【外苑将来の希望】
【外苑将来ノ希望】 現代語訳
今から100年前のことです。
明治神宮外苑は、政府ではなく「国民」による「国民的事業」として造営され、明治神宮に奉献されました。
その際、将来に渡り遵守して欲しい「8つの希望」を申し添えていました。
今、明治神宮に託されたその希望が踏み躙られようとしています。
素人の拙い現代語訳ですが、1人でも多くの人に内容を知って頂ければと願っております。
ちょうど、本日3月3日の日本経済新聞のコラム『春秋』に取り上げられました。神宮外苑のトリセツ(取扱説明書)とはうまいこと言うなぁと思います。
大正15年(1926)10月22日
大正時代から昭和時代へと代わる約2ヶ月前、
明治神宮外苑竣工奉献式が、聖徳記念絵画館前及び広場にて挙行された。
摂政宮殿下(裕仁親王)
明治神宮奉賛会 総裁 閑院宮殿下
高松宮殿下 がご臨席。
内閣総理大臣 若槻 禮次郎 以下の各大臣
明治神宮奉賛会 会長 徳川家達 他役員会員、造営局、神宮の職員関係者が列席した。
明治神宮奉賛会は、完成した外苑を明治神宮へ奉献するにあたり、明治神宮宮司へ「将来の希望」についての書面を差し入れた。
「外苑将来ノ希望」
「外苑将来の希望」
明治神宮ならびに同外苑の創建事業は、大正元年(1912)7月 明治天皇崩御以来の全国民の真心が込められた願いに基いたものであり、大正9年(1920)10月に社殿及び内苑が竣工、同年11月に御鎮座があり、外苑は次第に工事が進行し、今年10月に滞りなく完成できたことは、我々創建計画に最初から携わった者にとって非常に満足するところであります。
外苑は、主に明治神宮奉賛会が奉献を行ったものであり、その造営工事は(内務省)明治神宮造営局が担当施工しました。明治神宮奉賛会は大正4年(1915)9月6日、会長(徳川家達・徳川宗家第16代当主)以下が就任し、この日をもって正式に発足したのでありますが、関係有志者は、大正元年(1912)8月以来創建のために準備行動し熱心に奔走尽力して参りました。奉賛会の会員は10万7千余人、賛助員は約700万人であり、日本国内のみならず海外に居住する日本人も我先にと奉賛会に加入しました。寄せられた献金は約6,711,000円であり、これに天皇陛下からの御下賜金300,000円、預金利息約2,733,000円、その他諸収入を合算すると収入総額は約10,060,000円となりました。(物品及び労力の奉献はこれには含まない。)この内、工事費その他に支払い又はこれから支払うべきものは約9,994,000円であり、今後残務を処理してなお残金が発生する場合は、外苑維持資金として明治神宮に奉献する予定であります。
外苑工事の設計施工、絵画館壁画の画題の調査、選定壁画の揮毫については、一流の技術者・画家及びその事に最も精通した人物に依頼して、最も慎重に考えを究めて万全を期したのであります。
外苑の造営事業は、実に多年(大正元年から数えると14年間)に渡る大事業でありました。そして献金の募集に際しては、国民は競ってこれに応じ、その応募額は遥かに予定額を超過し、その応募者は未曾有の多人数に達したにも関わらず、現金払い込みについては一人の未納者もいなかったことは、この様な多額の寄附金募集に関しては、今まで類例が無かったことであります。また工事の施工にあたり、その請負人は勿論、職工・人夫の誰もが(明治天皇への)報恩の思いをもって工事に臨んでいるために、工事監督者は逆に過労にならない様に戒め、必要以上に作業が鄭重になり過ぎない様に注意をすことが、時々あったといいます。とりわけ志願して工事に従事している地方青年団員(全国各地から参集した青年団員)に至っては、実に模範的な働き振りでありました。又、工事材料、庭園の木石類の購入に際しても、納入者が自ら進んで品質の良いものを並外れの低価格でもって納入、あるいは献上した者が少なくなかったといいます。この様なことは、詩経に言うところの「(霊台を経始し、これを経しこれを営す。)庶民これを攻(おさ)め、日ならずしてこれを成す。経始(けいし)亟(すみや)かにすること勿(な)かれと。庶民、子のごとく来たる。」
『周の文王が、展望台(霊台)を作ろうと、工事を始めた。
