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外苑と女子学習院

 現在、明治神宮外苑に「隣接」する秩父宮ラグビー場が在る区域には、大正7年9月から昭和20年5月25日の山の手大空襲で焼失するまで女子学習院が堂々たる校舎を構えていた。

 敗戦後、占領軍の駐車場と化していたその焼跡に、昭和22年11月6日「東京ラグビー競技場(東京ラグビー場)」が建設された。
 それまで外苑の明治神宮競技場をホームグラウンドの様に使用していた日本ラグビー協会は、競技場が占領軍に接収されてしまったので、新たなホームグラウンドを探し求め、この焼跡に白羽の矢が立ったのだ。
 秩父宮雍仁(やすひと)親王のお力添えとラグビー関係者の大変な苦労の末にラグビー場は建設された。
 昭和28年、スポーツの宮様として親しまれた秩父宮の薨去後に「秩父宮ラグビー場」と改称された。

宮様がモデルとされる「主将」像 
富永直樹 作 1952
2019.01.02 撮影 下駄


● Q1. 「女子」の学習院といえば、都立戸山高校のお隣りを思い浮かべるが、何故青山(外苑)なのか。
女子学習院とはなにか。
女子学習院と外苑とはどの様な関係があったのか。

● Q2. 外苑と一括りにされがちな秩父宮ラグビー場は、何故外苑の一部でないのか。

※ 「まとめ」 に、私なりの回答A1. A2. をまとめてみました。

各種Webサイト、資料からの引用によりまとめてみた。


独立行政法人日本スポーツ振興センター
「秩父宮ラグビー場の歴史」 

https://www.jpnsport.go.jp/chichibunomiya/sisetu/tabid/82/Default.aspx


鹿島建設によるラグビー場建設の貴重な記録と解説。



女子学習院への変遷 と
青山(外苑)に移転するまでの経緯


まず、学習院とは「華族ヲ教育スル所トス」と謳われた教育機関である。( 華族でない者の入学も認められた。)

幕末の京都で設立された学習院に由来し、
明治10年  華族学校 が華族会館(学校を設立する為の華族の団体)による私立学校として神田錦町に設立。開校式にて「学習院」の名称を明治天皇より賜る。
紆余曲折の末、明治17年に宮内省所管の官立学校となった。



❶ 学習院(女子教科)→華族女学校
 →学習院女学部

 当時の学習院には、男子教科と女子教科の二種があったものの、男子偏重の傾向があり、女子の在籍人数は男子の1/3程度であった。
 他の女学校が相次いで設立される中で、華族の女子教育の必要性が高まっていた。

 昭憲皇太后(当時は皇后)は、女子教育に大変熱心に取り組まれた。
 皇后より令旨が下され、華族女学校が開設された。
 皇后の思召しによる華族女学校の開設は、宮内卿伊藤博文による宮中改革に叶うものであったという。

「学習院規則中女子教科を廃止し更に華族女学校を設置の件」

明治18年11月13日 学習院より分離し、四谷尾張町に
                                    華族女学校開設。
明治22年7月6日      永田町へ移転(生徒数増加のため)
明治39年4月11日     学習院に併合、学習院女学部となる。
明治45年2月11日     女学部本館が火災により焼失。

明治45年2月11日 永田町の学習院女学部本館焼失。
(写真は上記「沿革 | 学習院女子中・高等科より)

 永田町の女学部は、教室と運動場が狹隘であったことから、火災以前より移転が検討されていた。
 移転先候補地だった虎ノ門御料地(旧 工部大学校)は難点が多く、代々木練兵場(現明治神宮境内)、千駄ヶ谷御料地、旧青山練兵場(現憲法記念館敷地、又は日本青年館敷地)が検討対象となったが決定には至らず。
 女学部は、以後6年程、焼跡に建てられた仮校舎での授業を余儀なくされる。

御料地とは、皇室の所有地のこと。

注)上記候補地は、「女子学習院五十年史」の記載だが、代々木練兵場 = 明治神宮境内ではない。具体的に練兵場のどの位置を想定していたのだろう。
千駄ヶ谷御料地とは、新宿御苑のことかしら。

❷ 学習院女学部の青山移転

大正3年8月5日  宮内省と内務省との間で、旧青山練兵場西南隅の校地借入の交渉がまとまる。
大正3年11月6日       内務省から宮内省へ校地貸付。
大正3年11月24日     内務省と敷地の形状面積についての交渉を重ね、13,146坪余の引渡しを受ける。

