【何の差別もされない神】メッセージ

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聖書朗読
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聖書を朗読します。
使徒15:6ー21
説教題は「何の差別もされない神」です。

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イントロ
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ここには、初代の教会において行われた一つの会議のことが語られています。
これは「エルサレム会議」と言われているものです。
キリスト教全体の会議が初めて行われたと言っていい。
今日でも小さいものから世界的な規模でキリスト者の会議というのが行われていますが、そういう会議の最初のものであったということができると思います。
この会議は定例の会議ではなく、特別に皆で緊急に論じなければならない議題が生じたのです。
そしてこの会議が、キリスト教会のその後の歴史に決定的な影響を与えました。

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誰が差別をするのか
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ことの発端はこうでした。
使徒言行録/ 15章 01節
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。

最初エルサレムで聖霊がくだり、教会が生まれました。
そしてその後アンティオキアでもたくさんの人が救われるようになってきました。
アンティオキアで救われた人の多くは、ユダヤ人だけでなく異邦人でありました。
そういった中で、エルサレム教会からアンティオキア教会まできて、異邦人キリスト者に対して、イエスキリストを救い主と信じることで救われる、だけでなく、割礼を受けなければあなたたちは救われない、そう教える人が現れ始めました。
主の恵だけでなく、割礼も救いの条件であると。

割礼。
割礼とは「切り捨てる、周りを切る」というのが元々の意味です。
男性の性器の亀頭を覆っている包皮を切り捨てるのです。
切り取る時、当時はナイフはないので鋭い石である、火打ち石によって切り捨てることが行われていました。
非常に痛みの伴うものです。

ではなぜわざわざそのような割礼をするようになったのか。
それは旧約時代に、神とアブラハムとの祝福の契約のしるしとして、アブラハムが99歳、その時13歳の子供であった、イシュマエルが、彼の家の全ての男子が割礼を受けたことが割礼の始まりでした。
それ以降、神の祝福の契約のしるしとして、イスラエルの民は生まれて8日目に割礼を受けることになったのです。

もし割礼を受けなければ、それは神との契約は破棄されたことになる、あなたは神に選ばれたユダヤ民族ではない、断ち切られる、そのことを意味するものでありました。
果たして自分は神から祝されているユダヤ人なのかどうか、神から聖別されているかどうか、それを見分けるのが割礼でありました。
異邦人の場合は、この割礼の儀式を受けることによって初めてユダヤ人の仲間に加えられたのです。

聖霊がくだり、最初に生まれたエルサレムでの教会は、多くの場合ユダヤ人、割礼を受けている人がほとんどだったので問題にはなりませんでした。
しかし、アンティオキア教会ではユダヤ人ではない異邦人が多く救われ、彼ら異邦人は割礼を受けていません。

ユダヤ人から見れば救いというのは、
イエスキリストの福音を信じること、そして割礼を受けているユダヤ人であることによって救われると思っていたのです。
しかし異邦人はキリストの福音を信じていても割礼を受けていません。
だから異邦人はキリストの福音だけでなく、割礼を受けて、ユダヤ人にならなければあなたたちは救われない、と主張したのです。
彼らから見たらそれは当たり前の感覚であったのです。

そのような彼らの主張と、「いや、割礼を受けなく、異邦人のままであっても、キリストの福音によってのみ救われる」と信じるアンティオキアで実際に異邦人伝道をしていたパウロやバルナバとの間で激しい対立と論争が生じ、大問題になりました。

そしてこのことについて、救いには割礼はいるのかどうか、そのことを使徒や長老たちと話し合おうと、パウロやバルナバ他数名がエルサレムに出向き、話し合うことになりました。
これがエルサレム会議のきっかけだったのです。

