【なぜ10年以上牧師になることが遅れたのか】
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イントロ
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みなさんおはようございます。
私は小さな時から母親に連れられてこの横浜教会に通いここで育ちました。
そして今から4年前に東京聖書学院に入学し、先日無事学びを終え卒業することができました。
その陰には横浜教会の皆さんの祈りや励まし、支えがあったからこそだと思っています。
4月からは愛知県の安城キリスト教会に家族で遣わされることになりました。
任地に旅立つ前に、私を育ててくれたこの横浜教会で御言葉を取り継がせて頂きながら、今私が思わされていることをお伝えできればと思っています。
メッセージに入る前に短くお祈り致します。
イエス・キリストをこの地上に生きる一人の人間として送って下さり、そのことによって私たちに救いの道を開き、永遠に友となる約束を与えて下さいました、イエス・キリストの父なる御神。
本日、愛する横浜教会の方達と御言葉を共に聞く機会を与えて下さり感謝致します。
これから言葉の貧しいものが、無限の豊さをもつ今日も生きておられるあなたの御言葉を取り継がせて頂きます。
どうぞ聖霊が豊に油を注ぎ、力をお与え下さい。
イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。
本日の説教題は「神の霊による導き」です。
今回の聖書箇所で使われている「霊」という単語を調べると、いくつか意味があるのですが、その中に「風」という意味がありました。
霊は風である。
霊は風のように私たちを導く。
皆さんは風というとどのようなイメージをするでしょうか。
私は、風というのは自由気ままに吹くイメージがあります。
外に立ってじっと立っていると風は、右から吹いたと思ったら、左からも吹くのを感じます。
時に前からも後ろからも、または上からも。
そうやって様々な方向から風は吹くなぁ、と思ったら急にピタッと止むこともあります。
そう、風の動きは次どのように吹くか私たち人間にはなかなか想像がつかない。
霊による導き、それはまるで風のように、私たちが次どこにいくか予想がつかないような導きをする事があるのです。
時に私たちが次こういくべきだろう、と思うこととは全く違うところに行かされることがある。
その時私たちは、戸惑い、疑問に思うのです。
え、、なんでこのタイミングであっちに行かせるのですか?このまままっすぐ進めば、よい結果になるのに、と。
しかし、神の霊による導きは、風のように一見気ままで、私たちには理解できないような動きをしているように見えても、実はそこには神の深い知恵と目的が隠されていて、神の霊は私たちを今日も導いておられる。
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・誰が霊に導かれたのか
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聖書は言います。
使徒言行録/ 16章 06節
さて、彼らはアジア州で御言葉を語る
彼ら、パウロ達はアジア州で御言葉、神の言葉を語ろうとしていました。
この前の箇所を見ると、パウロたちの働きによって信徒達が増え続けていく様子が書かれています。
彼らの信仰がますます強められ、仲間が日毎に増えていきました。
きっとパウロ達はこのように考えていたでしょう。
「よし、この勢いでどんどん神の御言葉を広めていこう!」
そうやって彼らは今度アジア州に行こうとしたのです。
このアジア州には、エフェソという当時大きな都市がありました。
おそらくパウロは、この中心都市であるエフェソを拠点に、より多くの人に御言葉を語ろうと計画を立てていたと思われます。
大きな都市には沢山の人々が集まっているからこそそこで御言葉を伝えていく、、、それは伝道を進める上で非常に効率的で良い計画のように思えます。
しかしです。
使徒言行録/ 16章 06節
アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。
パウロ達の働きは、なぜか聖霊によって禁じられてしまいました。
パウロ達はそこで、今度はアジア州にいくのはやめてビティニア州に入ろうとしたのです。
ビティニア州もわりと大きな街がある州であり、そこに行き福音を述べ伝えるのは良いことのように感じます。
しかし聖書は言います。
使徒言行録/ 16章 07節
ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。
今度はパウロ達の進む道をイエスの霊が許さなかったと、聖書はここで、聖霊からイエスの霊と言い換えてます。
どちらも同じ神の霊です。
神の霊が、パウロの行く道を次から次へと禁じ塞いでしまい、その神の霊の導きによってパウロ達は幾度となく行先を変更し、進路を変えざるをえませんでした。
そしてパウロ達が最終的にたどり着いたのは、当初の予定とは全く違った場所、トロアスという港でした。