すると文王を慕う庶民たちは工事に従事して、幾日もかからずに完成させてしまった。文王は庶民を思って急がないでやってくれと言った。庶民は文王を父の様に慕って、その子供のごとく集まってきたのである。』
であり、歴史上特筆すべきことであります。
※ 省略された直前の「経始霊台 経之営之」が「経営」の語源。
こうして民力をもって出来上がった霊台などの公園を、民と偕(とも)に楽しんだ。水戸の「偕楽園」の語源。
参考「全文完全対照版 孟子 コンプリート 野中根太郎 訳
明治天皇及び昭憲皇太后の聖徳の恵みが深く民心に染み渡った結果に他ならず、万世一系、義においては君臣の間柄であり、情においては親子の間柄である、二千五百余年来の光輝ある歴史を有する我が建国精神の一端を、外苑という形として世に示すことができたことに、我らは深く感動せずにはいられないのであります。
今や外苑全部を貴職(明治神宮宮司)に引き継ぐにあたり、将来ご注意いただきたい条項を左に申し入れ置きます。
(一)外苑は、明治天皇及び昭憲皇太后を記念し、明治神宮崇敬の信念を深く厚くさせ、自然に国体上の精神を自覚させるという理想を基礎とし、一定の方針をもって設計造営されたものであるからして、今後この外苑の管理及び維持修理上においても常に右の理想を失うことのない様、特にご注意いただきたいこと。
(二)外苑は、国民多数の報恩の真心により明治神宮に奉献するものであって、他の遊覧のみを目的とする場所、例えば上野・浅草両公園の様な場所とは性質が異なるので、今後外苑内には明治神宮に関係ない建物の造営を遠慮するべきなのは勿論、苑内の広場を博覧会会場等のため、一時的な使用に提供することもなさらない様、ご注意いただきたいこと。
(三)外苑は、常に清浄を保ち、修理を怠らず、不潔不浄であることをが無い様、深くご注意いただきたいこと。
(四)外苑の美観統一(共通の基準に基いた秩序のある美観)を永遠に維持していくには、常設の適当な施設を必要とし、その機関として専門委員を常置し、将来に建造物・木石等の奉献の申し出があった場合には、まずはその位置、設計等につき専門委員の意見を求め、諾否を決定する様な方法を採用いただく様にしたいこと。
(五)憲政記念館は木造であるから、最も防火対策に注意を払うことが重要であり、そのため同館の周囲には建物を造らず、庭園としてなるべく広く空地としてあるべきことを記憶に留め置いていただきたいこと。
(六)明治維新中興の大業に際して、最も功績があった皇族や功臣の銅像に限り、十基以内を外苑内に建設することは、当初本会(明治神宮奉賛会)外苑設計委員の承認を経ていたが、人物の順位や制作に関して慎重な検討が必要となり、結局実行に至らなかった。
この件は今後改めて奉献の申し出があった場合には、更に専門委員の審議を経て決定していただきたいこと。
(七)明治天皇及び昭憲皇太后の等身大の銅像をその筋において製作され、本会(明治神宮奉賛会)にお下げ渡しいただき聖徳記念絵画館内の広間に安置するという内々の計画があったが、その後計画は無くなり、お下げ渡しされないこととなった。ついては絵画館内の広間はその様な由来があることを記憶に留め置いていただきたいこと。
(八)本会(奉賛会)会員の待遇特典は本会創立以来の規約であるので、本会閉会後といえども規約の趣旨を尊重されたいこと。以上
大正十五年十月二十二日
明治神宮奉賛会会長正二位勲一等
公爵 徳川家達
副会長正三位勲一等
子爵 渋沢栄一
副会長正三位勲一等
男爵 阪谷芳郎
副会長従三位勲一等
男爵 三井八郎右衛門
下略
明治神宮宮司
従二位勲一等功二級 陸軍大将一戸兵衛殿
出典『明治神宮外苑志』
10月22日、外苑竣工奉献式の晴れやかな舞台で、目録など共に一戸宮司に差し入れたと思われた一札「外苑将来ノ希望」。実は3日後に阪谷芳郎が内苑の社務所に一戸宮司を訪い渡していたことがわかる。逐条、つまり8箇条を説明して念を押したのだろう。
この「一札」は現存するのだろうか。関係者にお聞きしたことがあるが、「見たことがない。あるとすれば外苑の事務所に保管されているのではないか」とのことだった。 (令和6年9月16日追記)
#明治神宮
#明治神宮外苑
#神宮外苑
#外苑
#外苑将来の希望
#外苑将来ノ希望
#神宮球場
#いちょう並木
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?