(旧青山練兵場は、陸軍省の所管だと思いがちだが、何故内務省が宮内省と交渉しているのか?については追って触れます。下の「内務省管理以前の敷地沿革図 明治神宮外苑敷地略図」内の凡例にある様に、所管の変遷は、陸軍省→農商務省→内務省という流れ。)

 大正4年5月28日、赤坂区青山北町4丁目6日番地2号宅地 678坪余を購入、御料地として林野管理局長官より引渡しを受ける。(元は寺域であったが、既に他所へ移転しており、当時は空地であった。)
 その後の常磐会館(同窓会)、植物園の一部に渡る地域に該当する。
(下記「女子学習院敷地貸借関係図」の左上、色の濃い斜線部分)
 後に再調査の結果、677坪余と更生される。 

「内務省管理以前の敷地沿革図
明治神宮外苑敷地略図」
「明治神宮外苑志」より
左下の黄土色部分が学習院女学部
「女子学習院敷地貸借関係図」
「明治神宮外苑志」より
西を上部にしたもの。
正門前「通路」に2列18本の銀杏が植栽された。


 大正5年1月、陸軍省より近衛歩兵第四連隊兵営側に12間幅の道路を設置したいので、女学部の使用地を東方へ数間後退させて欲しい旨の要求があった。
 既に校舎新築の入札も終わっており陸軍省の要求に応ずることは難しく、再三の合議の末、道路幅12間の予定を8間とし、校地西側の一部を5間(その面積365坪余)削り、東側に3間(その面積351坪余)拡張することに決定した。その結果、校地の全面積は、13,860坪余となった。


12間 ≒ 21.82m
8間 ≒ 14.55m
その差 7.27m
この道路が、そのまま現在のスタジアム通りになっているとすれば、あの狭い道路は今の1.5倍ほど、広かったのかもしれない。
せめて歩道がもう少し広ければ良かったのに残念だ。

スタジアム通り
2023.04.01 撮影 下駄

❸ 学習院女学部 →女子学習院

大正5年5月 辰野金吾を工事監督として校舎建築に着手。
大正7年7月           本館・西館・南館の主要部が竣功。
             8月          女学部は青山へ移転。
             9月5日     学習院から再独立し、移転と共に
                             女子学習院と称することとなる。
            11月14日 皇后をお迎えして開院式を挙行。
同年末には、付帯工事・移築工事もほぼ完了した。

「新校地は則ち神宮外苑の一角、気清く木立繁き浄境、新成の校舎は則ち結構壮大、甍高く礎固き学堂、ここに内容外観二つながら備わりて、教学いよいよ進み、校運ますます開くるに至る。」

  「女子学習院五十年史」

「正門は高雅な古代風で総ての形式を閑院宮家の正門に模し、四囲の石垣の材料は重(おも)に、旧御台場に用いた石材(以下略)」

「東京日日新聞」大正7年9月10日
「学習院100年史」

 その後も、卒業式には皇后をお迎えすることになる。
外苑に面した正門と、4列の銀杏並木に連続する2列18本の銀杏並木は、皇后の乗られた馬車、鹵簿を迎え入れ、お見送りする大変格式の高い空間だった。
 現在は、ラグビー場の裏門の様な趣きだが、黒く煤けた焼け残りの石塀と18本の銀杏並木が往時の記憶を留めている。

 大正12年9月には関東大震災が発生。質実堅牢を基本方針とする建築としたため、校舎の被害はほとんどなかったという。隣接する造営中の明治神宮外苑が完成するのは、大正15年10月である。
 この後、大正13年7月17日、校地北側に幅5間、長さ117間余を加え、昭和9年3月12日、常磐会館前の地所8坪余を道路拡張に提供したことにより、校地の全面積は、14,440坪18となった。(下記 昭和12年版 平面図記載の面積)

「女子学習院全景」右
「女子学習院全景」左
明治神宮外苑
千駄ヶ谷方面から明治神宮外苑
右上に女子学習院
(写真は上記「沿革」より)
右端の白いものは飛行機の機体の一部か。
上部は明治神宮野球場。
左側は近衛歩兵第四連隊。
右下の広場は外苑内児童公園。


女子学習院平面図
「女子学習院一覧(昭和10年)」

女子学習院 編『女子学習院五十年史』,女子学習院,昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1465912 (参照 2023-10-09)
女子学習院平面図
2枚に分割された画像だが、昭和10年版にない情報が記載されている。
女子学習院 編『女子学習院一覧』昭和2年 甲,女子学習院,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1280097 (参照 2023-10-09)

