【憐れみのキリスト】240310礼拝メッセージ
「憐れみのキリスト」
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イントロ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 07章 13節
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
今日のテーマは、キリストです。
キリストが泣いている母親に「もう泣かなくて良い」と言われました。
人生には、時として思いがけないこと、どうしようもないほどの悲しみや苦しみが起こる事があります。
特に悲しみ、苦しみの中で最も深いものは、愛する者の死に直面した時です。
そのような状況の中で嘆き、悲しむ時、キリストはどのように関わってくださるのか、それを今回の箇所から3つのポイントで見ていきたいと思います。
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1、
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1つ目のポイントは、キリストは、泣く者の前に現れて下さる、ということです。
聖書は言います。
ルカによる福音書/ 07章 11節
それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
「それから間もなく」というのは、この前の箇所に出てくる百人隊長のしもべがいやされたことを指しています。
キリストは百人隊長のしもべをいやされ、そしてナインという町に来ました。
この時、キリストは一人ではありません。
弟子達や大勢の群衆も一緒にいたのです。
大勢の群衆というのはおそらく、キリストが平地の説教をしたところから着いてきた人たちだと思われます。
彼らはキリストの教え、そして病の癒しなどを見て、キリストのなさることに驚き、また喜びを感じながら着いてきたのです。
このキリストを先頭に大勢の列をなしていた集団が、ナインという町に入りました。
このナインの場所は、百人隊長のしもべを癒したカファルナウムから、約50キロ位のところにあります。
大体この教会から一宮駅くらいまでの距離です。
なので徒歩だと少なくても一日はかかったと思われます。
ルカによる福音書/ 07章 12節
イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、担ぎ出されるところであった。母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。
大勢のキリスト一向が町の入り口に近づくと、ちょうど反対側からもう一つの列が来ました。
そのもう一つの列とは葬列の集団でした。
一人息子が死んだのです。
しかも母親はやもめ、つまり未亡人でした。
当時は今と違って、女性が働いて収入を稼ぐというのは非常に厳しい時代です。
そのため夫が亡くなった家族の生活を支える手立ては、息子にかかっていたのです。
この息子は、後にキリストが若者だと言っておられます。
私たちが若者というと学生位を思い浮かべるかもしれませんが、当時の若者というのは、約40歳位までの人のこと指します。今でいう青年です。
いつから母親は未亡人だったかは記されていませんが、この息子が働いて、生活をつないでいたのです。
しかし何らかの理由でこの息子も死んでしまった。
親より先に子どもが死ぬ、、、これはどの時代でも辛いことです。
しかもたった一人の息子が死んでしまったのです。
この残された女性は、夫に先立たれ、さらに一人息子にも先立たれた状態であったのです。
この息子の葬儀には、町の人が大勢そばに付き添っていた、と書いてあります。
当時の風習として、人が亡くなったら周りの人も喪に服すことがあったかもしれませんが、とりわけ、未亡人でさらに一人息子をも亡くした母親に対しては、街全体が母親に対しての同情と悲しみが広がり、皆言葉を失いながら付き添って墓場まで歩いていたのです。
私たちも、家族を、親族を、友人などを失うという、喪失の体験をすることがあると思います。
愛する人が死ぬ。
それは人だけではなく、愛するペットなどもそうでしょう。
今まで一緒にいたものがいなくなる、喪失の悲しみです。
私は去年祖母を亡くしました。
元気な祖母の姿がもう見れないと思うと、やはり寂しく、また悲しくなることがあります。
死の悲しみを感じている時、人は残念ながら他の人の言葉というのはあまり届きません。
どんな慰めの言葉も、相手が自分のためを思って言ってくれている気持ちは伝わるのですが、だからといってそれがなかなか慰めになるわけではありません。
