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230507礼拝メッセージ【踊りとは何か】

https://youtu.be/kuftRcEJswY


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踊りとは何か
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聖書は言います。
43:ルカによる福音書/ 01章 44節
あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び躍りました。


今日のテーマは「踊り」です。
皆さんは最近踊ったことありますか?
私は昔、自分の子どもが卒園する時の出し物で、DA PUMPのUSAを親が踊る、という企画があり、なぜか私がセンターで踊らされるというのがありました。
私の踊り自体は酷いものでしたが、でも親が卒園する子ども達の前で踊るというのは、子ども達にエールを送るという意味で一生懸命曲がりなりにも踊るのです。

古来から踊りというのは一つの自己表現でありました。
体を動かすことで、自分たちの今の喜びであり、祝いであり、それらの感情を表現する手段であったのです。
だから昔は大きな獲物が取れたり、収穫の時期になると、みんなでそのことを祝う表現としてみんなで踊ったのです。

日本人は感情表現をするために、直接踊るということはあまりしないかもしれません。
嬉しいからと言って、喜びの舞をすることはあまりしないです。
でも心が喜び踊る、こういった表現があるように、私たちは誰かに会う時心が喜び踊り、笑顔が溢れることがあると思うのです。
先日祖母に会いに行った時、祖母は圧迫骨折で寝込んで痛みを抱えていましたが、ひ孫に会ってその声を聞くと嬉しそうに笑顔が溢れました。
心が喜び踊ったのです。

私たちも誰かと会って、その人の声を聞く時、喜び踊るようなことがあります。
この人と会えた、声が聞けた、嬉しいと。
でも私たち人間にとって何より喜び踊るほど嬉しいことは、救い主であるイエス・キリストに出会い、声を聞くこと。
神から離れていた私たちを救うほどに私たちを愛しておられるキリストが来られ、私たちを神に立ち返るように今日も語りかけてくださる。
この救い主キリストの声を耳にする時、私たちは喜び踊るのです。

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いつどこで、踊ったのか
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聖書は言います。
38:ルカによる福音書/ 01章 39節
その頃、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
39:ルカによる福音書/ 01章 40節
そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶をした。

「その頃」これはマリアが天使ガブリエルから受胎告知、それは婚約中のマリアが救い主イエス・キリストを身籠る神の言葉を告げられた後の事です。
マリアにとって婚約中でまだ男性を知らない時に子どもを授かること、そしてその子がただの人間ではなく救い主であること、これはマリアにとって、とても大きな大きな事件でした。
このような大きな事件が自分の身に起こった時、一体人はどういった行動をするのであろうか。

私たちも、時に事件が起こることがあります。
大きな出来事が。
その時どのような行動をするのだろうか。
様々な反応があると思いますが、その一つは、誰かに自分の起こった事件のことを伝えようとすることだと思うのです。
「ねぇ、ちょっと聞いてよ、昨日こんなことあって本当に驚いたの」
このような会話をして、自分の体験したことを他人に話をしてシェアをする。
自分の身に起こったことがあまりに大きいため、誰かに言わずにはいられないから。

ではマリアは誰に受胎告知のことを言ったのか。
マリアはヨセフと婚約していました。
だからマリアはヨセフに受胎告知について言う選択肢もあったと思います。
でも聖書にはそのことについては何も書いてません。
聖書に記されていることは、マリアは、
急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
39:ルカによる福音書/ 01章 40節
そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶をした。
のです。

エリサベトと夫ザカリアが住むユダの山里、それがどこかははっきりはしてません。
でもザカリアはエルサレム神殿の祭司なので、エルサレムからはそんなに遠く離れていなかったと思います。
なのでザカリア夫婦が住んでいるエルサレムという都市の近く。
一方、マリアはナザレという田舎にいました。
ナザレからエルサレムの距離は、フラッと気軽に行ける距離ではなく、歩いて数日かかる距離です。
ある人は、歩いて大体三日位かかる距離と言います。
しかも当時の旅は危険が伴い、マリアはまだ10代半ばのか弱き女性です。
そのような危険があるにも関わらず、マリアは急いでエリサベトに会いに行ったのです。

なぜマリアはそれほどまでに急いで、長い旅をしてまでもエリサベトに会いに行ったのか。
それはおそらく、エリサベトが自分と似たような体験をしていたからだと思うのです。
受胎告知の時マリアは天使に告げられます。

