【本当の偉さとは何か?】240908礼拝メッセージ
「本当の偉さとは何か?」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
イントロ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
聖書は言います。
48:ルカによる福音書/ 09章 48節
言われた。「私の名のために、この子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中でいちばん小さい者こそ偉いのである。」
今日のテーマは「偉い」です。
私が引越してきて最初戸惑ったのが、「えらい」という言葉の使い方でした。
この地域では「えらい」は「しんどい」とか「大変」という意味で使われます。
しかし、私の故郷では「えらい」は「素晴らしい」とか「優れた」という意味で使われています。
そのため、こちらにきて「あの人、最近病気になってえらいんだよね」と聞いた時、「なんで病気になって素晴らしいと褒めているんだろう?」と戸惑ったことがありました(笑)
今回の箇所の「偉い」というのは「優れた」という意味です。
キリストは本当に偉い者、優れた者は何かを弟子達に教えられました。
今日は「偉さ」をテーマに3つのポイントで見ていきたいと思います。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
1
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
1つ目のポイントは、偉さの議論をする私たち、ということです。
聖書は言います。
ルカによる福音書/ 09章 46節
弟子たちの間で、自分たちのうち誰がいちばん偉いかという議論が起きた。
この「偉い」と訳されている元々の言葉は、「大きい」という言葉です。
誰が一番偉いかを議論するというのは、誰が一番大きいかを話すということ。
大きさを比べ始めるのです。
この前の箇所では、キリストは山頂に登る時、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ3人だけを選び山に連れていきました。12人の中から3人が選ばれました。
他の弟子達は思ったでしょう。
「なぜイエス様はあいつら3人を選んだのか?私を選んでくれないのは何故だろう?それなら私は残された弟子達の中では何番目にいるんだろうか?あの3人は今回は選ばれたけど、次イエス様に選ばれるのは誰だろう」このような思いを抱いたことでしょう。
このようにして、弟子達はグループの中で互いに順番をつけて誰が一番偉いか、誰の存在価値が大きいかを議論したのです。
これは私たちにもよくある経験ではないでしょうか。
私たちは、職場や学校、コミュニティの中で、自分がどのくらいの「大きさ」なのかを気にして、他人と比較してしまうことがあります。
たとえば、小学生の頃であれば、走るのが早い人が一番かっこいいという事になりやすい。
なんで運動会でかけっこが早い人は、あんなにみんなから憧れる人になるのか不思議なくらい足が速いというのはポイントが高いです。
しかし、高学年になると、勉強ができる人が一目置かれるようになり、走る速さだけではなく、頭の良さが偉さの指標になってきます。
いつまでも俺は足が速いんだぞ、とはいってられない(笑)
中学高校生になると、頭の良さだけでなく、話の面白さとか、楽器ができるとかそのようなものでも比較されてきます。
そして、大人になると、学歴や成績だけでなく、実際に仕事ができるか結果が出せるかどうか、そして年収はいくらか、などで自分の大きさを比較し始めます。
同窓会とかで久々にあった同期と話していて気になるのは、あの友人はどんな職業につき、いくら稼いでいるか、結婚しているのか、それらで自分の立ち位置を探っていく。
また家庭を持つと、自分のことだけでなく、自分の子どもがどこの学校にいくか、どこに就職するか、いくら稼ぐか、などでも自分の大きさを比較していく。
このように、私たちは人との大きさ比べからなかなか逃れることができないのではないでしょうか。
そしてそれによっていつも悩み苦しんでいる。
弟子達は自分の偉さ、大きさを議論しました。
それは、キリストに次誰が選ばれるかを論じていました。
今でいうと、誰がこのグループの中で次に昇進するのか、誰があの上司から認められるのか、それを弟子達は気にしていました。
キリストの一番近くにいた弟子達でさえも自分の偉さを気にしたように、私たちも誰かと比較をして自分の偉さ、大きさを気にして生きているのです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2つ目のポイントは、本当の偉さとは、小さい者を受け入れること、です。
弟子達が「誰が一番偉いか」を議論していたのご覧になって、
47:ルカによる福音書/ 09章 47節
イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子どもを引き寄せ、ご自分のそばに立たせて、言われた。
キリストは、弟子達の心の内を見抜かれました。
もしかしたら、弟子達はあからさまに「誰が一番偉いか」を議論をしていたわけではなかったかもしれません。
お互い探り合いをしながら話をしていたかもしれないです。
しかし、神の子であるキリストは、彼らの心を全て見抜かれました。
どんなに言葉巧みに本心を隠しながら「誰が一番偉いか」を探り合い、気にしていても、キリストには見抜かれている。
そして、キリストは一人の子どもを引き寄せてそばに立たせ、こう言われました。
48:ルカによる福音書/ 09章 48節