なぜならどんなに言葉をかけられても、死んだ者が戻ってくることは無いからです。
それを体験的に私たちは知るからこそ、私たちが葬儀で悲しんでいる人の傍に立つ時、言葉を失うと思うのです。
何も出てこない。
頭では伝えたいことがあっても、それが空しく響くことを知っているのです。
だから言葉を失うのです。
死の力に直面した時、死に逆らうような言葉は出ようがない、、、ここに私たち人間の現実の姿が映し出されていると思うのです。
息子の遺体は町の外に担ぎ出されるところ、でありました。
このナインという町では、お墓は町の中にあるのではなく、町の外にありました。
人が死ぬと、町の外に遺体を運び、そして埋める。
町の周りには墓が取り囲むようにあるのです。
この未亡人の一向は、葬儀の悲しみの中で、息子の遺体を埋めようと町の外にむかう途中でした。
しかしそのような悲しみの葬儀の列が外に向かう時に、ちょうど反対側からキリストを先頭に一向がきたのです。葬列とぶつかったのです。
映画で言うと、町の上空から撮影している視点で、葬儀の列とキリストの列が段々と近づいてついに対面するのです。
母親は泣きながら、重い足取りで町の外に向かっていたことでしょう。
愛する一人息子を亡くしながら、ただただ嘆くしかない、ただただ泣くしかない、、、そんな母親の前に、キリストが反対側から現れて下さる。
そう、悲しみの中にいる者の前に、キリストは現れて下さるのです。
私たちも、様々な喪失の悲しみの中で涙する時に、キリストは私たちの目の前に来て下さる。
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2、
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ではなぜキリストはこの母親の前に現れ、声をかけられたのでしょうか。
二つ目のポイントは、キリストは、憐れむお方である、ということです。
聖書は言います。
ルカによる福音書/ 07章 13節
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
キリストはこの未亡人であり、一人息子を亡くした母親を見て「もう泣かなくともよい」と言われました。
この、泣かなくてよい、と訳されている元の文を見ると、泣きつづけるという動詞の継続を意味する言葉に否定がついています。
つまり、泣き続けなくてよい、と訳せます。
これはキリストが、息子の死を悲しんでいる母親に向かって、単に歯を食いしばって泣くのを我慢しなさい、という意味で言われたのではありません。
今は悲しんでいるかもしれない。
しかし、「いつまでも泣き続ける必要はない」と言われるのです。
この「泣き続けなくてよい」とキリストが声をかけたのは、母親がキリストをみて、主よ助けて下さい、と言ったり、私は息子を亡くして大変心が痛んでいます、主よ私を慰めて下さい、と求めたからキリストは言ったのではありません。
ただただ、キリスト自らこの女性に声をかけられたのです。
なぜか。
それは13節、憐れに思ったからです。
葬儀で泣いている母親をキリストは憐れに思ったから、声をかけられたのです。
私たちも泣いて悲しんでいる人を憐れに思うことがあるでしょう。
私たちが憐れむというのは、同情です。
他人の苦しみ、悲しみに対して、自分のことのように親身になって共に感じることです。
しかし私たちはどこかで知っているのです。
私たちの同情は、どこかで限界があることを。
どんなに相手の立場に身を置いて感じようと親身になろうと思っても、その人の今思っている痛みは完全には負いきれないことをどこかで知っていると思うのです。
しかし、この13節の「憐れむ」という言葉は違う意味があります。
この「憐れむ」と言う言葉は、他の箇所でも使われていますが、基本的には神について、あるいはイエス・キリストにしか使われない特別な言葉なのです。
例外的に、たとえ話で出てくる人物にも使われますが、その人物というのは、たとえを通して神のことを示す人物が「憐れむ」という言葉を使っているのです。
例えば15章では放蕩息子が出てきます。
勝手に家を出た次男がボロボロになって、再び家に戻った時に、父親がそれを見て可哀想だと思い、駆け寄って接吻をする場面があります。
この父親というのは神のことを示しています。
そして次男は神の元を去っていった人間のことを指しています。
神である父親が、勝手に家を出て行った人間である次男がボロボロになった姿を見て、憐れに思った時に使われている同じ言葉が、今回の箇所の「憐れむ」という言葉なのです。
だからこの言葉は、神にしか使われない特別な言葉なのです。
この言葉は、単に同情するとかではなく、内臓が痛むという意味があります。