  総面積       14,440坪1合8勺
内訳 普通御料地   677坪4合5勺
無償使用地  13,762坪7合3勺

旧 女子学習院正門と正門前通路、18本の銀杏並木
(明治神宮外苑七十年誌より)
現在の旧正門前通路
2022 撮影 下駄
現 秩父宮ラグビー場 東入場口
旧 女子学習院 正門跡
2022 撮影 下駄
旧女子学習院正門の石垣の遺構
御台場の石材が使用されたという。
右端の損傷と表面の黒ずみは、空襲 
被災の痕跡だろうか。
欠損部はコンクリートで補完されている。
正門の中央部は木造だった。
2022 撮影 下駄
2024 撮影 下駄
上記「鹿島の軌跡 第16回秩父宮ラグビー場」より
「野球場から見た焼け跡」を一部拡大
正門付近の石塀と18本の銀杏並木が確認できる。
正門 「学習院百年史」より
隅に石塀が確認できます。
「女子学習院開院記念絵葉書」
「女子学習院全景」より正門部分の拡大
「閑院宮邸警備ノ士官候補生」絵葉書 下駄私物
モデルとされた閑院宮邸正門
永田町にあった。現在の衆議院議長公邸の地。
都立青山高校、スタジアム通りに面した側にも
僅かですが遺構と思われる石垣があります。
位置的には、常磐会館の門柱と石塀でしょうか。
銀杏並木側にはテニスコートとの境にも残っている様です。

2024撮影 下駄
女子学習院平面図 拡大
常盤会館前に「門」が確認できる。
「鹿島の軌跡 第16回秩父宮ラグビー場」より
「東京ラグビー競技場設計図」
左側に常盤会館前の門が残っていることが分かる。

↑  『質実堅牢の石塀 -青山の女子学習院-』
 出典がよく分からないが学習院アーカイブズさん系資料。学習院アーカイブズさんでは、『秩父宮ラグビー場内、女子学習院遺構調査(延智子女子中・高等科教諭との共同調査、2012年11月)』を実施したそうだ。
(学習院アーカイブズ・ニューズレター第2号)
 現在、石塀の他に残存するものが何かないのか、気になるところ。


❹昭和20年5月25日「山の手大空襲」による校舎焼失

 関東大震災ではびくともしなかった質実堅牢の校舎も、米軍の空襲にはひとたまりもなく、コンクリート建物以外は焼失してしまった。
 徳川邸などを一時仮校舎として凌いだ。

❺昭和21年3月 戸山(近衛騎兵連隊跡)へ移転

     戸山町に移転し現在の校地に至る。

❻昭和22年3月 学習院 + 女子学習院  →財団法人学習院を設立後、学校法人学習院に(昭和26年)

学習院 女子中等科・高等科

❼昭和25年 学習院大学短期大学部開設
 →学習院女子短期大学に改称(昭和28年)

❽平成10年 学習院女子大学に改組

❾令和8年 学習院女子大学を学習院大学に統合予定


 学習院女子大学 国際文化交流学部を学習院大学 国際文化交流学部とする予定。
 女子中等科•高等科を除き、明治時代から続く「女子」の名称が消えてしまう見込み。


青山練兵場の変遷

青山練兵場〜(日本大博覧会)
〜明治天皇大喪儀〜明治神宮外苑

《 練兵場の変遷(概略)》

 外苑、女子学習院の敷地である旧青山練兵場について。
 在京の陸軍諸部隊の練兵場は、日比谷から順次移転を重ねて皇居(宮城)より遠ざかっていった。練兵場はこれだけではなく、他にも存在する。

明治4年     陸軍操練所
      ↓(改称)
明治18年 日比谷練兵場(→現 日比谷公園)
      ↓(移転)
明治19年 青山練兵場(→現 外苑、秩父宮ラグビー場他)
      ↓(移転)
明治42年 代々木練兵場(→現 代々木公園、NHK他)

 青山練兵場は、明治時代の主要な練兵場であり、大日本帝国憲法発布記念の観兵式、有名な日露戦役凱旋観兵式など、明治天皇による観兵式が多く催され、それに因む「御観兵榎」(初代)が最近まで現存していた。

