大型のテレビだけの部屋で、ソファーに座ってテレビを見るのが楽しかったです。
その頃二人目の娘も生まれ、親子4人の生活でした。

転職により経済状態が変わりました。
先輩と同行訪問をした営業車の中でした年収の会話を覚えています。
どれくらいの年収か先輩に聞き、逆にどれくらいが希望なのかを問われたとき300万は欲しいと答えました。
すぐに600万になるよと言われたことが驚きで今でも覚えています。
会社は、その年に一部上場を果たし記念にオメガの時計を頂きました。
1年後浜松営業所を開設し転勤しました。

2度目の転勤は浜松(1991年/平成3年)

静岡県浜松市根上り松の借家
3LDKの2階建てアパートで、新築でした。
A棟とB棟がならんで建っており、棟の間にシンボル的な樹木がありました。
1棟4世帯の白い外観がしゃれたアパートでした。
10帖のLDKと対面キッチンが特徴でした。
バルコニーが小さく、布団が干しにくい事が欠点でした。

静岡にマンションを購入する(1992年/平成4年)

新聞のチラシで見たマンションに見学に行き、その場で契約してしまいました。
75平米 専用庭48平米 約4000万円
2階建てのマンションで、1階中央部の専用庭のある物件でした。
その部屋がそのマンションで一番広く、モデルルームになっていました。
見学で、買うと言ったときの営業マンの表情が印象的でした。
その場ではなく、営業所に車で連れて行かれ契約しました。
ローンが組めるなら、と言う条件で契約しました。
前の会社にいたときも、ローン計画を組んでもらったことがありましたが、年収が低いので成り立ちませんでした。
会社が上場会社で、年収も800万ほどありましたので、すんなりとローンが組めました。

その晩は、4000万の買い物をした興奮で眠れませんでした。
はじめて家を手に入れることができました。
その後すぐにバブル崩壊。
翌年には、東京に転勤になり、浜松のマンションは1年しか住むことができませんでした。

3度目の転勤は東京1993年(平成5年)

東京に転勤
責任者として東京の立川営業所に転勤を命じられました。
浜松のマンションには、結局1年ほどしか住むことが出来ませんでしたが、とても楽しい生活を娘たちと送った記憶があります。
東京転勤に当たって、浜松のマンションは借家として人に貸し出すことにしました。
すぐに借りては見つかり、ローンの返済の一部をその家賃を当て、マンションの原価償却分を経費にしてサラリーマンの源泉徴収分を年末調整で取り戻すことを学びました。
東京の住まいは、
東京都福生市のマンション(3LDK)借家 56平米 
浜松に比べて狭くなりましたが、その方が家族が一丸となれるのではないかと考えて決めました。

4度目の転勤八王子、5度目の転勤厚木、6度目の転勤岡崎、7度目の転勤東京、8度目の転勤厚木と5回の転勤を経験しました。
住まいは、福生から、稲城の公団住宅に変わりました。
稲城市の公団住宅(3LDK)借家 86平米
厚木以降は単身赴任にしました。

そして会社を、サラリーマンをやめる(2003年6月)2度目の転機

42歳の時に退職しました。
勤めていた会社は順調で、売上が1000億を超えたあたりでした。
自己都合の退職でした。
退職後の思惑は外れ、1年ほど職が無い状態でした。
紆余曲折があって自営業をはじめました。
2004年7月頃から売上が出るようになりました。

経済的な事情が良くなり、また家を建てる考えが復活しました。
当時、稲城市の公団住宅の子ども部屋に事務所を構えていました。
大きな机を置いて、電話を引き、冷房のない部屋で汗だくで仕事をしていました。
自宅だけでなく、事務所を兼ねた広い一戸建てを考えるようになり、

2006年5月21日に、事務所兼自宅の建設をする事を決めました。
2年後の2008年7月を目標としました。
事業は順調に伸び、現金で3000万ほど貯金が出来た時点で具体的に住宅展示場めぐりを再開しました。

いよいよ動き出します。

つづく

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