ルカによる福音書/ 01章 36節
あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。

マリア自身、結婚前に聖霊によって身籠るという他の人が体験しないことを自分はしたのです。
そこには喜びもあり、驚きもあり、どこかで戸惑いもあるような様々な感情が入り乱れていたことでしょう。
そのような感情を誰が分かってくれるのか。
それは自分と同じような経験をし、しかも自分よりも先に似たような体験をしている人であれば、今の自分のことを深く理解してくれる、と思うのです。
マリアはエリサベトとは年齢も身分も違っていても、神の力によって身籠るという共通の体験をしているからこそ、このエリサベトなら私の状況を理解してくれるかもしれない、と思いマリアは急いで、エリサベトの元に向かったと思うのです。

私たちも、自分の身に様々な経験をしていきます。
そこでは、喜ばしいこともあれば、戸惑い、どうしたらいいか分からないようなことを体験することがある。
問題を抱えることが身に起こってくる。
そういう時、自分が今体験しているのと似たような状況を通ってきた人が他にいる、そう聞いたなら、その人と色々と話をしたい、こういった感情が沸き起こると思うのです。
この人なら私の今の気持ちを深く理解してくれるかもしれない、、、と。
私たちはそうやって、自分の身に起こったことを、交わりを通して関係を築いていくのです。

マリアは急いでエリサベトの家に向かい、そして挨拶をしました。

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誰が踊ったのか
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すると
40:ルカによる福音書/ 01章 41節
マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子が躍った。

エリサベトは妊娠6ヶ月目です。
お腹も大きくなっている。
医学的にはお腹の赤ちゃんが動く、いわゆる胎動は、早い人で妊娠4ヶ月から遅くとも7ヶ月目位で感じ始めると言われています。
なので妊娠6ヶ月目のエリサベトの赤ちゃん、ヨハネがお腹の中で動くことは自然なことだと言えます。
でもエリサベトはこの時お腹の子の動きを、単なる胎動で動いたというのではなく、特別な動きであることを感じたのです。
なぜなら単に動いたではなく踊ったからです。

この「踊る」というのはダンスをするとか舞うというより、躍動する、ジャンプする意味があります。
自分のお腹の子がジャンプした。
一体どんな感覚なのか男性の私には想像つきません。
明らかにお腹の子が特別な動きをしたのです。
そしてエリサベトは聖霊に満たされて言いました。

41:ルカによる福音書/ 01章 42節
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。
42:ルカによる福音書/ 01章 43節
私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。
43:ルカによる福音書/ 01章 44節
あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び躍りました。

エリサベトはマリア自身だけでなく、マリアの胎内の子どもも祝福されている、と声高らかに言うのです。
でも不思議ではないでしょうか。
マリアが聖霊によって孕ったことはまだこの時点では誰にも言っていません。
エリサベトにも言っていないはずです。
今みたいにLINEとかで、マリアがエリサベトの家に向かう前に「私は神様の力によってみごもりました。これからあなたの家に行って詳しく話したいと思います」と知らせたわけではない。
なので、エリサベトはマリアと自分の家で会った時は、マリアが妊娠していることを知らなかったはずです。
でもエリサベトはマリアに声高らかに言うのです。
あなたも、あなたの子どもも祝福されている、と。
それはまさに聖霊による神の働きかけによって、エリサベトは今自分の目の前にいるマリアには結婚前なのにもうすでに子どもをみごもっていて、そしてその子は単なる子どもではなく、古から待ち望まれていた救い主である、そのことを聖霊によって示されたのです。
聖霊の働きかけによって、エリサベトはマリアのお腹にいる子のことを、「私の主」、救い主である、と分かったのです。
そして彼女は言いました。
「私の救い主を宿した母が、この自分のところに来てくれた、それはなんと幸いなことでしょう」。
これはエリサベトが、マリア自身に会えたこともそうですが、何よりマリアのお腹の中にいる救い主イエス・キリストが私のところに来てくれた、そのことにエリサベトは喜び、ヨハネもお腹の中で歓喜して踊ったと思うのです。
そう、救い主キリストが自分のところに来た時、人は喜び踊る。

私たちも、救い主であるキリストが自分のところに来てくださった時、どこかで喜びわき踊る経験をするのではないでしょうか。
自分に大きな問題がふりかかってきた。
経済的に、健康面でも、人間関係において大きな大きな問題が生じる。
それらの問題にどのように対処していけばいいか分からず、行き詰まっていく。
そのような疲れ果てている時、キリストが聖霊を通して自分のところに来てくださった。
そしてそこでキリストの声を聞くのです、御言葉に触れていくのです。
「愛する子よ」と。
その時実際に踊り出すわけではないかもしれません。
でもキリストと出会っていく中で、私たちは心の中で喜び踊るのです。
ジャンプして喜ぶような経験をしていく。
ああ、この自分が罪赦され、神の子とされた。
それを実現させるために、十字架にかかり、復活された救い主キリストが私の前に来てくださった、、、と。
私たちは救い主キリストが自分のところに来たことを聖霊を通して知っていくのです。
そして私たちはそれに対して喜び踊る。

