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【この一年を思い巡らす】241229礼拝メッセージ
「この一年を思い巡らす」
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イントロ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 02章 19節
しかし、マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた。
今日のテーマは「思い巡らす」です。
皆さんは、何か同じことが頭の中をグルグルグルグルと回ったり、特定の曲が繰り返し流れることはないでしょうか。
例えば、子どもが鼻歌で歌っていた曲や耳に残ったり、スーパーやテレビで流れている音楽がず頭の中でずっと再生されることがあるかもしれません。
また、過去の失敗を思い出しては「あの時こうしていれば良かった」と何度も後悔し、ため息をつくこともあるのではないでしょうか。
私自身も、様々な人との対話や出来事を通して、「もっとこう言えば良かったかもしれない」とか「あの時、子どもをすぐに怒るのではなく、事情をもっとよく聞いてから判断すれば良かった」と思い起こすことがあります。
聖書の中でも「思い巡らす」人がいました。
それはイエス・キリストの母、マリアです。
今日は「思い巡らす」をテーマに、2つのポイントで見ていきたいと思います。
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1つ目のポイントは、不思議な出来事を思い巡らす、ということです。
15:ルカによる福音書/ 02章 15節
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
ここでいう「その出来事」とは、天使が羊飼い達に伝えたメッセージ、すなわち救い主キリストが生まれたという知らせです。
11:ルカによる福音書/ 02章 11節
今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
12:ルカによる福音書/ 02章 12節
あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。」
ある夜、羊飼い達が野宿をしながら番をしていると、突然天使が現れ「救い主が生まれた」と告げました。
そして、羊飼い達はその赤ちゃんを見に行こうとします。
ただし、いざその救い主を実際に見ようと思っても、町には赤ちゃんは他にもたくさんいるわけで、どの赤ちゃんが救い主であるか、その目印となるものがなければ見つけることはできません。
普通であれば、「何丁目の何番地にある◯◯さんの家」と具体的な場所を示せばわかります。
しかし、天使はこう告げました。
「飼い葉桶で寝ている乳飲子がそのしるしだ」と。
飼い葉桶、、、それは家畜である動物が餌を食べるための台です。
そこに生まれたばかりの赤ちゃんをわざわざ寝かせるなど、普通では考えられないことです。
しかし、普通そこには赤ちゃんはいないからこそ、羊飼い達が救い主を見つけるしるしとなったのです。
羊飼い達は、これを聞いて言いました。
「さあ、ベツレヘムに行こう」
羊飼いらは天使の言葉を信じて、すぐにベツレヘムに向かいました。
16:ルカによる福音書/ 02章 16節
そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた。
羊飼い達は、言われた通りにベツレヘムに向かい、そこで飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんを見つけます。
普通なら、絶対に寝ているはずのない場所で安らかに眠る救い主。
この光景を目の当たりにした時、彼らはこう思ったでしょう。
「ああ、天使、神様の語られたことは本当だった。飼い葉桶に寝かされている。
この赤ちゃんこそ、私たちを救うために来られたお方なんだ」と。
ただし、この羊飼い達はただ救い主を見て満足して終わっただけではありませんでした。
17:ルカによる福音書/ 02章 17節
その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使から告げられたことを人々に知らせた。
彼らは、飼い葉桶に寝ているこの幼子こそが私たちの救い主であること、天使から告げらた事が真実であることを、周囲の人たちに伝え始めました。
羊飼い達はキリストと出会うことで、神の救いのご計画が確かに現実となっていくことを、周りの人々に告げ知らせていく伝道者へとなったのです。
では、それを聞いた人々の反応はどうだったでしょう。
ルカによる福音書/ 02章 18節
聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
ここで「不思議に思う」という言葉は、「驚く」とも訳されます。
つまり、人々は羊飼いの話を聞いて驚き、にわかには信じられなかったのです。
皆さんも、もし羊飼い達が興奮しながら
「いやぁ、夜中に羊の番をしていたら、急に天使が現れてね、ダビデの町に救い主が生まれたと教えてくれたんだ。
しかも、お城とかではなく飼い葉桶にいるって。
で、行ったら本当にいたんだよ。
さらに天使がたくさん現れて、みんなで賛美を始めたんだよ!」
このような話を聞いて、すぐに「そうなんだ」と信じられるでしょうか。
すぐには理解できないかと思うのです。
しかも、話しているのは羊飼いです。
当時のユダヤ社会では、羊飼いは律法を守ることができない職業として軽視されていました。