単に相手のことを想像して寄り添うのではなく、未亡人の母親の痛みが、まるで完全に自分事として、むしろ本人以上に、本人でも気付いていないくらいまでの心の痛みを感じ取って、内臓が引き裂かれる痛さを、神の子であるキリストが感じられたのです。
私たちも相手が悲しんでいるのを見て胸が痛くなるということがありますが、しかしルカはこの母親を見て本当の意味で自分ごととして内臓が痛くなるほどに感じたのは、神の子イエス・キリストだけであると思い、ここに憐れむという特別な言葉を記したと思うのです。
そしてキリストは嘆き悲しんでいる母親を見て、一方的に憐れ、泣かなくていい、泣き続けなくていい、と言われたのです。
今日招きの言葉でお読みしました。
9:詩編/ 006編 009節
主は私の泣く声をお聞きになった。
私たちも愛する者を喪失する痛み、悲しみの中にいることがあります。
その時悲しみの中でただ泣くしかない、涙するしかない時がある。
しかしキリストはそんな私たちの泣く声を聞いて下さる。
そして憐れみ、私たちに「泣かなくて良い」と声をかけて下さるお方なのです。
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3、
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3つめのポイントは、キリストは、復活の希望を与えて下さる、ということです。
ルカによる福音書/ 07章 14節
そして、近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
15:ルカによる福音書/ 07章 15節
すると、その死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子を母親にお渡しになった。
当時の棺というのは、いわゆる今の棺桶のように箱になっていて、ふたもあるようなものではありませんでした。
当時の棺というのは、担架のような板の上に、ぐるぐる巻きにされた遺体が剥き出しになっている状態でした。
その担架の上に置いてあった、一人息子の遺体にキリストは手を触れたのです。
これは当時驚くべきことでした。
なぜなら死体は汚れていると思われていたため、死体に触れることはみんなしなかったからです。
しかしキリストは葬列に近づき、遺体に手を触れたのです。
それはただ、チョンと触ったというより、墓地へと向かう行列の前に立ち塞がり、手を伸ばして葬儀の集団の歩みを止められたほどしっかりと受けとめられたのです。
だから埋葬するために外に行こうとしていた人たちの動きが立ち止まりました。
そこでキリストは言いました。
「若者よ、あなたに言う。起きなさい」
すると、死んでいた息子は起き上がったのです。甦ったのです。
キリストは何かおまじないをしたり、儀式をしたりして死人を甦らせたわけではありません。
ただ、言葉を発して死人を甦らせたのです。
それを見た人々は恐れを抱きました。
当然だと思います。
死んだ人が自分たちの目の前で、甦るということを目の当たりにしたからです。
それまで人々は、母親に同情し、一人息子が甦ったらどんなにいいだろうかという思いもあったでしょう。
しかしそれと同時にそんな願いというのは叶わない、ということも知っているのです。
人は死んだら2度と甦ることはない、、、それが現実を知っているからです。
ところが今や自分たちの前で、その当たり前がひっくりかえっている。
死んだ息子が起き上がって、喋り出すというありえないことが現実に起こっているのを目の当たりにしたため、周りの人は恐れを抱きました。
ある牧師が葬儀会社の社長にこう言われたそうです。
「教会にくると感心するのは、牧師は平気で遺体にさわりますね。時には牧師が遺体を運ぶこともある。なんとも思っていないのですね」と。
一般の人は、遺体に対して怖いイメージ、不吉なイメージがあり、遺体にはあまり触りたがらない、けど牧師は遺体に触ると。
社長のその言葉を聞いて、牧師はこう答えました。
「牧師は遺体に触れる。なぜなら私たちが信じるイエス・キリストが、遺体に手を触れて下さったから。遺体は汚れているものでも恐ろしいものでもない。清いものである。いつかキリストが甦らせてくださる尊いものだから」と。
私も本当にそう思います。
キリストが遺体を触って下さった。そしてきよくして下さった。
それは単に亡骸としてキリストは見てはいないから。
キリストはやがてこの体は復活することを知っているから、遺体を丁寧に扱うのです。
だから私たちキリスト者もそこに重ねていくのです。
遺体はやがてキリストによって甦るもの、尊いものと思って敬意をもって触れていく。
