【日本の教会がタブー視しやすい傾向とは?】

「真実の信仰を目指して」から思わされたことです。


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「私が(工藤)先生にお会いしたら、ぜひお尋ねしたいと思っていたことがあります。
それは、日本の教会においては、「自分の感じていることや自分の考えることを説明するのを、タブー視する傾向があるのではないかということについて』です。
もちろん、何もこれは教会に限らず、日本の組織全般といえるかもしれませんが、その日本的特徴は教会では顕著に現れ、温存されているのではないでしょうか。

「説明すること』は、自分の感じていることをわかってもらい、同時に自分の誤りに気づくためにどうしても必要な機会です。
もちろん、この説明の分かち合いにルールが必要なのはいうまでもありません。
......しかし私が残念に思うのは、日本の教会においては、この『説明すること』の重要性がまったく尊ばれず、こうした発言は、「批判』と『言いわけ』という言葉に書き換えられてタブー視されてしまうことです。
しかしこれでは、せっかくの神様のみこころを尋ねる作業をエスケープしているものと感じざるをえません。

その結果、『批判』という言葉で退けられた『その人の感じていること』は、その人の中で腐り始め、『納得できない。収まらない。でも、批判的な考えを抱く自分が罪を犯しているのかもしれない』という複合的な毒素でその人を苦しめるのです。
この毒素は、その人だけを冒すのではなく、教会の全体をも冒しかねません。

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「.....しかし私が残念に思うのは、日本の教会においては、この『説明すること』の重要性がまったく尊ばれず、こうした発言は、「批判』と『言いわけ』という言葉に書き換えられてタブー視されてしまうことです。しかしこれでは、せっかくの神様のみこころを尋ねる作業をエスケープしているものと感じざるをえません。」

信仰というと、純粋に信じる事というイメージがあります。
そして教会は純粋に信じる事が大切であることを強調する時があります。
確かに一途に信じることは大切ですし、大きな力を生むでしょう。

しかし純粋に信じるというのにはそれまでに経緯があり、それは疑うことや自分の正直な思いを説明し、表現することも経過して、やがてより深く信じていくものです。

確かに日本では特に信仰面だと疑うこと、疑問を持つことは悪いような雰囲気があります。
でも物事を本当に理解し、信じようとするならそこには疑問は出て当然です。

その疑問を通して自分の考えや信仰が磨かれていく、そういう話を出しやすい場を提供し続けたいと思わされます。


今日も最高の1日を😄
God bless you〜(神の恵みがあなたにありますように)
長瀬雄大

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