好転作用とは?

「12の誤解」からの学びです。

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子供時代から感情的に孤立していた友人が、鬱の治療でセラピーを受けました。

人々と愛着を築けない問題に取り組み、初めて他者を愛し始めました。
セラピーにかかる前は、彼にとって人々とは漠然とした対象でしかなかったのです。

彼は自分の心に訪れた変化を喜んでいました。

ところが、親しい友人が交通事故で亡くなるという出来事が起こりました。彼は非常に衝撃を受け、そんな事故が起きることを許した神に対して激怒しました。
彼が神に向かって言ったことはあまりに激しく、生々しかったため、自分でも恐ろしくなりました。

クリスチャンのセラピストにこのような激しい怒りの感情について尋ねたところ、きっとそれは救われていない証拠だろうと言われました。

しかし、この話を聞いた時、私は彼にこう言いました。
「そうかもしれないが、私にはむしろ、君が救われている証拠のように思えるよ。
君は自分が考えていることを正直に神に話しても大丈夫だと感じている。
そして、そう言おうと思うほど君は神との関係を大切にしているのだから

多くのクリスチャンが彼のセラピストのような反応をします。

彼らは退行現象や怒りの感情、そして失敗などを、「バックスライド」あるいは「道を外す」、「落伍」と受けとめるのです。

彼らは、退行が聖化のプロセスの中にもともと組み込まれていることを理解していません。

もし聖化のプロセスをグラフで表すとしたら、それはまっすぐな右上がりの線ではないはずです。

むしろ、谷と山のたくさんあるジグザグの線になるでしょう。

失敗と退行はあるのが当然です。
成功ばかりで葛藤がないなどということは滅多にありません。

パウロが(自分で言っていたように)罪人のかしらであり、ペテロが主を否み、ダビデという名の人殺しかつ姦淫者が神の御心にかなう人として覚えられている(第一サムエル13:14)という、これらのことが全て事実なら(事実なのですが)、私たちも自分についての理想像を捨て、不完全な自己を赦しと愛のもとに差し出し、成熟させていただこうではありませんか。

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人は回復する経緯の中で好転作用というものがあります。

例えば整体で体をマッサージしてもらうと、次の日には痛みが出てくる時があります。
そうすると不安になります。
ヤブ医者じゃないかと(笑)

でもしばらくすると痛みは消えていき、むしろ体が軽くなり、あの痛みは回復するのに必要な経緯であったことが分かるのです。


妻が摂食障害での治療では、一時的に夫婦関係が悪くなりました。
お互い言いたいことを言うようになったからです。

それまでは、特に妻は人目(この場合ですと私)を気にして言えないことがあったことが言うようなり、そして私もそれに応じて言いたいことを言うようになったので、今までよりかは口喧嘩になることが増えたのです。

でもそれを通して、言い合いになり、どんなに喧嘩になっても、お互いに別れないという信頼関係が少しずつ築きあげるようになってきました。


回復のプロセスには退行現象がある場合がある、というのを改めて学びました。


今日も最高の1日を😄

God bless you〜(神の恵みがあなたにありますように)

長瀬雄大

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