キリストは若者の遺体に触れて、そして甦らせて下さいました。
それを見ていた周りの人は言います。
16節「偉大な預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神を崇めた。
彼らがいう「偉大な預言者」とはエリヤのことです。
エリヤは昔、やもめの息子が死んだ時に生き返らせたことがあります。
まさに今回のと同じような状況なのです。
だから人々は、エリヤが再び現れた、とキリストが偉大な預言者だと思ったのです。
そして人々は、キリストが若者を甦らせるのを見て、「神は顧みてくださった」とも言いました。
神が顧みた、振り向いて下さったと。
社会的に立場の弱い未亡人が、しかも一人息子をも亡くした女性を、神はそっぽをむかずに、振り向き憐れみをかけてくださった、そのことをこの人々は息子の甦りを通して知ったのです。
人が死ぬ、という現実の世界に、神が介入し、命を、光を与えてくださったことを知りました。
だから周りの人は喜んで神を崇め、礼拝したのです。
私たちが愛する者の死の悲しみに直面する時にも、キリストは今日もわたしたちの目の前に現れてくださり言われるのです。
「もう泣かなくて良い」と。
わたしたちがこの言葉を、泣いている人に言っても一時的な空虚な言葉にしかなりません。
私たちには、死んだものを甦らせる力は無いからです。
しかしキリストは、死んだ者を甦らせる力をもっているお方。
今回の箇所に書かれている息子はその場ですぐに甦りました。
今の私たちの場合、愛する人が甦るということはすぐには実現するわけではないかもしれません。
しかし、キリストがまたこの地上に来られる時、キリストは私たちの愛する人たちを、そしていつか死んでいく私たち自身をも、再臨の時、起き上がらせ、復活させ、再開する事ができる。
だからキリストだけが言える言葉なのです。
「もう泣かなくて良い」、泣き続けなくてよい、と。
そしてキリストは、やもめの列を、死に向かう列を真正面から止めてくださいました。
今日も死に向かって歩む私たちを、立ちはだかるようにしっかりと止めてくださるキリストがいます。
わたしは、このキリストの手には、今や十字架の傷跡があることを、私は信じます。
この傷跡のある手で、しっかりと、死に向かう私たちを今日も止めて下さる。
このお方は確かに十字架で死なれ、そして確かに甦られたお方。
復活をご自身の体をもって証明して下さったお方が、今日も私たちが死に向かっていく流れを止めてくださるのです。
そして私たちは今度は、死に向かう列とは反対に向かうキリストの列に加わっていくのです。
キリストを先頭にして死とは全く逆の方向、甦りの命、復活の命を与える列に加えられていく、、、これが私たち教会です。
このキリストを先頭にして、復活の命を喜びながら、私たちは今日もキリストを崇め、礼拝していくのです。
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結語 共同体 神の語りかけ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 07章 13節
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
今日は3つのポイントでキリストについて見ていきました。
1つ目は、キリストは、泣く者の前に現れて下さる
2つ目は、キリストは、憐れむお方
3つ目は、キリストは、復活の希望を与えてくださるお方
今日もキリストは言われます。
「愛するものが亡くなって悲しんでいる者よ、泣いている者よ、あなたの泣く声を私は聞いた。もう泣かなくて良い。
わたしが死を打ち破った、その手であなたを受けとめる。」と。
だから私たち教会は、世の中の流れ、死に向かう流れとは全く逆方向に進まれる、キリストに従っていき、喜びを持って礼拝していこうではありませんか。
祈ります。
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祈り
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天のお父様、今日も私たちは死の悲しみに泣き続けています。
愛するものを失う悲しみが今日も私たちの周りを、街を取り囲んでいます。
しかしその中であなたは言われます。
もう泣かなくともよい、と。
復活の力を持ったあなただからこそ言える言葉です。
私たちはあなたの甦りの力を信じて、死に向かう列ではなく、復活の命に生きる列に加わっていき、今日も喜びを持ってあなたを崇め、礼拝する者とさせて下さい。
イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。