安息日にも羊の世話をしなければならないため、律法を重んじる人々からは「不信仰な者」と見なされ、社会的な地位が低かったのです。
そのため、羊飼いの証言は裁判でも信用されないほどだったのです。
そんな立場の羊飼いが伝えたのは、旧約時代から待ち望まれていた救い主がついに誕生したという知らせ。
しかし、救い主が王宮ではなく、粗末な飼い葉桶で寝かれているという話。
さらに、天使が突然現れ、大群で賛美を捧げたという出来事は、それだけでも信じ難い内容です。
そしてその知らせを伝えたのが、祭司や学者といった社会的に信用のある人達ではなく、誰も信用していない羊飼い達です。
きっとこれを聞いた人々はこのように思ったでしょう。
「え?本当にあなた達が言っているように、今まで多くの人が待ち望んでいた救い主が、家畜の餌を置く飼い葉桶に寝ているというの?汚れていて臭い場所に救い主が?それに天使が歌っただって?そんなの幻だったんじゃない?」と。
このように、自分達の常識では理解できず、受け入れ難い話だったと思うのです。
本日は今年最後の礼拝になります。
この一年を振り返ると、皆さんも「不思議だ」と思わざるを得ない、驚くべき出来事に直面したことが色々とあったのではないでしょうか。
今年の初めには能登で大震災があり、その後には飛行機事故が続きました。
ある人は本人や家族が病を患ったり、またある人は事故や怪我などに巻き込まれる経験をしたかもしれません。
「主よ、なぜですか?」と問わざるを得なかった瞬間もあったのではないでしょうか。
このように、私たちの理解を超えた不思議で驚くべき出来事が、いくつもあったと思います。
羊飼い達が経験した出来事に対し、周りの人々が「不思議だ」と感じ、なかなか理解できなかったように、私たちの人生においても、自分の頭では理解できない不思議なことが起こる事がある。
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では、私たちはどうしていけばいいのでしょうか。
2つ目のポイントは、全てのことを思い巡らす、ということです。
聖書は言います。
ルカによる福音書/ 02章 19節
しかし、マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた。
皆が羊飼いの話を不思議に思っていた中で、心に留めて深く思い巡らしていた人がいました。
マリアです。
「思い巡らす」という言葉は、元々「一緒にする」という意味があります。
これは、複数の出来事を引き合わせ、一緒にして比べたり検討したりすることを指しています。
ある訳では「考え合わせる」と書いてありました。
マリアは、自分が今まで体験してきたこと、聞いたこと全てを心に刻み、それらがどのように繋がるのか、どんな意味を持つのか深く考え続けていきました。
自分が体験した出来事と、あの時聞いたことがどのように組み合わされるのか、色々と推論しながら、マリアは心の中でずっと思い巡らし続けていたのです。
一つの出来事だけを見てもよく分からないかもしれません。
しかし、それらを積み重ねていくのです。
たとえば、
ヨセフとの結婚の準備をしていた矢先、突然天使が現れ「おめでとうマリア、あなたには男の子を授かる」と告げられたこと。
また、その後自分が親戚のエリサベトの元を訪れると、不妊の女性と言われていた彼女が神の力によって子どもを宿してお腹が大きくなっているのを見て、改めて、「神に不可能はない」ことを思い知ったこと。
一方で、夫となる愛するヨセフに自分の妊娠を伝えた時、彼は狼狽え、聖霊によって身籠ったことをすぐには信じてもらえなかったこと。
でも、聖霊の助けによってヨセフは最終的に自分と、お腹にいる子どもを受け入れ、結婚してくれたこと。
それで一安心かと思いきや、皇帝から突然住民登録の命令が出され、長旅を余儀なくされたこと。
その旅の末、ようやくキリストを無事出産したものの、生まれた場所は寒く、臭い飼い葉桶であったこと。
これらひとつ一つの出来事は、当時のマリアにとって戸惑いや不安を伴うものだったでしょう。しかし、彼女はこれらの出来事を全て心に留め、深く考え合わせていきました。
しかも、19節に記されている「これらのこと」の「こと」は、言葉とも訳す事ができます。
つまり、マリアは起こった出来事だけでなく、神から語りかけられた御言葉にも心を留め、起こった現実を繋ぎ合わせ続けたのです。
マリアが思い巡らしていたのは、この時だけではありません。
聖書は、彼女がこの後も思い巡らす姿を記しています。
たとえば、キリストが成長して少年になった頃のことです。
マリア達家族がエルサレムの神殿で礼拝を無事終え、帰っている途中、キリストがいないことに気付きます。
あっちゃこっちゃ必死で探し回った末、ようやく神殿で学者達と話をするキリストを見つけました。
心配していたことを伝えると、キリストは「わたしは自分の父の家にいるはずだということを知らなかったのですか」と答えます。
この言葉の意味を、当時のマリアとヨセフは理解することができませんでした。
それでもなお、マリアはこれらのことを全て心に留め、考え続けたのです。
そして、マリアにとって最も不思議で、衝撃的だった出来事はキリストが十字架にかけられる場面だったでしょう。
確かに、キリストは以前から「自分は十字架にかかる」と預言していました。
しかし、神の子である救い主が本当に呪われた者として十字架にかけられ、殺されるとは、マリアにとって理解できないことだったでしょう。
聖霊によって生まれた罪なきお方が、なぜこのような苦しみを受ける必要があったのか?
なぜ神はそのような悲劇を阻止しなかったのであろうか?