ビティニアに入ろうとした時にイエスの霊がそれを許さなかった。の「それ」とは元々の言葉では複数形になっています。
イエスの霊がそれらを許さなかった。
なぜ複数形なのか。
それはパウロ達がビティニア州に入ろうと何度も何度も試みようとしたからです。
一回や2回でもなく、何度もパウロ達はその地域に入り御言葉を語ろうとしたのです。
しかしイエスの霊はそれらを結局許可しませんでした。
ある説教者は、この箇所のパウロの様子をこう言いました。
八方塞がりと。
自分では良いことと思い何度も何度もあの場所に行こうとあの手この手で試し続けても結局道が開かれず、手の打ちようが無くなっていき、結局最初に想像した計画と違った方向に進んでいってしまう。
私たちも八方塞がりになってしまった経験は程度の差はあれあるのではないでしょうか。
私は良いと思ってこういう事をやろうと思っているのに、このような熱い思いがあってこれからやろうとしているのに、でも結局その道が開かれない、、、
または、
今まで自分がやってきたことがとても祝されてきて結果も出ているのに、なぜか様々な要因が重なって道が閉ざされていき、もうこれ以上その活動ができなくなってしまっている、、、
このように何度も何度も試しても、その先に進むことが不思議と禁じられ、自分たちが予想していた道とは違う方向に進まされる、、、
そのような経験をすることが多かれ少なかれ私たちにはあると思うのです。
もし私がパウロたちならこのように呟くと思います。
「主よ、なぜ私たちの行く道をわざわざ禁じるのですか、妨げるのですか。
今私たちは信仰も増し加わり、人数も増えていき祝されているんです。
さらにこのままあなたの御言葉を伝えようと信仰の火を燃やしているのに、、、
主よなぜあなたは禁じるのですか」と。
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・私の人生を導く聖霊の働き
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私にとって八方塞がりな経験をしたのは、自分の献身の道が閉ざされた時のことです。
私が献身のことを考えたのは、21歳のとき母が肺ガンステージ4の末期状態であることを知ったことがきっかけでした。
母の病のことを知り、「人はいつか死ぬ」そのことを改めて強く思い知らされ、なら私はこの自分の命を、また自分の人生をどのように全うしていくのか?そのためにどのような仕事をしていけばいいのか?こういうことをいやがおうにも考えるようになりました。
そんな時、不思議と神から、
マルコ16章15節
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
と語りかけられ、自分はいつか牧師になる、そう思いました。
でも私は、すぐに神学校に行くよりも、一度社会人を経験し、社会に生きる人の苦悩や喜びを知っていた方が牧会に活かせるのではないかと考え、就職をしてから献身しようと思いました。
そして実際に4年働き、その過程で妻と出会い結婚し「さあこれから献身をしよう!」と思ったまさにその時、様々な問題が重なり、私の献身への道、牧師になり御言葉を語ることが急に閉ざされたのです。。
私はその時思いました。
「主よ、なぜ献身の道を閉ざすのですか、あなたのことをのべ伝えるために今まで色々と準備してきたのになぜ献身の道を閉ざすのですか。献身の道はあなたの御心ではないのですか」
私は苦悩し、そう叫びざるを得ませんでした。
何か悪いことをしようとして、そこで神の霊がその行く道が閉ざされるならまだ分かります。
でも伝道のため、神のことを、イエス・キリストのことを一人でも多くの人に伝えるためなのに、なぜかその道が塞がれていく、禁じられていく、、、だから余計に納得がいかない。
私はその時何度も何度も祈り、神に問いました。
しかし結局答えのないまま、献身の道は閉ざされたままだったのです。
そうして祈る中で私がたどり着いたのは、いのちのことば社というキリスト教出版の会社でした。
最初にお伝えしました。
霊とは風であると。
神の霊は風のように導かれる、、、それは時に、私たちの目から見てこのまま進めば順調にいくように思えても、神の霊は、急にその方向を妨げ、右に行かせ左に行かせ、そしてピタッと当初の自分の予定とは全く違う所に置かれることがある。
そう、神の霊の導きは、一見御心にかなった道を進もうとしても、私たちの行手を禁じることがある。
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・なぜ霊は導くのか
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パウロたちは神の霊に禁じられ、トロアスに辿り着きました。
そこでパウロは幻を見たのです。
聖書は言います。
9:使徒言行録/ 16章 09節
その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」とパウロに懇願するのであった。
パウロたちがトロアスについた先で見たのは幻だったのです。
その幻の中でパウロはマケドニア人の「助けて欲しい」という声を聞いたのです。