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エルサレムにいく途中の出来事
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そしてパウロとバルナバと、その他に数名の者はアンティオキアからエルサレムに向かい、到着するとそこでエルサレム教会の使徒たちと長老たちに、「神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した」のです。
つまり、異邦人たちが、異邦人であるまま、割礼を受けないままで、イエス・キリストを信じ、教会に加えられ、神の民として喜んで歩んでいること、そのような伝道が進展して、あちこちに、異邦人のキリストの教会が生まれていることを報告したのです。
しかしそれに対して、ファリサイ派からキリスト者になった人たちが、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と主張しました。
アンティオキアでの対立、論争がまたここエルサレムでも繰り返されたのです。

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差別とは?
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このような使徒言行録の記事を読みますと、せっかくアンティオキアで異邦人が救われたこと、そこに教会ができたこと、そういう喜びの中にあるのに、なぜわざわざ混乱させることを言のか、と思ってしまいます。

このようにいう人の中に「ファリサイ派から信者になった人」とわざわざ書かれています。
ファリサイ派というのは信仰の筋道をとても真剣に生きようとした人たちであります。
このひとたちはまじめでした。
信仰生活や考え方を大切にしようとしていました。
それだけに、自分たちが正統だと思っていました。
しかし、このファリサイ派の人たちは、自分たちのこれまでの生き方が正しいと思ったときに、自分たちのように生きていない人びとを裁き始めたのです。
「あの人達は、割礼も律法もやっていないではないか。
私たちとは違う」
そう差別し始めたのです。

差別という原語は、他の意味として「区別する」という意味があります。
区別する。

自分たちは割礼を受けている、他の民族とは違う民であると区別する。
そのように他の人と区別をしていくのです。
しかし彼らは、割礼をうけた自分たちは神に選ばれた民族である、という区別から、それが誇りとなり、割礼を受けていない人たちに対しては軽蔑をするようになっていきました。
差別していったのです。
現に歴史上カナンの地、ペリシテ人は無割礼の者として軽蔑されていました。
私たちはあの人たちとは違う、自分たちは選ばれた民族である、と。

でもこれは遠い話ではありません。
私たちの中でも区別をする。
私たちは、性別、年齢、学歴、職業、役職などで区別をします。
私は◯◯大学に行った、あの人はどこどこ大学に行ったと区別をする。
私は課長である、あの人は社長である、年収はいくらか、そう区別する。
分けるのです。
それ自体は物事を整理し理解するために必要でしょう。
でもそれが私たちに時に差別意識を生み、優劣をつける。
私はあの人たちとは違う、私にはこれがある、これをしている、と。

しかし聖書はいうのです。神は
使徒言行録/ 15章 09節
彼らの心を信仰によって清め、私たちと彼らとの間に何の差別もされない
と。

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神は差別をしない、というペトロの根拠とは?
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これを会議で言ったのはペトロでした。
なぜこのような事を言えるのか。
神は何の差別されない、となぜ言いきれるのか。

それは彼自身が体験したからです。
10章に異邦人であった百人隊長のコルネリウスがいました。
ペトロが神の導きによって彼らに福音を語っていると、その途中彼らに聖霊が降ったのです。
その時のペトロ達の様子をこう書いてあります。
使徒言行録/ 10章 45節
割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。

割礼を受けているユダヤ人キリスト者、ペトロたち全員、異邦人にも聖霊が降った事を見て驚いたのです。
驚いた、という表記は、おそらくペトロ自身が本当に実際に目の前で異邦人が救われ、聖霊が注がれていったのを見て、改めて神の言われていたことが本当に起こったことを実感したからだと思います。

彼は、神がこれから福音が異邦人にも広がっていく、そのことを聞いていました。
頭では理解していた。
でもそれが実際に目の前で起こって、改めて神の言葉が本当になることを知る。
だから驚くのです。