「私の名のために、この子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中でいちばん小さい者こそ偉いのである。」
現代では、「子は宝である」とか「子どもは次の世代を担う大切な存在」というイメージがあります。
しかし、当時はそうではありませんでした。
当時の社会では子どもは無価値な者、即戦力にはならない者、役に立たない者と見なされていました。
ユダヤ社会では、律法を守ることができるのが一人前と思われていたため、子どもは律法を知らずに守れないため、軽んじられ、子どもとの会話は愚かな者がするものと見なされていました。
そんな無価値な存在である子どもを受け入れることが、キリストを受け入れることと同じ意味である、さらに、子どもを受け入れる人は、キリストをお遣わしになった神をも受け入れることであると言われました。
これは一体どういう意味なのでしょうか。
私たちはなぜ、いつも人と比較し、大きさ比べをしてしまうのか。
それは、自分が一番小さい者、無価値な者になることを恐れているから。
私は、あの人より収入がある、人脈がある、結果を出している、だから私はここにいていい、会社にいていい、生きてていいと、自分が他者より優れていると感じることで安心をします。
もし自分が一番小さい者、無価値な者と見なされてしまうなら、私はこのグループから真っ先に切り捨てられてしまうのではないかと恐れるのです。
そのため、私たちは今日も自分の存在が小さくならないように必死で、自分はこんなことができます、と自分を大きく大きく、偉く見せようとするのではないでしょうか。
しかし、キリストはそんな私たちに、当時軽んじられていた小さき存在である子どもを受け入れるように言われます。
ここでキリストは、子どもを受け入れる時「私の名のために」と言っておられます。
「名のために」とは、キリストの名前を借りて事をなすことです。
例えば、「父の名のためにここにきました」というのは、父の代わりとしてここに来て、様々な決定事項を行うことが、父が決定することと同じことである、、、それが誰かの名のためにすることです。
それと同じように、キリストの名のために子どもを受け入れなさい、と。
それは、当時無価値な存在であった子どもを、キリストは愛して下さったからです。
命ある存在として愛された。そのように私たちも愛する。
ただしふと思うのは、キリストは子どもだけを愛されたのか。
ここでの「子どもを受け入れる」というのは、単に当時の子ども達だけを指すのではないと思われます。
神の目から見たら、私たち人間は、この世的に偉い人もそうでない人も、皆、本来は神に滅ぼされるべき小さき者、無価値な存在です。
私たちは皆、神の前では無に等しい罪人だからです。
神の子キリストを十字架にかけて殺すような者です。
本来ならば、神に滅ぼされ、切り捨てられても仕方ない者です。
しかし、神はそんな無価値な私たちを見捨てず愛し、キリストを送ってくださいました。
光り輝く最も偉大な神が、十字架によって最も小さい者、無価値な者とご自身がなられました。そして、キリストが自ら一番小さい者となって下さったことによって、神の前では無価値で滅ぶべき私たちを受け入れて下さいました。
私たちは皆、この世から見たら偉い人も偉くない人も、キリストが自ら十字架にかかるほど愛された存在です。
だからこそ、私たちがキリストの名によって小さき者を受け入れる時、一番価値の無いと思われているあの人をもキリストが愛して下さったこと思い起こすことによって、たとえ自分がどんなに周りから批判を受けて小さい存在になろうとも、大きな愛で支えてくれる方がおられることを確信することができるのです。
「キリストがこの最も小さい人をも、皆から『あの人は役に立たない』と言われている人さえも愛し受け入れて下さった。
このキリストの愛は私にも注がれている」と。
この時、私たちは今まで自分が小さくならないように必死で生きていた生き方から解き放たれることができるのです。
どんなに存在価値がないと見なされても、キリストの大きな愛が私たちを支えてくれるから。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
3
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
では私たちはどうしていけばいいでしょうか。
3つ目のポイントは、本当の偉さとは、分派を超える、ということです。
聖書は言います。
ルカによる福音書/ 09章 49節
ヨハネが答えて言った。「先生、あなたのお名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちと一緒に従って来ないので、やめさせました。」
ヨハネは、キリストの名前を使って悪霊を追い出した人が自分たちのグループに従わないのをみて、その働きをやめさせました。
なぜヨハネはこのような行動をしたのでしょうか。
ヨハネを含む弟子達は、キリストが山に登っている時、悪霊に取り憑かれた男の子を助けようとしましたが、悪霊を追い出すことができませんでした。
そんな彼らが、自分たちとは違う人達がキリストの名によって悪霊を追い出している人たちを見たら、どのように感じるでしょうか。
おそらく、弟子達は戸惑い、悔しさを覚え、自分の力の無さを痛感したことでしょう。
自分たちは悪霊を追い出せなかったのに、それを成し遂げている人達がいる、、、それはつまり彼らの方が自分たちより力がある、偉い人たちだと思った。
私たちも、自分が懸命に取り組んでいた事があっても、それがなかなか成果が上がらない時、他の人が成し遂げるのを見て、素直に喜ぶことができないことがあるのではないでしょうか。