なぜ聖霊が、イエス・キリストの霊がアジア州などで御言葉を語ろうとしていたパウロ達の行手をわざわざ禁じ、トロアスにまでたどり着かせたのか。
それは「私たちを助けてください」と懇願するこのマケドニア人の叫びを、神の霊は聞いていたから。
そしてこの、助けて欲しいという叫びに神は応えるために、パウロ達の行手を禁じ、トロアスに向かわせたのです。
そう、神の霊は、時に私たちの行く手を禁じることがある。
なぜなら「私たちを助けてください」そう叫び求める人たちのところに向かわせるためだから。
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・霊はどのようにパウロを導いたのか
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パウロ達はこの幻を見たあとどうしたでしょうか。
聖書は言います。
使徒言行録/ 16章 10節
私たちはすぐにマケドニアに向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が私たちを招いておられるのだと確信したからである。
この「確信した」という言葉は、結び合わせるという意味があります。
パウロはこの幻を見た後、今までの様々な出来事を振り返り、なぜあの時、自分たちがアジア州で御言葉を語ろうとしたのをわざわざ聖霊は禁じたのか、他の州でも自分たちの働きが妨げられたのか、それら一つ一つの出来事が、「あ、このためだったのか」とまるで一つの線になるように結び合わさっていき、確信するに至ったのです。
一見、神が自分たちの歩みを禁じ、計画を妨げるように思ったことも、実は、もっと大きな神のご計画、思いがあり、そこへパウロたちを召し出すためであったのだとパウロ達は知ることが出来たのです。
そしてパウロたちはすぐにマケドニアに向けて出発しました。
このことによりヨーロッパ伝道への道が開かれていきました。
そしてヨーロッパに福音が伝わっていき、それが徐々に徐々に世界に広がり、やがて私たちの住むこの日本にも神の福音が伝わり、今私たちはこうして共に神の言葉を聞いて礼拝しているのです。
そのきっかけはここから始まっていった。
今回の聖書箇所では後半の主語が実は変わっています。
前半は「彼ら」と書かれていましたが、後半は「私たち」と主語が変わります。
色々な推測はありますが、「私たち」というのは、この使徒言行録を書いたと言われている著者のルカが、パウロ達の同行者になっていったと思うのです。
当初の行く道が禁じられ、予定とは全く違った方向に歩み出したパウロ達。
しかし神の霊はそこで新たな伝道の仲間が与えて下さっていく。
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・私の人生を導く聖霊の働き2
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パウロはトロアスに辿り着き、そこでマケドニア人の助けて欲しいという声を聞きました。
私の場合は献身の道が禁じられた中、いのちの言葉社にたどり着き、私はそこで働いている中、「助けて欲しい」という声を聞きました。
それは家族の中にある痛みを通して。
私がいのちのことば社で働き始めて数年後、妻からこう言われました。
「実は私は摂食障害を患ってるの」。
「摂食障害」これは精神的なストレスを上手く処理できず、食べることでストレスを発散しているうちに自分で食欲のコントロールできなくなり、極端に食べれなくなったり、逆に過度に食べ過ぎてしまい、飲み込んだ物を吐いてしまうなど、食欲のコントロールが難しくなってしまう命に関わる病です。
有名なところではカーペンターズのカレンはこの病で命を落としたと言われています。
私はその病名を聞いたことはありましたが、まさか自分の一番身近な人がその当事者であったとは、その時まで全くわかりませんでした。
自分の行く道にこだわるが故に必死になってしまい、周りが見えなくなっていた。
しかも最も愛する身近な人の痛みである心の叫び声を聞くことができていなかった。
病の現状を知り、私たちは回復に向けて共に歩み始めました。
そこには多くの困難があり、痛みがありました。
私はその経緯の中で、摂食障害だけでなく、アルコール依存症、統合失調症、鬱病などの精神疾患について調べていくうちに、段々とこう思うようになりました。
「ああ、日本ではこんなに精神的に痛みを抱えている人がいるのか」
ある人がこのように言いました。
こういった精神疾患の人たちには一つ共通点がある。
それは「深い孤独」だと。
自分では、仕事に行く時間に起きたいと思っているのに、病のために体が起きられない、動けない。
時間通りに職場に行きたいけどいけない。
熱など明確に肉体的に現れるものではないから、根性が足らないだけだ、とか精神的に甘いだけだと周りから言われやすい。
だから段々周りから信用されなくなり、人が自分から離れていく。
自分ではやめたいと思っているのに、そういった孤独を紛らわせようとして、自分の意思とは関係なく無意識にまた悪習慣を繰り返してしまう。