きっとマリアは、これらの疑問も心に留め、思い巡らせたに違いありません。
しかし、そのように心に積み重ねていた数々の不思議な出来事が一つに繋がる時が来る。
それが復活の時です。
キリストが死を打ち破り、甦られた。
そして、自分の前に現れて下さった。
その時、マリアは知るのです。
なぜ、神は結婚前の自分を通して、罪無きお方を産む必要があったのか。
なぜ、この罪なきキリストが十字架にかかり、死を迎えなければならなかったのか。
そして、なぜ神はこの悲劇を止めなかったのか。
今まであったそれらの一つ一つの出来事と御言葉が一つにつながっていく。
神の大いなる救いのご計画が見えてくる。
マリアが今まで心に留めて、思い巡らし、考え合わせてきたことが一つに繋がる時が来るのです。
それは、キリストの誕生から復活に至る30年以上にわたる長い歩みの中で実現しました。
一見分からないことも、すぐに善悪を判断するのではなく、長く心に留め、考え続けていくのです。
ある牧師が言いました。
「私たちはすぐに答えを見つけようとする。
しかし、信仰の歩みとは、すぐに答えが与えられる場合もあれば、長い年月をかけてようやく分かる時もある。
分からないことも持ち続ける、、、それも大切な信仰の歩みである。」と。
私たちもこの一年を振り返れば、不可解で驚くべき出来事がありました。
それは、喜びや感謝に満ちた出来事もあれば、戸惑いや悲しみを伴うものもあったかもしれません。
私たちの人生には様々な出来事が起こります。
しかし、神を信じて生きるとは、一つの出来事だけを見て判断するのではない。
これまでの歩みの中で与えられた出来事を思い巡らし、考え合わせていくことです。
今日招きの言葉で読みました。
2:詩編/ 001編 002節
主の教えを喜びとし/その教えを昼も夜も唱える人。
3:詩編/ 001編 003節
その人は流れのほとりに植えられた木のよう。/時に適って実を結び、葉も枯れることがない。/その行いはすべて栄える。
2節にある「唱える」という言葉は、「牛のように反芻する」という意味があります。
牛が一度腹に入れた草を何度も口に戻しては噛み直すように、私たちも神の言葉を一回聞いて終わりにするのではなく、繰り返し思い巡らし、何度も味わい続けるのです。
こうして私たちが神の言葉や、不思議な出来事を心で反芻していく時、ふと気付かされるのは、自分が神の命の大きな流れの中に生かされているという事実です。
それは、私たちが神の救いの歴史という大きな川の全貌を理解するのではなく、その流れの側に植えられた木として生かされていることを知ること。
私たちが人生の歩みの中で知る事ができるのは、ほんの断片にすぎません。
しかし、その中で私たちが知るようになるのは、自分が全てを理解していなくても、神によって捕えられ、今日も神の命という水によって生かされているということだと思うのです。
実際、私たちが救われ、今ここに集っているのも、神の不思議な導きの連続があったからではないでしょうか。
当時は「なんでこんなことが起こるのか?」と分かず、理解できなかったかもしれません。
しかし、今自分の人生を振り返ると、一見無関係に見えた一つ一つの出来事が、まるで一本の糸で繋がっていることに気付かされます。
それは、わたし達一人一人に対する神の大なる救いご計画の流れの中で、深く愛され、確かに救われていったことを知るからです。
私自身もこの一年を振り返れば、喜ばしいこと、嬉しかったこともあれば、「どうしてこんなことが起こってしまったのだろう?」と問いかけずにはいられないような悲しい出来事も経験しました。
しかし、そうした出来事もいつの日か分かる時が来る、繋がる日が来る。
その日は何年後、十年後かもしれない、もしかしたら生きている間には分からないかもしれません。
けれども、復活の日にキリストと顔と顔を合わせた時、繋がる時が来る。
それを信じて、今は理解できずに分からないことがあっても、それら一つ一つを大切に心に留めて思い巡らし続けていく、、、これがキリスト者の生き方だと思うのです。
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結語
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 02章 19節
しかし、マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた。
今日は「思い巡らす」をテーマに見てきました。
1つ目、不思議な出来事を思い巡らす
2つ目、全てのことを思い巡らす
キリストは今日も言われます。
「今年一年も様々なことがあっただろう。
嬉しいことも悲しいこともあった。
理解することができないこともあっただろう。
しかし、それら一つ一つのことも、私が作りだす大きな救いの歴史の流れの中にある。
いつかそれらがつながる日が必ず来る」と。
だから、私たち教会は、今年一年を振り返りながら、たとえ今は理解できなくても、一つ一つの出来事に心を留め、思い巡らし続けていこうではありませんか。
祈ります。
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祈り
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天のお父様、この一年も私たちをここまで導いてくださり感謝致します。
この一年も私たちの周りでは様々な事がありました。
大地震などの災害、飛行機事故、病など、私たちには理解りがたい出来事がたくさんありました。
なぜこのようなことが起こるのか?私たちにはそれを完全に理解することはできません。
様々な要因があるからです。
しかし、それら一つ一つの出来事を心にとめ、マリアのように思い巡らし続けるものとさせて下さい。
いつの日か、それらがあなたの大いなるご計画の流れの中にあることが分かると信じ、これからもあなたを信頼して歩み続ける事ができますように。
イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。