《 青山練兵場 → 代々木練兵場 》
   明治神宮外苑造営

 軍拡により青山が手狭になったことから、代々木への移転が検討される。

明治40年9月27日 青山練兵場の移転決定。

明治40年11月11日 新練兵場として代々木の敷地決定。
用地買収、造営開始。

明治42年6月 代々木練兵場完成
明治42年7月5日 正式に「代々木練兵場」

 明治50年の御即位50周年を祝して日本大博覧会が開催されることとなり、明治40年11月、会場予定地は青山練兵場(第一会場)と代々木御料地(第二会場)と決定した。両会場を結ぶ連絡通路建設が進められることになる。
 第一会場(青山練兵場)は、博覧会終了後に東京市の公園とすることで政府と市で合意された。
 青山練兵場の内、陸軍大学校の馬場を除く敷地を、博覧会の第一会場として使用するため、売却費として250万円が博覧会費用から支出され、その資金をもって陸軍省は青山の2倍の面積の代々木の敷地を得ることになる。

 軍用地であった練兵場は、陸軍省から博覧会を所管する農商務省に移管された。農商務省内に、博覧会調査会、日本大博覧会事務局があった。
 明治44年、財政難により博覧会は結局開催されることなく無期延期となり、翌年中止が決定。当て込んでいたロシアからの賠償金が得られなかったことが原因だという。

「無期延期となり、敷地は総て内務省に返還せられ、東京府知事之を管理し、其後明治神宮造営局に引き継げり。」(外苑志)
旧青山練兵場は、農商務省から内務省に移管された。


明治45年7月30日、明治天皇崩御
即日「大正」に改元。

大正元年8月5日、大喪使より農商務省へ、大葬儀の式場に大博覧会用地の内、旧青山練兵場全部を使用することについて問い合わせ、了承を得る。

大正元年9月13日、青山葬場殿(旧青山練兵場)にて、大葬儀葬場殿の儀)が行われた。

 明治神宮の創設が協議される中で、内務大臣の下に神社奉祀調査会が設けられた。中止された「大日本博覧会」の第一会場、第二会場予定地がそれぞれ明治神宮内苑、外苑として決定する。
 次いで内務省に明治神宮造営局が設けられた。


大正3年7月6日 第7回神社奉祀調査会にて、旧青山練兵場が「外苑」として正式決定。

「第七回神社奉祀調査会にて青山練兵場一帯を明治神宮附属外苑に決定して、内閣の認可する所となり、ついで明治神宮奉賛会の設立を見るや、外苑造設工事の設計及施行は同会より明治神宮造営局に委嘱することとなり、是に至りて東京府知事の管理下にありたる敷地全部は造営局に移管せり。(中略・外苑工事完了、外苑の奉献手続き終了後)昭和2年3月31日、造営局官制は廃止となり、敷地全部は内務省に移管し、再び東京府知事の管理する所となれり。」

「明治神宮外苑志」

 明治神宮創建を主唱し、明治神宮奉賛会を設立した渋沢栄一、阪谷芳朗、中野武栄らは、日本大博覧会にも関与しており、両事業の関連性・継続性が認められるという。
渋沢栄一 東京商業会議所 初代会頭
阪谷芳朗 大蔵大臣→東京市長(渋沢栄一の娘婿)
中野武栄 東京商業会議所二代目会頭

《 青山練兵場の所管の変遷 》

①陸軍省所管時代

明治20年4月より練兵場として用地買収
明治42年10月、日本大博覧会開催の為め、農商務省へ管理転換

②農商務省所管時代

大正2年8月、大博覧無期限延期の為め、農商務省より内務省へ還付。

③内務省所管時代

農商務省より還付を受けたる後、
大正2年8月22日 訓令第502号を以て東京府へ管理方を命ず。
大正3年7月6日 第7回神社奉祀調査会に於て青山旧練兵場跡(明治神宮)附属外苑設備に関する件決定

(大正3年8月5日内務省と宮内省とで学習院女学部校地貸付の交渉がまとまる。)
大正3年11月6日宮内省へ学習院女学部整地として土地を使用せしむ。


 つまり、青山旧練兵場跡地を外苑用地とすることに決定した後すぐに、外苑用地の一部が内務省から宮内省へ学習院女学部校地として貸付されたのだ。これについて明治神宮奉賛会は貸付を認めた。
 奉賛会としては、貴重な外苑用地が目減りすることを快くは思っていなかっただろう。日本青年館建設の為に敷地が使用されることになった際も、青年団の奉仕活動が神宮の造営に多大な貢献を果たしたことから、仕方がなく認めている。
 奉賛会にとって外苑敷地は「神聖不可侵ノ地域ト諒解罷在」、「絶対ニ地域ノ縮小ハ不可然ト存居リ候」という認識だった。

