【人生で嵐の中歩む時どうしたらいいか?】メッセージ
先日メッセージをしました。
シェアします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー聖書箇所
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ルカによる福音書/ 08章 25節
イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「一体、この方はどなたなのだろう。命じれば風も水も従うではないか」と互いに言った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・イントロ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私はジェットコースターが苦手です。
ガタガタ揺れて、ふわっとする感覚が嫌なんです。
飛行機も苦手でして、離陸の時はいいんですが、乱気流でガクンとなると、心の中では、ワーとなる。
でも子供が隣にいて、パパ怖いよーと言う時、強がって「うん、大丈夫。パパがついているよ」と言うのです。
心ではドキドキしながら。
で妻にはそういうの全部バレているのです(笑)
揺れたり、ふわっとする、不安定なのが苦手なのです。
皆さんの中にも同じように苦手な方もいるかもしれません。
では地上では大丈夫なのでしょうか?
地震があります。
また最近では土砂災害、また川の氾濫などで家が流されるのを見ます。
家が流される。
本来あって当たり前、建っていて当たり前の家が流されるのです。
そして揺らされるのは物理的なものだけではありません。
それは、今まで勤めていた会社が傾くこともあるかもしれません。
自分が働く環境に強い風が吹く。
また、信頼していた人間関係で裏切られることかもしれません。
この人は大丈夫だ、この人なら信頼できると思っていた人から切り崩される。
また、1枚の診断結果によって健康が揺らぐこともあるのです。
私の人生を振り返るときに、大きく揺らいだ経験として思い出すのが、私の家族で唯一クリスチャンであった母の病気の告知でした。
私が21歳の時、今まで元気だった母が急に倒れ、検査を受けたのです。
すると肺に影があるという。
そしてさらに精密検査を受けた時、肺がんステージ4と言われました。
手術は不可能。余命もあまりない状態だったのです。
今まで人が死ぬ、それは知っていたつもりです。
テレビや新聞などで人が亡くなられる記事を読む。
また親戚の方が亡くなって葬儀に参加したりもしました。
知っているんです、人が死ぬことを知識としては。
でも自分の本当に身近である親の命があまりない、となるとまた捉え方が違ってくる。
今までいて当たり前の存在。
今日もいて、明日もいるのが当然。
当時母は50歳位でして、日本の平均寿命が80歳と言われていた時代、まだまだ当然のごとく生きているものだと私は思っていたのです。
でもたった一通の診断結果で、今まで当たり前だと思っていた、生きていて当たり前のものが、なんと脆いものか打ちのめされるのです。
そう、土台が揺らぐのです。
そして思うのです。
神よ、なぜあなたは黙っているのですか?
なぜ母の病気を癒してくれないのですか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・弟子たちの状況
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
弟子達は言いました。
「先生、先生、このままでは死んでしまいます。」
彼らはプロの漁師です。
ちょっとやそっとの波風で船が揺れるくらいですぐにワーって慌てふためくのではありません。
そのような経験は彼らは何度も何度もしていました。
彼らはある程度知識と経験があったのです。
最初は、イエスキリストが寝ておられたのです。
「あ、先生もお疲れなんだ。
ずっと説教していたし、人々に対応していたんだ。
そりゃ疲れるよ。だから今はそっとしてあげよう。」
そう思ったかもしれません。
そしてそのまま舟を漕いでいた。
でも突然突風が吹き下ろし、弟子達は水を被りはじめました。
この湖、ガリラヤ湖にはよくあることのようです。
今でもよく起こる。
突然、高い山から激しい風がふきおろして、舟を翻弄するのです。
ある程度までは彼らは頑張ったと思うのです。
先生をすぐに起こしたくない。
自分たちの力でできるだけ先生に休んでもらおう、と。
そして自分たちの経験と技術でこの突風と波に対応していく。
舟に入ってくる水をかき出し、波にのまれないように必死で漕いでいく。
でもそれ以上に波風が大きくなっていきました。
そして弟子の一人が言う。
「おい、先生を起こせ」
で弟子達がイエスキリストに言うのです。
「先生、先生、このままでは死んでしまいます。」
言い換えるとこうなります。
「私たちの主イエスよ、なぜ私たちがこんな危険な目に遭っているのに、死にそうになっているのに、あなたは寝たままで何もなさらないのですか?」
ここでの問題はなんでしょうか?
