明治神宮は、「外苑」 を2回獲得している。
「国有境内地処分法」と附帯決議について
調べると興味深い事情が、浮かび上がって来る。
1回目の獲得は、大正15年10月22日。
明治神宮奉賛会により外苑が造営され、この日に明治神宮に奉献された。大正9年に先に完成していた内苑と外苑が揃い、明治神宮の神域が確立した。
内苑+外苑=明治神宮
「内外両苑相須チテ神域ノ規模是レ備ハリ」
(相須チテ あいまちて→相まって)
2回目の獲得は、昭和32年12月25日。
敗戦後、政教分離が進められ、「国有境内地処分法」に基づき、国から時価の半額による払い下げが行われた。
昭和31年12月25日、国有地であった外苑の敷地(境内地)の売買契約を締結。翌昭和32年12月25日、即納金の支払いに伴い所有権の移転登記が行われた。これにより名実共に、外苑は晴れて「宗教法人」明治神宮の所有地となった。良く知られている時価の半額での払い下げである。ここで初めて「私有地」となった訳だ。なお、半額とは言え明治神宮にとっては巨額であるので、10ヶ年の割賦支払いが完了したのは昭和42年だった。
境内地の払い下げに至るには、
対大蔵省の❶「境内地譲与問題」から始まり、
対文部省の❷「外苑帰属問題」という戦後の外苑の帰属を巡る争奪戦まで発生し、解決は容易ではなかった。
※ 境内地(けいだいち・神社や寺院の敷地)
そこで明治神宮は、外苑を「獲得」する為の正当性を主張しなければならなくなった。
それは、外苑創建の趣旨を振り返り、外苑というものが何なのかを明らかにすることであった。
外苑は、700万人超の人々による、1,000万円超の献金、全国各地からの献木、全国各地から参集した青年団の勤労奉仕などにより、民間団体である明治神宮奉賛会により造営され、明治神宮に奉献された。
奉献に際しては、「外苑将来の希望」の一札が明治神宮に託された。外苑造営に携わった多くの人々の真心が込められた約束事だ。
それは「将来に亘り、重要なる文書の一つであり、外苑を語る者の、忘れてはならぬものである。」(明治神宮五十年誌より)
創建の趣旨と言われる、外苑創建に際しての理念や約束事により、外苑の使用目的、使用方法は自ずから制約があり、明治神宮には、永遠の美観の統一を維持する使命が課せられている。
また、後述の様に、社寺への国有境内地の譲与・払い下げに当たっては、衆議院での法改正の際に附帯決議があり、払い下げを受けた明治神宮は、境内地の管理運用に重大な責任を負っている。
たとえ所有者である明治神宮であっても、「私有地だから、どう使おうが勝手だ」という論理は成り立たないのだ。
明治になり、古代からの由緒ある社寺も含め、全国の社寺の境内地は全て国有地とされていた。
それまでの中世近世を通じて、寺社領としての所有が認められていたが、明治維新により、それを保証していた各地の封建領主(大名)や幕府が消滅したので、不安定な状況に陥った。
明治政府は、廃仏毀釈や神道の国家統制の流れの中で、社寺領上地令、地租改正処分により全てを国有地とした上で、境内地を社寺へ無償貸付とする形が整えられた。
大正年間に創建された明治神宮も、元々国有地(青山練兵場)だった外苑の敷地を、国から無償で借用する形をとっていた。奉賛会は、旧青山練兵場の敷地に加え、更に隣接地を買い足し、造成し、植樹し、西洋式の公園の中に絵画館を中心とした各種施設を建設した。(奉賛会が買い足した隣接地は、神宮に奉献したが、所有権の移り変わりがどうなっているのかは未確認で分かりません。)
一方、内苑の敷地は、元は南豊島御料地(代々木・皇室の所有地)であった。こちらも無償貸付であった。
《↑ 文部科学省のHPに、戦後の宗教政策について分かりやすい記載があります。》
昭和27年3月31日、敗戦により永らくGHQに接収されていた外苑が、明治神宮に返還された。これを含めると外苑の「獲得」は3回になるが、趣旨から外れるので数えないこととする。
敗戦後、GHQによる政教分離政策が強力に進められた。国家神道の仕組みは解体され、各神社は一般の宗教法人とされた。国による各種宗教団体への国有地の無償貸付も、宗教団体への援助となることから不可能となった。
そのため、国有地である全国の社寺の境内地を、各社寺へ適切に引き渡す仕組みとして、昭和22年4月8日、「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」(第二次国有境内地処分法・昭和22年法律第53号)が公布された。
第二次というのは、GHQの要請を、昭和14年の「(第一次)国有境内地処分法」という既存の法律を全面改正する事で対応したためだ。
これは他の法案と共に衆議院・貴族院でそれぞれ審議されたが、この時の貴族院議長は、外苑を奉献した明治神宮奉賛会会長 徳川家達の長男である徳川宗家17代 公爵 徳川家正であった。節目節目で名誉な役割を担う家柄なのだ。最後の貴族院議長となった彼は、外苑に隣接する千駄ヶ谷村の徳川公爵邸で産まれている。(Wikipediaでは千駄ヶ谷村が出生地となっている。)現在のJR千駄ヶ谷駅前、東京体育館一帯のの広大な敷地で千駄ヶ谷御殿と呼ばれた。父である16代の徳川家達は、奉賛会会長であるから外苑に隣接した敷地を購入できたのかというと、そうではなく、各地を転々とし、千駄ヶ谷村に居を定めたのは明治10年だった。以上蛇足。
(令和6年9月16日追記)
大正14年9月20日、午前2時徳川会長邸(千駄ヶ谷)失火全焼す。
主管官庁である大蔵省は、この法律に基づき実際の処分を行ったが、法律制定の背景、国会での附帯決議について次の様に触れている。破格の条件で国有地の譲与・払い下げを受けた、宗教法人の果たすべき社会的役割(敗戦直後の社会状況に限定されてはいるが、当然現代においても果たすべき役割は変わらないはずだ。)、本法の趣旨に反せざる境内地の管理運用の重い責任についてだ。これは極めて重要だ。
「私有地だから、どう使おうが勝手だ」という論理は成り立たないのだ。
本法の趣旨とは何か。これを審議した衆議院での附帯決議の際の詳細を報告書でみてみる。
「本改正法により譲与、半額売り払いを受けました土地が自由に処分され、宗教目的に供しておる土地が売却される等のことがありますれば遺憾であるが、この対策はどうかとの質疑に対し、法規上の監督はできないから、宗団内部の自治にまつ」
前置きが長くなり過ぎてしまったが、「国有境内地処分法」に基づき、明治神宮は大蔵省に境内地の譲与を求めることとなった。
内苑については、「無償譲与」、
外苑については、「時価の半額での払い下げ」
という決着になったが、詳細は次回へ《続く》。
なお、主に通勤電車の車内で作成している素人の読み齧りによるものですので、思い込みによる事実の誤認、引用資料の誤り、誤記など、誤りは気付き次第訂正致します。何卒ご容赦ください。
参考資料
「明治神宮五十年誌」
「明治神宮外苑七十年誌」
「社寺境内地処分誌」
「明治神宮 内と外から見た百年」
他