 この時点で、元は青山練兵場として一体だった学習院女学部校地は、利用目的として明治神宮外苑の一部ではなくなった。(日本青年館も同じ。)
 しかし、陸軍大学校の様に、陸軍省の管轄のまま、練兵場の一部として内務省に管理転換されなかったものとは違い、女学部敷地は、一体として内務省に移管され、外苑の設立が決定した後に宮内省への貸付が決定した。外苑造営よりも先に完成し、外苑内部に向かって正門を開き、それに対応する正門前通路と銀杏並木が外苑のレイアウトに盛り込まれている。正門の目の前はもう外苑の内部だ。
 隣接する外苑児童遊園は、意図があってそこに配置されたのかどうかわからない。附属の幼稚園も併設されていた中で、最新の輸入遊具もある児童遊園は正にあるべき位置に配置されている。
 女学部(女子学習院)は、外苑の施設ではないながらも、「外苑の敷地」上に存在し、緩い一体感がある様に思われる。


④明治神宮造営局所管時代

大正7年7月18日東京府に於いて保管せし土地を造営局へ管理換。外苑の造営が開始される。

⑤東京府所管時代

大正15年10月22日、完成した外苑を明治神宮奉賛会が明治神宮に奉献。
昭和2年3月31日造営局官制廃止と共に、内務省を経て東京府に移管し、神社用地とした。

⑥国有境内地処分

 戦後、国有境内地の社寺への譲与・払下げにあたっては、現に宗教活動に用していることが条件だった。
 従って、本来なら青山練兵場の一部として外苑の敷地であったはずの女子学習院の区域は、国有境内地処分に際し、明治神宮の境内地とはされずにそのまま国有地という決着となったのだ。
 これが、秩父宮ラグビー場が外苑の一部とされない理由だ。
 ただし、敷地を宮内省に貸付をしていた事情から次のような取り扱いがなされた。

昭和二十七年十二月十六日、境内地処分中央審査会で、外苑を主とする敷地(省略)について、時価半額払下げが適当との決定をみた。外苑敷地の一部(省略)は内苑境内地とともに無償譲与された。
外苑境内地のうち日本青年館敷地、宮内省に貸与していた女子学習院跡敷地13,713坪06
(約45,253平方メートル)は宗教活動に必要ないものとして、境内地から除外されることになった。なお、女子学習院跡敷地は当初、明治神宮外苑用地であり、明治神宮は国との間に随意契約締結の既得権をもっていたため、日本ラグビーフットボール協会に東京ラグビー場(二十二年十一月竣功、現在の秩父宮ラグビー場)として貸与するなど、用地を明治神宮が国より賃貸を受ける形で関東財務局に対する事務代行一切を明治神宮が執り行ってきた。

「明治神宮外苑七十年誌」より 

(専用のラグビー場を求めていた、ラグビー協会の)香山蕃理事長が管理者である外苑奉賛会の鷹司信輔宮司と交渉して使用許可書をもら(った。)

「近代ラグビー百年 香山蕃 追悼」より  


戦後の国有境内地処分については、未完ですが↓をご参照ください。


 女子学習院の焼跡が、東京ラグビー場(秩父宮ラグビー場)となった経緯は冒頭の通り。
 日本ラグビー協会と明治神宮との貸借関係がその後どうなったのか不明だが、協会は土地使用料が支払えなくなってしまい、苦労して建設したラグビー場(建物)は国有化されてしまう。
 土地が、宮内庁から大蔵省関東財務局の所管になってなってしまった関係で使用料が値上がりしたのか。   
 当初は、無料かよほど低額だったのだろうか

この貴重なメッカを守るために日本協会はいち早く財団法人に改め、その保存につとめたが昭和37年にいたって危機が訪れた。土地の主管が大蔵省に移り借地料が年度ごとにふえつづけ、36年度に至り滞納金が三千万円をこえてしまった。やむなく日本協会は文部省と交渉し、ラグビー競技の優先を条件に国立移管ということで滞納を相殺することにふみきり、昭和37年3月10日覚え書をかわした。

「近代ラグビー百年 香山蕃 追悼」より  

昭和37年10月には、年々値上がりする土地使用料(*8)をラグビー協会で維持するのが難しくなり、国立競技場に移管。
(*8)宮内庁が物納財産としたため、大蔵省管理物件になり、関東財務局の所管になったことによる。