イエスキリストが舟で眠っていること自体が問題ではなかった。
自分たちが波をかぶり、そしてこの風と波がこれ以上強くなると、もう本当に危ない、自分たちの命が脅かされるほどの死の問題が起こった時に、それでもなおイエスキリストが眠って、何もしてくれていない事が問題だと思ったのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・私たち実生活の土台が揺るがされる体験
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私たちも、ここ最近のことを過ごしている中で、色々と人の悩みを聞いたり、仲間で祈祷課題をシェアした時などに、厳しい現実を目の当たりにします。
どうして信仰をもっていも、こんなに苦しい状況になってしまうのだろうか、と。
しかも、そのどうして信仰をもっていても、というその嘆きの背後には、イエスキリストが眠らずに起きていて下されば、こんなことになる前に止める事ができるのではないか、そういう問いがあるのです。
そう言わずにはいられない問いが生まれるのです。
先ほど交読を読み交わしました。
詩編/ 035編 023節
わが神、わが主よ/目を覚まし、身を起こしてください
そう、神が眠っているように思うのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・私たちの思い込み イエスと一緒にいるのはのどかな毎日を送ること?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そもそもこの舟に乗る理由は何だったのでしょうか?
ルカによる福音書/ 08章 22節
ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、船出した。
イエスが「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたから弟子達はその言葉に従って舟に乗りました。
弟子達がイエスを誘ったのではない。
もしこれが、イエスの言葉に反発して弟子達が勝手に舟を出して嵐に会うのであれば、まだどこかで納得いくかもしれません。
主に従わなかったのだから、そのような目にあうことはあるかもしれない、と。
でもそうではないのです。
イエスが一緒にいて、そしてイエスが湖の向こう岸へ渡ろう、行こうというその声に聞き従ったにも関わらず嵐にあうのです。揺れるのです。
私たちはどこかで、イエスと共にいたら、イエスの指し示した言葉に従っていたら、いつも静かな快適な船旅をどこかで想像するのではないでしょうか?
私は母が末期ガンと聞いた時に思った疑問はそこでした。
クリスチャンであり信仰生活を守ろうとしている母を神はなぜ、守ってくれないのだろうか。
もちろん完璧な信仰ではありません、でも、それなりに真面目に信仰生活を送っているように思えたのに、それでもなぜあなたは早く病気を知らせてくれなかったのだろうか?
もっと言えば、なぜあなたはこの病気を治してくれないのだろうか?と。
あなたに従ってついていく。
なのに揺れる。
そして神は何もしない、寝ていると感じてしまうのです。
でも一つ言えるのは、私たちにどんなに風や波があって、主イエスが寝ているように思っていても、イエスがあなたの舟から離れ、見捨てているわけではない。
イエスはあなたにどんなに風や波が襲おうと、確かにあなたと一緒の舟に乗っている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
弟子達は言ったのです。
「先生、先生、このままでは死んでしまいます」
その中イエスキリストは起き上がり、風と荒波をお叱りになると、静まって凪となりました。
そしてイエスは言われました。
「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。
イエスが風と波を叱りました。
言葉を発したのです。
すると風と波はぴたりと止まりました。
疑い深い人は、これはたまたま、偶然、風と波が静まったのだ、という人もいます。
確かに風は突然吹いてきたので、突然止むことはあるでしょう。
でも風がやんでも荒れた波が同時に静まるのは、決して偶然ではできない。
奇跡としか言えないものです。
イエスキリストの言葉は自然をも従わせる力がある。
その現実を弟子達は見るのです。
そしてイエスは言われました。
「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。
イエスキリストは弟子達に対して「あなた方の信仰は無い」と言っているのではありません。
信仰はある。
でも見ているところが見当違いなのです。
どのように見当違いなのか?
弟子達は、自分達が死にかけているのに、溺れて死にそうなのに、イエスが眠っておられ、何もしないと思っていました。
でもイエスが見ておられるのは、弟子達が恐れていた、自分たちが溺れて死んでしまうこの死に対しても、イエスの支配があるということです。
今までもイエスキリストは病の人を癒やすなど奇跡を起こし、そして今回風と波をも支配された。
さらに私たちの根本的な不安、恐れである死に対してもイエスの力、支配はイエスの手の内にある。
弟子、私たちはその最も肝心な死について揺らされる時、私たちは慌てふためき、イエスが眠っておられ、必死で叫んでしまうのです。
でもそんな私たちの叫び声にイエスが応えられるのです。
まるでイエスキリストがこう言うようです。
「なぜ私が眠っているように見えるからといって、私があなたを見捨てようと思うのか。
私は死から勝利したその手であなたを支えるのだ」と。
たとえイエスに従って生きていても私たちには突然風が吹き、波は荒れます。
逆境に合い、風や波を被るように批判を受ける、今まで信頼していた人間関係が崩れる時があります。
今までの経験や知識を持ってもなお対処できない問題がくるのです。
そして私たちは土台が揺れることで叫んでしまうのです。