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・踊るものはその後どのように応答するのか。
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エリサベトは、自分の子が喜び踊ったあと、マリアに言います。
44:ルカによる福音書/ 01章 45節
主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

エリサベトはマリアのことを、なんと幸いでしょう、と讃えました。
あなたは幸せ者だ、と。
でも私はこの箇所を読むとちょっと疑問に思うというか、斜に構えて受け取ってしまいます。
それは、エリサベトがマリアの信仰を褒め称えていると同時に、どこかで夫のザカリアに対して嫌味が含まれているような気がするからです。

マリア、あなたは神の言葉をきちんと信じることができた。信仰が素晴らしい。
でもウチの夫はなかなか信じることができなかったのよ。
だから未だに口が聞けないのよ、、、
そんなニュアンスを受け取ってしまうのです。

確かにマリアは天使から神の言葉を告げられた時、この身になりますように、と受け取りました。
一方、エリサベトの夫ザカリアはすぐには信じられないために、喋れなくなりました。
であればエリサベトのこの発言は二人の両者の信仰の違いを比較しているのでしょうか。

でもある人はこう言いました。
「エリサベト自身妊娠6ヶ月でお腹が大きくなり、神の言葉が必ず実現されていることを身をもって信じていったであろう。
そしてマリアがきた時、自分のお腹の子が救い主がきたことで喜び踊ったことによって、自分の子ヨハネが、救い主に道備えをする使命の子であることをさらに確信していったであろう。
だから、この「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」というのはマリアに対してはもちろん、自分も含めて幸いな者と言っているのではないか」と。

エリサベトは、単にマリアの信仰が羨ましくて言ったのではなく、幸いでしょう、というのは、自分の身にも神の言葉が確かに実現していることを一緒になって喜んでいったと思うのです。

私たちも、神の救いの言葉が実際に自分の身に起こること、それはキリストの十字架と復活によって罪赦され、神の子となる、そのことを互いに喜びあっていくようになるのです。
「あなたも聖霊を通して神が話された救いの言葉が必ず実現すると信じているあなたは幸いだ、そして私も幸いだ」と。
あなたは信じれたけど、私は、、、と卑屈になるのではない。
あなたも、私も神の救いの言葉を受けとめて互いに罪赦され救われている、、、そうやって共に喜び、歌を歌っていくのが、私たち教会であると思うのです。

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結語
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聖書は言います。
43:ルカによる福音書/ 01章 44節
あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び躍りました。

マリアは受胎告知を受けた後、急いでエリサベトの元に行きました。
自分の身に起こったあまりに大きな出来事を、同じように体験しているエリサベトと交わりをしたかったからです。
そしてマリアがエリサベトに挨拶すると、お腹の中にいるヨハネが喜び踊りました。
救い主が自分のところに来たからです。
そしてお互いに神の言葉が実現することを分かち合いました。

私たちも、神の言葉を聖霊を通して聞きます。
神の子である救い主が処女から生まれた。
そのお方は、罪の中にいる私たちを、再び神に立ち返らせ、死を打ち破り永遠の支配の中に治めるお方。
その救い主キリストが自分のところにきてくださった。
様々な問題がある中で打ちひしがれている時、キリストが自分の元に来てくださったのです。
そして「愛する子よ」と声をかけて下さる。
そのことを聖霊を通して知る時、私たちは喜び踊るのです。
心踊る。

そりゃあそうです。
自ら十字架にかかるほどまでに私たちを愛する声を聞くから。
愛の言葉を聞くからです。
神に愛されている本来の自分の姿をそこで見出すからです。
それは私たちにとって踊りジャンプするほどの喜びである。
そしてこの愛の言葉が必ず自分の身に実現すると、私たちは信じて受けとめていった。

こうして今や私たちは、お互いに、主がおっしゃった救いは必ず実現すると信じたあなたは、幸いな人だ、と互いに言い合えるようになっていく。
「ほら、キリストが十字架にかかるほどまでの愛があなたにもそして私にもなっていく」と。
このように喜び分かち合う関係が今日も広がり続けていく、それが私たち教会なのです。
この交わりの中で私たちは今日も喜びの歌を主に歌っていこうではありませんか。

祈ります。

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祈り
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愛する天のお父様。
私たちが普段の日常でどれだけ喜び踊ることがあるでしょうか。
様々な問題が降りかかり、それに右往左往しているような私たちです。
でもあなたは救い主キリストを私たちに送って下さり、救うために来て下さいました。
そこには揺るぎない愛があります。
この事実を信じ受けとめていく幸いを、分かち合う教会として私たちを用いて下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。


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