ペトロはその驚きの体験と感動を思い浮かべながら、エルサレムでの会議の中、立って言い出したと思うのです。
ペトロは言います。
「兄弟のみなさん、私たちユダヤ人にも与えてくださった聖霊が確かに異邦人にも注がれたこと、それを私は実際に目の前で見たのだ。
私以外にもそれを見た人がいる。
神は確かに彼ら異邦人達を受けれられているのである。
割礼を受けたユダヤ人だけではない。
私たちはその証人である。
ユダヤ人たちよ、あなた達は割礼によって、神に選ばれた者であることを証明しようとした。
しかし今や神はイエスキリストを主と信じる信仰によって、聖霊を与えてくださり、それが何よりの証明となった。
だから割礼を受ける受けないで、私たちは救われるのではない。
イエスキリストを主と信じることによって私たちは救われるのだ。
これはユダヤ人であろうが、異邦人であろうが何の差別もない。
なぜなら割礼を受けているユダヤ人が救われた時に与えられた聖霊、それと同じ聖霊が、割礼を受けていない異邦人にも与えられているから。

この筋の通ったペトロの話が、この会議を決定づけました。

この後、ペトロは使徒言行録では姿を消していきます。
この後はパウロが中心に使徒言行録は記事が進んでいくのです。
でもペトロにとっての最後の言葉は、ペトロの、そして当時の教会を代表して最も伝えたかったことだと思うのです。

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神は区別されるお方である
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私は思います。
私たちは、さまざまなものを使って自分と他の人とを区別しています。
職業や学歴など。
そしてそこから差別が生まれ、時に私たちは互いに関係を断ち切ることがある。
また争いに発展することがあります。
「私はあの人と違う」

でもそもそも神と私たち人間を考えた場合、神は私たちと全く区別されるお方ではないか。
神が人をお造りになられた。
創造主と被造物である私たち。
そして神は聖なるお方であり、その聖なる神の前では立つことのできない罪人である私たち。
全く違う。

しかし神は、私たちと全く区別される方であるにも関わらず、神は私たちを軽蔑し、見捨てるようなことはしませんでした。
神はそうされず、罪のある私たちを愛された。
そしてそのために、御子イエスキリストをこの世に送って下さいました。

ある書物では、割礼はキリストが現れたことで全く別のものになったと言います。
割礼は元々「切り捨てる」という意味があると言いました。
旧約時代の割礼は、肉体の一部を切り捨てることでありました。
しかしキリストは、肉体全て、命の全てを切り捨てる十字架の出来事を通して、私たちの罪を一部ではなく根こそぎ切り捨てて下さったのです。
このキリストの十字架の出来事を受け入れる信仰によって、私たちは救われるのです。

私たちは、もはや肉体の一部を切り捨てる割礼は必要がないのです。
なぜなら神の子であるキリストが十字架で肉体全てを切り捨て、私たちを罪から救って下さったからです。

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この会議の重要性
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この会議での決議は、信仰によってのみ受け入れられる、福音をのべ伝える教会として確立する会議となりました。
これは後のキリストの教会の歩みを決定する、歴史的に重大な、私たちは忘れてはならない会議であったと思うのです。

この会議がもし、救いにはキリストを主と信じる信仰だけでなく、割礼も受けなければいけない、とそのように会議で決まっていたら、ユダヤ教の一派としてなっていたでしょう。
そして異邦人である日本には多く伝わらず、今私たちはここで共に礼拝をすることはなかったと思うのです。

しかし今や私たちはこうして教会に集っています。
ここには人種も、年齢も、職業も、生い立ちも、学歴も全く違う人達が神によって集められています。

人間的な目から見たら全く共通点がないように思えます。
しかし神は何の差別もなく、私にも、あの人にも愛を注がれ、ただの割礼ではなく、キリストの割礼によって罪から救い出し、同じ聖霊を与えてくださりました。

そして私たちは、この何の差別もされないこの神の愛を伝えるものとして今日も歩んでいこうではありませんか。
お祈りします。

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祈り
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天のお父様、私たちはあなたを主と信じる信仰によって救われました。
それ以外に救いはありません。
それはキリストが肉体全てを、命全てを切り捨てて十字架にかかって下さったからです。
それによって私たちは罪から救われたからです。
そして私たちに何の差別もなく聖霊を与えてくださいました。
この聖霊によって私たちは今日も生かされている事実に生かされている確信を私たちに新たえに与えて下さい。

イエス様のお名前によってお祈りします。

アーメン。


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