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【しるしを求める人たち】250112礼拝メッセージ


「しるしを求める人たち」
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イントロ
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聖書は言います。
29:ルカによる福音書/ 11章 29節
群衆がさらに集まったところで、イエスは話し始められた。「今の時代は邪悪な時代である。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。

本日のテーマは「しるし」です。
しるしとは、奇跡という意味があります。

私の三男はマジックが好きです。
ハンカチが急に現れたり、コップを貫通してコインが手の中に収まったり、引いたトランプカードを当てたりなどの手品を見るたびに、目を輝かせます。
そして、見るではなく、彼なりに手品を一生懸命練習して家族に披露してくれたりします。

私も若い頃、当時有名だったマジシャン「セロ」が好きでした。
彼が道を歩いて、ハンバーガーショップのメニュー看板に手をかざすと、そこから本物のハンバーガーが現れる。
しかも、それをセロが一口食べて再び看板に押し当てると、今度は一口齧られたハンバーガーの絵と変わっているのです。
私はそれをテレビで見て「本当に奇跡みたいだ!」と感動し、心を奪われたのを覚えています。

人は、不可能に見えることを実現するのを目の当たりにする時、非常に魅了されるものです。
たとえそれが手品で、種や仕掛けがあるとわかっていても、奇跡的な現象を見ると、心が動かされるのではないでしょうか。

では、聖書が語る「しるし・奇跡」とは一体どのようなものなのでしょうか。
今日は「しるし」をテーマに2つのポイントで見ていきます。

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1つ目は、しるしとはキリストの説教である、ということです。

聖書は言います。
ルカによる福音書/ 11章 29節
群衆がさらに集まったところで、イエスは話し始められた。

「群衆がさらに集まっていた」ということなので、すでに多くの人々がキリストの元に集まっていたにも関わらず、さらに人がワイワイ押し寄せてきたのです。
たくさんの人がキリストの元に集まること、、、それ自体は素晴らしいことです。
普通なら来てくれた人を歓迎し、喜ぶべき場面です。
しかし、キリストがその群衆に向けて大変厳しい言葉を言われました。

29節「今の時代は邪悪な時代である。」
キリストは、集まってきた人たちに対して「邪悪な時代」と言いました。
「邪悪な時代」とは、「悪い時代」という意味です。
なぜ悪い時代なのか、、、それは人々がキリストが行っていた悪霊の追い出しや癒しの奇跡など見ても満足せず、「これは悪霊の力によるものではないか」と疑い、もっと奇跡を見せてみろと要求していたからです。

しかし、キリストは言います。
しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
30:ルカによる福音書/ 11章 30節
つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代に対してしるしとなる。
ルカによる福音書/ 11章 32節
裁きの時には、ニネベの人々が今の時代の者たちと共に復活し、この時代を罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。だが、ここにヨナにまさるものがある。」

ここでヨナの話が出てきます。
ヨナとは旧約聖書に登場する預言者の一人です。
ヨナは神から「ニネベという町に行き、預言を伝えなさい」と命じられます。
しかし、ヨナはそれを嫌がりました。
なぜなら、ニネベは彼の住んでいる国から見れば敵国であり、彼らが救われることを望まなかったからです。
今でいうと、ウクライナの人が、ロシアに行って宣教をしなさいと言われるようなものです。

だから彼は逃げました。
神から逃れようと船でニネベと反対方向に向かいました。
しかし、逃げる途中彼は嵐に遭い、大きな魚に飲み込まれてしまいました。
三日三晩腹の中にいて、その後吐き出されたと思ったらそこはニネベだったのです。
彼は仕方なく神の言葉を伝えます。
ヨナは全然期待せず、しょうがなく福音を伝えました。
しかし、ニネベの人たちは素直に悔い改めたのです。
外国の国であり、聖書の神などまるで信じなかったニネベの人たちが、ヨナの語った説教をそのまま受け入れて神を信じた、という話です。

私はヨナが大好きです。
とても人間味があるからです。
ヨナは預言者であり、本来であれば神から託された言葉をどんな人にも伝える責任がありました。
しかし、彼は自分の気に入らない相手、敵国のニネベの人たちには救われて欲しくないという心を隠さず、そのまま正直に行動に表し、反対側へと進んでいったのです。
この正直さと葛藤に、どこか共感を覚えるのです。

キリストが人々に語られた
29節の「しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」
の「ヨナのしるし」とは、ヨナがニネベの人たちに対して、神の言葉を伝える説教を指しています。

キリストは人々にこう言いました。
「あなたたちは私にしるしや奇跡を求める。
しかし、ヨナのしるしの他は与えられない。
つまり、ヨナがニネベの人たちに語った説教の他は与えられない」と。

