負けた作戦はどう考えても負けるということ。
「ああすれば、あの戦闘は勝てていたかもしれない!」
「新兵器が間に合っていれば、日本は太平洋戦争に勝っていたかもしれない!」
こうした空想話は日本だけでなく、海外でも結構多い。
歴史のIFは論じることなかれというのが、歴史学での一つの標語のようになっているが、やはり、そこへ浪漫を感じる人も多いのは事実だろう。
こうしたIF話の定説から、一時期流行したのが「架空戦記」というものだ。いまも根強い人気がある転生モノやファンタジーが人気を呼ぶ前、架空戦記はどんどん出版されていた。
こうした流れの最初の源流を作った檜山良昭の作品などは結構、緻密に検証されていて頷ける内容だったけれど、いつの間にやら、いろんな作家さんの作品が続出し、とにかく日本を勝たせるという目標を定めてトンデモ本並みの荒唐無稽なものへとなっていった。
この本はその架空戦記の元ともなる戦争のIFの説を検証し、ほとんどその可能性がなかったことを証明した画期的な本だった。
例えばミッドウェイ海戦で、敵空母発見の報に、陸用爆弾から魚雷への転換をせずに護衛戦闘機なしの陸用爆弾のままの急降下爆撃隊を発進させていたら、敵空母は撃沈できただろうという説。
空母飛龍の山口多聞少将が司令官の南雲忠一中将に「直チニ発進ノ要アリと認ム‘」と、意見具申したけれども、南雲がこれを退けて、爆弾を魚雷に換装させたので、空母3隻を一挙に失う結果になったというものだ。
これも爆撃隊を発進させていても、来襲する敵空母から発進した敵機の攻撃は同じように受けただろうから、空母3隻が撃沈されるという結果は同じだったろうとこの本は説く。もちろん、先に爆撃機を発進させていれば、なんらかの戦果があったかもしれないが、護衛戦闘機なしの攻撃隊ではそれほどの効果もなかったろうし、第一、味方空母が攻撃を受ける話と、先制攻撃を仕掛けるという話は、戦闘の結果を味方空母側に焦点を絞れば別の話なのである。
このようにIFの戦術論は常に落とし穴があって、聞いたふうに騙される。
IF戦記論は、常に応援する側が勝つという想定のもとに、その結末へ向かわせるために準備される。
戦術論で戦争が勝てるわけではなく、敗戦は、その作戦上の起案、指揮官の性質、スタッフの顔ぶれ、兵力などなど様々な細かい要因が一つになって導き出される結果なのだ。
もしも指揮官が××将軍だったら?
もしも新兵器が投入されていたら?
もしも天候が回復していたら?
これらはいくら言っても、敗戦した作戦の開始時期にはそうはならない必定条件が揃っていたわけで、絶対にIFにはならなかったとも言える。
私自身の戦争に関する研究から考えても、敗戦した作戦はどんな道を通ってもやはり敗戦するものだと思う。
それにしても、この本、『虚構戦記研究読本』だなんて、架空戦記ファンに寄り添ったようなタイトルで、実は架空戦記を否定する内容だとは面白い。
思わず騙されて、手にした架空戦記ファンも多かったかも知れない。