「『鹿島の軌跡』第16回秩父宮ラグビー場」より


追記(2024.11.17)
やはり、当初の明治神宮への使用料というのは「御賽銭」ほどであったようだ。

 日本協会は、これが保存発展のためにも、協会組織を財団法人に改め、その保存に万全をきしたのであったが、はからざる事情が、これを国立競技場に附属する国有財産に移管せざるを得ない始末となった。もともとこのラグビー場の敷地は明治神宮の管理するところであり、土地の所有権は国にあったとはいえ、協会の交渉相手は神宮であった。はじめは借地に対する地代ともいうべき使用料について確定した約定もなく、いわば御賽銭ともいうべき性質のものを神宮に納めるだけでよかったので、初年度は2万円ぐらいを神宮へ奉納するにとどまった。ところが国の国有財産の整理がすすむとともに、この土地の主管が大蔵省関東財務局に移り、協会の交渉相手は神宮から財務局に変ったのであるが、財務局は経済事情の変遷にかんがみて、29年度には、年額149万円の土地使用料を要求し、更に30年度178万円、31年度205万円、32年度308万円と急ピッチで増額をしてきた。協会は29年度以来、しばしば財務局と折衝したが、年々協会の可能の限りをつくして納付する借地料も、財務局の極端な引上げに追いつくことができず、さらにひきつづいて財務局は契約の内容を一方的に更改して、34年度655万7千円、35年度1002万8千円、36年度1465万6千円と鰻のぼりの多額を要求し、36年度限をもって合計3124万円の滞納金を支払えと通告してきた…」

日本ラグビーフットボール協会
「日本ラグビーフットボール史」より


まとめ

●Q1. 「女子」の学習院といえば、都立戸山高校のお隣りを思い浮かべるが、何故青山(外苑)なのか。
女子学習院とはなにか。
女子学習院と外苑とはどの様な関係があったのか。

◎A1. 明治時代に、昭憲皇太后(当時は皇后)の令旨により、華族の女子教育充実の為に学習院から分離して設立された女子教育機関。華族女学校、学習院女学部と変遷を重ね、青山の地への移転と同時に女子学習院となった。外苑の敷地を貸付され、校舎を構えていたが、戦災(山の手大空襲)で校舎を焼失して、戦後戸山町へ移転した。
 歴代の皇后をお迎えした格式高い正門は、2列18本の銀杏並木の正門前通路を通じて、絵画館前の4列128本の銀杏並木に接続する。(外苑の銀杏並木は146本で一体とされ、同時に植栽された兄弟姉妹樹である。)
 外苑の施設ではないながらも、校舎の配置が外苑のレイアウトに組み込まれた女子学習院は、外苑の一部と言っても過言ではない。
 明治天皇・昭憲皇太后を顕彰することが目的の明治神宮外苑の性格上、昭憲皇太后に関わりの深い女子学習院は外苑にとっては特別な存在と言うこともできるだろう。


● Q2. 外苑と一括りにされがちな秩父宮ラグビー場は、何故外苑の一部でないのか。

◎A2. 外苑の敷地上に校舎を構えた女子学習院が、山の手大空襲で校舎を焼失。その焼跡を国(明治神宮)から借りて建設されたのが東京ラグビー場(秩父宮ラグビー場)だった。
 敗戦後、GHQによる政教分離政策により、国有境内地処分が行われた。それまで全て国有地だった全国の寺社境内地を、それぞれの寺社に無償譲与、半額売払いを行った。明治神宮の境内地の内、(一部に例外はあるが)外苑は半額売払い、内苑は無償譲与されて明治神宮の「私有地」となった。
 現に宗教活動に用していることが条件であった為に、女子学習院の敷地は明治神宮には譲与も払下げもされず、国有地のまま(国有存置)となった。
 その後、国有地の上に建つラグビー場施設についても国有化され、国立競技場の一部となり、現在は独立行政法人日本スポーツ振興センター(JSC)が運営を行なっている。
 それにより、秩父宮ラグビー場は明確に明治神宮外苑とは切り離されてしまった。しかし由緒正しき「旧女子学習院正門跡」は、痛々しい空襲の傷痕を残しながら、今も変わらず2列18本の銀杏並木を従えて外苑に繋がっている。


※ほとんどは、「明治神宮外苑志」、「明治神宮外苑七十年誌」、「女子学習院五十年史」、「学習院百年史」などからの引用です。出典の未表記や、著作権的な問題を曖昧にしたままの箇所がかなりありますが、公開します。申し訳ありません。ゆくゆく、おいおい、整え改善する所存です。
誤りは気付き次第訂正します。

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