職場などでも、自分がプロジェクトに全力を注いでも結果が出ない時、他の人が平然と結果を出しているのをみて、苦々しい思いになり相手の揚げ足をとりたくなることがある。
これは教会同士でもあります。
たとえば、自分たちが一生懸命伝道に取り組んでいるのになかなか結果がでない時に、他の教会ではたくさんの人が救われ伝道が成功しているのを見ると、素直に喜ぶことができないことがあります。
私たちが他者の成功に苦々しさを感じるのは、相手が自分たちより大きく、偉い存在に見えるからです。
そのような時、私たちは自分たちの行動を一生懸命正当化しようとして、相手を批判しようとすることがあります。
「あの人は素晴らしいかもしれないけど、実はこういう問題があるんですよ」と相手の欠点を指摘し、少しでも相手の大きさを小さくしようとするのです。
ヨハネは言いました。
49節 私たちと一緒に従って来ないので、やめさせました。
「私たち使徒達は、キリストに直接選ばれた由緒正しい者達だ。
だからキリストの名を用いて人を救うならば私たちと一緒にやってほしい、許可を得て欲しい」と考え、従わなかったので行為をやめさせたのです。
自分たちの方が正当で偉いと証明するために、悪霊を追い出す力がない分、自分たちの立場の正当性を用いて、偉さを主張しました。
ここで聖書が示しているのは、私たちが自分の偉さや大きさに固執すると、分断や分派が生じやすくなるという事です。
プロテスタントの教会には無数の教団教派があります。
日本基督教団、ルーテル、聖公会、改革派、ホーリネス、ペンテコステ派などたくさんの教団教派があります。
教会の歴史の中で、悲しいことに、自分の教団を愛するあまり、他の教団を批判してしまうことがありました。
「私たちこそ聖書に忠実であり、真に信仰を持つ者だ」と。
このようにして、自分たちの存在の大きさを神学に基づいて、他教団より自分たちは偉いと見なし、他の教団がキリストの名によって救われる人がいることを、共に素直に喜べない、、、そのような歴史がありました。
罪深い私たちの弱い姿です。
確かに、自分たちの神学の正当性、確かさを聖書に基づいて検証し続けることは必要でしょう。
それは異端から身を守るためです。
しかし、キリスト信仰による伝道をする者であるなら、他の教団も私たちの味方です。仲間です。
私自身、以前超教派の仕事をしていた時、いつも感じていたことです。
異なる教団の人達が集まって何かをしようとするとき、お互いの違いを見ていたら、すぐに大きさ比べが始まってしまう。
どちらが聖書に忠実か、歴史が長いか、信徒数が多いかなど、すぐに比較してしまうもの。
しかし、どの教団教派もキリストが命をかけて愛された人達です。
本当の偉さ、大きさとは、キリストが愛されたように他者も受け入れることです。
キリストは言われました。
ルカによる福音書/ 09章 50節
「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」
他の教団の人達がキリストによる救いを行っているなら、敵ではない、自分達の味方である、と。
このような視点で他教団と関わっていくことが、今改めて必要だと思わされています。
キリストは小さき者をも愛されました。
それは子どもだけではありません。
私たち全員が神の前では罪深く、滅んでいく価値なき者です。小さい者です。
しかし、キリストはそんな無価値な私たちをも愛されました。
この愛によって、今や私たちは自分の力で自分の偉さ、大きさを誇る必要は無くなりました。
キリストの愛が、私達の存在価値を支えて下さるからです。
だからこそ、この愛を受けて、私たちとは違う立場の人達とも協力して伝道していく、、、これが私たちキリスト者の生き方です。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
結語
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
聖書は言います。
ルカによる福音書/ 09章 48節
言われた。「私の名のために、この子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中でいちばん小さい者こそ偉いのである。」
今日は「偉さ」について3つのポイントで見てきました。
1つ目、偉さの議論をする私たち
2つ目、本当の偉さとは、小さい者を受け入れることである
3つ目、本当の偉さとは、分派を超える
キリストは今日も私たちに言われます。
「いつも自分の偉さ、大きさを気にして疲れている者達よ。
あなた達の偉さは、あなたが何かをしたから優れているのではない。
私が命をかけてあなたの偉大さを証明したではないか。
この愛によって生きよ。」
だからこそ、私たち教会は、最も大きなキリストの愛を受けた者として、共に福音を伝えていこうではありませんか。
祈ります。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
祈り
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
天のお父様、私たちはいつも他人と大きさ比べをする者達です。
本来、あなたから愛されている者であるのに、それを忘れて自分の業績や、収入や家柄などで一喜一憂する小さい者です。
しかしそんな私たちをあなたは十字架にかかるほど愛して下さいました。
このあなたの愛が私たちを他人と比べる生き方から解き放ちます。
そして、主義主張が違う相手であっても一緒にあなたの愛を伝えていくものとさせて下さい。
イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。