死を恐れるから。
でも私たちの乗る舟には確かにイエスキリストがおられる。
そして、私たちの叫びを受け入れ、応えてくださるお方。
確かに弟子達の信仰が検討外れなところを見ていたかもしれません。
だから主を起こそうとした。
でもそんな弱さのある私たち人間の嘆き、悲しみ、訴えにイエスキリストは耳を傾けて下さる。
だから私たちは、揺れて、神が寝ているように思い、疑いがある中でもなお叫び祈り続ける事ができるのです。
ある人が言いました。
信じるとは、眠っておられるイエスキリストの中にあった静けさが私たちの中に映される、という事だと。
イエスキリストが叱り荒れた波がおさまりました。
これは私たちの内側にある静けさが広がることでもある、と。
神から出る言葉によって、何より私の内側の嵐がおさまっていくのです。
そう、神の言葉、御言葉は、自然をおさめ、そして人間をもおさめて下さる。
その方が今日も私たちの舟に乗って下さっているのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・母の姿
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
母が亡くなる数日前、もうあまり意識がなく酸素ボンベをつけている時でありました。
苦しんでいる彼女を見て何かできないかと思い、好きな御言葉を読んだのです。
イザヤ書/ 40章 31節
しかし、主を待ち望む者は新たな力を得/鷲のように翼を広げて舞い上がる。/走っても弱ることがなく/歩いても疲れることはない。
この時あまり意識のないはずの母がニコッとしたのです。
その時思いました。
「あ、神の言葉は、どんな状態でも、生きる時も死ぬ時にも、慰めを与える力を持ち、痛みがある中、風や波が荒れる心にまで平安を創り出すのだ」
と思わされたのです。
神の言葉は人を静める。凪になる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・本当に見捨てられたイエス
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
弟子達は風と波を叱りつけ、凪になったのを見て言いました。
25節
「一体、この方はどなたなのだろう。命じれば風も水も従うではないか」と互いに言った。
ではこの方、イエスキリストはどういうお方でしょうか?
この後、嵐の中で何の奇跡も起こらないと思われる中を突き進みました。
そう、それは十字架の道です。
イエスキリストは神にどんなに叫んでも何も起こりませんでした。
神よ、できればここで奇跡を起こして、この十字架に歩む道を静めてください、と祈られたのです。
まさに弟子達と同じような叫びをされました。
でもその叫びは聞かれず、イエスキリストはそのまま十字架で死なれたのです。
神はイエスキリストの叫びに起き上がり、十字架にかかる道を止めることはありませんでした。
イエスこそ、神に叫んで祈っても本当の意味で応えられなかった方でした。
この嵐の中眠って何もしていない、見放しているように思ってしまう経験をされたことを誰よりも知っているのはイエスキリストなのです。
この方が今も私たちの叫びを聞かれるのです。
そしてこの死の恐れの中で、神は復活という死すらも打ちやぶる力をイエスを通してお示しになったのです。
だから言うのです。
「あなた方の信仰はどこにあるのか?
私が神から見捨てられることをあなたの代わりにした。
だからあなたの叫びは届いてる。
そしてあなたを支え続ける。
あなたは神に見捨てられることはない」と。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
結語
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
しばしば舟は教会という意味で例えられてきました。
私たち共同体、教会という舟の中にイエスが一緒におられる。
この教会は初代教会が誕生してから多くの迫害を受けてきました。
厳しい、生きるか死ぬかをかけた生き方を教会はしてきたのです。
それはまさに舟を漕いでいる中で強風が吹き、大きな波を被る時代を教会は歩んできたのです。
そんな迫害下の中では、教会は小さな舟に過ぎず、いつ飲み込まれても仕方がないように思えるものです。
今もコロナ禍であり、様々な状況が重なる中、教会は厳しい現実を突きつけられています。
でもです。
ある人はこう言います。
イエスと共にいる舟はどんなに激しい荒波があって揺れる事があっても、イエスがいるこの舟は決して沈むことはない。
厳しい時代も沈まずに耐えてきたのです。
それは主イエスがこの舟に乗って支えてくださってきたから。
そして私たち教会のこの舟にもイエスキリストが今も乗っておられる。
どんなに揺れようとも、決して沈むことはないこの舟に乗っているこの事実を受け止め、時にはイエスキリストに叫び立ちかえり、風や波以上の死をも打ち勝つ、この主イエスがこの舟におられるその安らぎの中で力を受け、お互いに支え合いながら、この世の舟の旅を続けていこうではありませんか。
お祈りします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・祈り
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
天のお父様、あなたに従っていっても、揺らされる事があります。
嵐にあいます。
そしてその時私たちはあなたに、なぜ何もしてくれないのだ?とつぶやしてしまうものです。
でもすでに私の船にはあなたが乗ってくださっていることを思い起こしてください。
そして何よりあなたの言葉によって、私のうちに静まりを与えてください。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
今日も最高の1日を😄
God bless you〜(神の恵みがあなたにありますように)
長瀬雄大