多くの人たちが、キリストにさらなる天からのしるし・奇跡を期待していました。
もっと病を癒し、悪霊を追い出し、自然界を超越する力を示せと。
しかし、キリストはそれを拒みました。
「しるし」とは、そうした目にみえる超常現象だけではなく、神の言葉を伝える説教そのものを指していたからです。
ヨナがニネベで行った説教が人々の悔い改めを導いたように、キリストも説教を通して人々を救いに導こうとしていたのです。

キリストはさらに、ヨナだけでなく「南の女王」についても語りました。
31:ルカによる福音書/ 11章 31節
裁きの時には、南の女王が今の時代の者たちと共に復活し、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。だが、ここにソロモンにまさるものがある。

南の女王というのは、シェバ女王のことです。
彼女は世界で一番の知恵者であったユダヤ人の王ソロモンの噂を聞きつけ、地の果てからはるばる訪れました。
そして、ソロモンと直接対話をし、彼の知恵が本物であることを認めたのです。

しかし、キリストの周りにいた群衆たちは、歴史上最も頭がいいソロモン以上の知恵を持ち、またヨナ以上の預言者であるキリストが目の前にいるにも関わらず、彼らはなお悔い改めず、キリストを神の子と認めようとはしませんでした。
むしろ、さらなる天からのしるしや奇跡を「もっと、もっと」と求めるばかりだったのです。
そのため、キリストは言います。
31:ルカによる福音書/ 11章 31節
裁きの時には、南の女王が今の時代の者たちと共に復活し、彼らを罪に定めるであろう。
32:ルカによる福音書/ 11章 32節
裁きの時には、ニネベの人々が今の時代の者たちと共に復活し、この時代を罪に定めるであろう。

このキリストの言葉は、当時の人たちにとって大変衝撃的だったと思います。
彼らは幼い頃から旧約聖書を学び、シェバの女王や、ヨナの物語を自分たちのユダヤ人としての誇りの象徴として心に刻んできました。
シェバの女王の話であれば、遠い異教の地から名高い女王がわざわざソロモンに会いに訪れ、そして彼の知恵に屈服する話は、何度聞いても心地よいものであったことでしょう。
自分達ユダヤ人の民族の誇りを満足させる物語であったと思うのです。
ヨナの物語も同様です。
邪悪なニネベの町の人たちを悔い改めに導いた神の預言者の話は、自分たちの信仰が正しいものであるという意識を強く支えるものです。

しかし、キリストはこの二つの話を取り上げ、集まってきた人々にむしろ問いかけられたのです。
「異教の国の女王や邪悪な国の人たちでさえ、神の説教、知恵を聞いたら悔い改めた。
しかし、今あなた達は、ソロモン、ヨナに勝る私から直接神の言葉を、説教を聞いているのにも関わらず、なぜあなたたちは悔い改めないのか。
このままだと、あなたたちが蔑んでいた彼らが、裁きの時にあなた達を罪人と定めることになる」と。
このようにキリストは、ただ奇跡や目にみえるしるしを求め続け、説教によって悔い改めない人たちに対して鋭く問われたのです。

私はかつて、こう考えたことがあります。
「教会で何か奇跡的なことが起これば、人がもっと教会に集まるのではないか」と。
病が癒されたり、死んでいたおじいちゃんが甦ったり、怪我がすぐに治る、など驚くべき出来事が起これば、キリストを信じる人がもっと早く、多く起こされるのではないか、と。

確かに、このような奇跡を重んじる教団もあります。
しかし、歴史を振り返ると、教会は奇跡をあくまで補助的なものとして捉えてきました。
教会が何より重んじてきたのは、神の言葉、説教です。
宗教改革の時も、教会が最も大切にした一つが説教でした。
それは、説教を通して、今も生きておられる神が私たちに語りかけられることを、何よりも大事にしてきたからです。

神から離れ、好き勝手にやっているこの罪の世界に、神が「立ち返りなさい」と語る言葉がある。
本来なら、その罪ゆえに滅びても仕方ない私たちに、神はなおも愛の言葉を注ごうとされる。
たとえ私たちがどれほど神に背こうと、裏切ろうとも、神は決して私たちを見捨てることなく、立ち返り救われるように語り続けて下さる。
この絶え間ない神の愛の呼びかけこそ、奇跡です。しるしです。

そう、しるしとは、私たちの目にみえる派手な超常現象だけがしるしではありません。
むしろ、私たちを悔い改めに導き、神の元に立ち返らせる神の愛の言葉が告げられる説教こそが、真のしるしなのです。

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では私たちはどうしたらいいでしょうか。
2つ目のポイントは、目を澄ませてしるしを見る、ということです。