そして思うように行動できない自分自身を嫌いになり、ますます自分を信用できなくなり、人から距離を置きさらに孤独になっていく、、、
そんな痛みを抱えている人がたくさんいる現実を知ったのです。
その方達の心の叫び声が聞こえる。
「私たちを助けてください」と。
私はその時思わされました。
「ああ、この人たちにこそ神の、キリストの福音が必要ではないか。
神が人となり、イエスキリストがあなたのために死なれ、そして復活され、永遠の友となってくださった。
たとえ周りの人が自分を見放そうとも、また自分で自分のことを見捨てようとも、このイエスキリストは決して見放さず、決して見捨てないお方。
孤独に打ちひしがれている人たちにも、この福音、良い知らせを告げ知らせなさい、そう神は私を招いているのではないか」
そう思わされるようになっていきました。
私は時々思い返すことがあります。
もしあの八方塞がりになったあの時、無理矢理そのまま献身していたらどうなっていただろうか、と。
妻の抱えている病を知らずに献身していったらどうなったであろうか。
もちろん、そのような状況の中でも神の憐れみによってなんとかなる事もあったかもしれませんが、やはり、今よりもっと多くの困難を経験したのではないかと思うのです。
しかし全てを知っておられる神が、聖霊が、イエスキリストの霊が、あの時私の献身の道をわざわざ禁じられたのは、「助けてください」という叫び声を、私に聞かせるため。
一番身近な人を通して、世の苦しみ、痛みを全然知らなかった私に分からせるためであった、と、一つ一つの出来事が線のように繋がり、そこには神の深い深い計画があったのだと今振り返ると思うのです。
そしてその問題が回復に向かった後、不思議と献身への道が開かれました。
学院に入学した生活の中でも、あのような事がしたい、こういったことをしたい、という思いがありました。
しかしコロナを含め、やりたいと思った伝道も禁じられた事があります。
また、新しい土地での生活で様々な困難がありました。
しかし、その制限された中で、当初の予定とは思いもよらない形で福音が伝わっていく経験をしていきました。
それらの経験を経て、先日無事卒業し今ここにいます。
私は最初の自分のたてた計画とは全く違うタイミングで、、、それは予定より10年以上遅れた形で私は献身することになりました。
でもその歩みの中で、特に家族の痛みを通して、「助けて欲しい」その声を聞いたのです。
今私は、あらゆる人にはもちろん、その中で特に精神疾患の人たちにも福音を宣べ伝えていきたい、そのようにより具体的に思わされるようになっています。
そして、それと同時に思わされることは、これから実際に現場に出ていって伝道しようとしても、そこで八方塞がりになることがあると思うのです。
このような方に伝道をしたいのに主よあなたはなぜ禁じるのですか、と。
でも、神の霊は、その時その時において、一番助けを求めている人の声を誰よりも深く深く聞いていてくださり、その方に福音を届けようと私たちを用いてくださるお方。
この神の霊の導きに従って、私は目の前の人を愛し仕え、福音を伝えていけばいい、
そのように今私は思わされています。
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・結語
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聖書は言います。
使徒言行録/ 16章 06節
さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。
パウロ達は祝され勢いを増している中で、御言葉を語ろうとしましたが、神の霊によって禁じられました。
しかしその中でたどり着いたトロアスで、幻を通して叫び声を聞いたのです。
「私たちを助けて下さい」と。
私たち教会も様々な計画を立て福音を伝えていこうとします。
しかしそこで神の霊によって禁じられることがある。
八方塞がりになることがある。
せっかく軌道に乗って祝されていた働きが頓挫することがあるのです。
しかしそれは、神の霊が、誰よりも深く「私たちを助けて下さい」という声を聞き、そこに遣わせるためだから。
今日も神の霊は言われる。
「ほら、あそこに助けを求めている人たちがいる。
私の耳にはその心の叫び声がよく聞こえている。
そこに行き、私の福音を告げ知らせなさい」
だから私たち教会は、今日も風のように導くこの神の霊に従い、「助けてください」と叫び求めている人たちに、神の福音を述べ伝え続けていこうではありませんか。
お祈りします。
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・祈り
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主よ、あなたは私よりはるかに高いご計画があり、思いがあるのにそれを知らずに自分の道を閉ざされることに呟いてしまう私たちであります。
でもあなたは誰よりも、助けを求めている人の声を聞いてくださっているお方。
その方達のために福音を告げ知らせるものとして私たち教会を用いてください。
イエス様のお名前によってお祈りします。