聖書は言います。
33:ルカによる福音書/ 11章 33節
「灯(ともしび)をともして、それを穴蔵や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
34:ルカによる福音書/ 11章 34節
あなたの目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身も明るいが、目が悪ければ、体も暗い。
35:ルカによる福音書/ 11章 35節
だから、自分の中にある光が暗くならないように気をつけなさい。
36:ルカによる福音書/ 11章 36節
あなたの全身が明るく、少しも暗い部分がなければ、ちょうど灯が輝いてあなたを照らすときのように、全体が輝くだろう。」

ここで言う「灯」とは、キリストご自身のことを指しています。
35節の「自分の中にある光」とは、キリストを救い主として受け入れ、キリストの光を心に宿すことを意味します。
私たちがキリストという真の光をそのまま受け入れ、心の中に暗い部分、すなわち疑いなどがなければ、私たち自身が光となり、周囲の世界を照らすことができるというのです。

そのために必要なのは、34節にあるように「目を澄ませる」ことです。
この「目を澄ませる」という言葉には、「一つのことを見る」という意味があります。
他のものに気を取られるのではなく、心の目をキリストという灯、光にまっすぐに見つめることです。

しかし、当時の群衆たちは、この目を澄ませてキリストを見ようとはしませんでした。
悪霊を追い出すと言う明らかな奇跡を目の当たりにしても、それを素直に受け止めず、「悪霊の仕業ではないか」と疑っていたのです。
神の子であるキリストご自身を、心の目、信仰の目で見ようとせず、「もっと大きな奇跡を」「もっと特別な癒しを」と、外的なしるしばかりを追い求めていました。
その結果、キリストの説教をそのまままっすぐ受け入れようとはしませんでした。

だから、彼らの「目」は澄んでおらず、「悪かった」のです。
34節の「目が悪い」の「悪い」という言葉は、実は29節の「邪悪な時代」の「邪悪」と同じ言葉が使われています。
キリストは、奇跡を求めながらも悔い改めることなく、キリストの説教に心を閉ざし悔い改めない彼らの心の状態を見抜き、「悪い時代、邪悪な時代である」と言われたのです。

これは彼らの時代に限った話ではありません。
私たちも、この世界の暗闇に目を奪われ、キリストがすでに放っている光をそのまま見ることができない時があります。
今なお世界各地で繰り返されている戦争や自然災害、日々の生活における人間関係の悩みや病など、世の苦しみ、暗い部分ばかりに目を向け、神の光を見失い「一体神はどこにおられるのか」と嘆く私たちです。

しかし、キリストという灯は、もうすでにこの地上に来てくださいました。
ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、キリストも三日三晩、陰府に下られ、その後、甦られました。復活されたのです。
このキリストの復活の事実こそが、私たちに与えられた救いの光です。
死という暗闇を打ち破る光が、もうすでに私たちの内に与えれている。

だからこそ、私たちは「澄んだ目」で、この復活されたキリストをまっすぐに見つめ、今日も語られる聖書の言葉に心を傾けていくのです。
まっすぐに、素直な心で御言葉を受けとめていく。
この時、御言葉の光が私たちの内に輝き、私たち自身が明るくなります。
この光は、私たち自身が生み出したものではありません。
復活されたキリストが与えてくださった、救いの光、永遠に輝く命の光です。

説教を通して語られる御言葉をまっすぐに見つめ、聞いていくことで、私たちの中にある復活の命は輝きを増し、暗い世界を照らす世の光となっていく、、、これこそがキリスト者の生き方です。

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結語
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 11章 29節
群衆がさらに集まったところで、イエスは話し始められた。「今の時代は邪悪な時代である。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。

今日は「しるし」をテーマに2つのポイントで見てきました。
1つ目、しるしとは、キリストの説教である
2つ目、目を澄ませてしるしを見る
ということです。

キリストは今日も言われます。
「暗闇に覆われたこの世界において、今日も私が生きていることを疑うものたちよ。
奇跡的なしるしばかりを求め、心の目が曇っている者たちよ。
しかし、すでにあなたたちには、私の言葉が与えられている。
この言葉は、あなた達の命を永遠に生かす言葉であり、希望の光である。
この命の言葉をまっすぐ受けとめて生きよ」と。

だからこそ、私たち教会は目を澄ませてキリストの言葉を受けとめ、復活の命の光をこの世界に輝かせていこうではありませんか。

祈ります。

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祈り
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天のお父様、この世界を見ると、暗さが世を覆っているように見えます。
それを見て私たちの心の目まで閉ざしてしまいそうになります。
あなたの光に気づけない私たちです。目の悪いものです。

どうか自分の目の暗さに一時でも早く気づくことができますように。
そして、私たちに澄んだ目を、健やかな思いを一人一人に与え、あなたの永久に変わらない命の光を見るものとさせて下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。

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