【罪を赦すキリスト】231112メッセージ
「罪を赦すキリスト」
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イントロ 罪の赦しとは?
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聖書は言います。
20:ルカによる福音書/ 05章 20節
イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
今回のテーマは罪の赦しです。
罪の赦し。
教会というのは、礼拝や賛美や奉仕、交わりなど様々な働きをしますが、それを行う根底にあるのは、罪の赦しです。
人々が罪をはっきり認めて、その罪が赦される体験をすることです。
では罪とは何か。
罪というと私たちが思い描くのは、人の悪口を言った、とか、人のものを盗むとか、またはそういう行動をしなくとも、心の中で姦淫の罪を犯す、人を裁く、、そういったイメージをします。
確かにそのようなことも罪ではあります。
しかし聖書の罪と訳される言葉の元々の意味は、「的外れ」「正しい関係を失う」という意味です。
正しい関係を失う。
それは命の源である神と私たち人間が離れること、切り離されることによって命を失うことです。
そう、罪とは命を与える神から離れること。
だから聖書は罪の結果、命の源である神から離れたことによる結果は死であると言うのです。
それはまるで、大木に連なる枝が、「ここでじっとしているよりもっと自由に生きたい」と言って、自ら切り離してしまうようなものです。
その枝はしばらくは生きていくことができるかもしれません。
しかし木から離れた枝はいずれ枯れてしまうのです。死んでしまうのです。
この、神から離れた状態を聖書は罪と言うのです。
これが根本的な私たちの罪です。
しかし神であるキリストは今日も言われるのです。
「あなたの罪は赦された」
「もうあなたは神のところに戻った。
命の木にくっついた。永遠に生きる存在として命を与えた」そう告げてくださる。
これはキリストご自身が十字架に流された血によって、今まで離れていた枝である私たちを命の木、神に繋いでくださったからです。
だから教会はただお互いの悪いことを嘆き合うことだけに心を奪われるのではないのです。
また、教会は人の悪い思いや行動を責め立てるだけのところでもありません。
そうではなく、キリストの「あなたの罪は赦された」という言葉を聞くのです。
そして私たちはこの罪の赦しの御言葉を聴き取って、慰められ、励まされて毎週教会から日々の生活へと出発していくのです。
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いつどこで罪が赦されたのか
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 05章 17節
ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々や律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのあらゆる村や、エルサレムから来ていた。主の力が働いて、イエスは病気を癒やしておられた。
今回の出来事が起こった場所はルカには明確に記されていませんが、マタイやマルコにも記されていまして、場所はカファルナウムだったようです。
キリストはこの街を拠点として伝道しておられました。
キリストがいつも神について教えておられた家に、この時はファリサイ派の人々や律法の教師たちが座っていました。
ファリサイ派の人々や律法の教師というのは、当時民たちにとっては宗教的指導者であり、旧約聖書にある神の掟や律法について学び、それに基づく生活を人々に教えていた人達のことです。
そのような民たちを教える立場であった彼らが、「ガリラヤとユダヤのあらゆる村や、エルサレムから来ていた」とあるように近隣のガリラヤ地方だけでなく、ユダヤ、そしてかなり距離がある首都のエルサレムからも、キリストの教えを聞こうとやってきたのです。
彼らがわざわざ遠いところからキリストの元に足を運んだのは、キリストから聖書の教えを受けるというより、最近急にポッと現れて評判になっているキリストという男がどのようなことを教えているか、そしてそれは聖書に適した正しい教えなのかを確かめるためだったと思われます。
そのためこの時の家の中には、一種の張り詰めた空気もあったことでしょう。
そのような中で一つの事件が起こります。
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誰の罪が赦されたのか?
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家でキリストが教えを語り、病を癒しておられると、急に部屋の天井から土のかけらや埃がパラパラと落ちてきました。
当時の家の天井というのは、コンクリートとかではなく、主に土でできています。
家の中にいた人達は埃まみれになったでしょう。
今でいうと、急にこの会堂の天井からノコギリなどでギコギコしだして、木屑や埃などが落ちてくるようなものです。
もう礼拝どころではない。
埃でコホコホ咳をする人もいたでしょう。
おそらくこの家にいた人達は、急に天井を壊そうとする常識外れの行動に対して非難の声をあげたと思います。
「一体何を考えているんだ、下には人がいるんだぞ」とか
「土砂が落ちてくるからそんなことはやめろ」と言った具合です。
なぜそのようなことになったのか。
18:ルカによる福音書/ 05章 18節
すると、男たちが体の麻痺した人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
19:ルカによる福音書/ 05章 19節
しかし、大勢人がいて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦を剝がし、病人を床ごと群衆の真ん中につり下ろし、イエスの前に置いた。
体の麻痺した人、、、昔の訳では中風を患っている人の事です。
脳溢血などの病や、事故など様々な要因で、体が動かず、場合によっては口もきけないような病になっている人を、男の人たちがキリストの元に運んでこようとしたのです。
この男の人たちというのは、体が麻痺した人の家族や親族なのか、それとも友人、近所の人なのかはわかりません。
ただしマルコでは4人と書いてありますので、床(とこ)、今でいう担架みたいなものの4隅を持って体が麻痺した人を運んできたのです。
しかしエッコラエッコラ運んでキリストがいる家についたと思ったら、家には大勢の人が詰めかけていて、これ以上進むことができませんでした。
そこで、彼らは屋根の上に登ったのです。
当時の家の作りの多くは、日本の家のように傾斜のある屋根ではなく平な屋根であり、家の外側に階段があって屋根に登ることができました。
外に階段があるため、屋根に登ること自体は、家の人だけでなく誰でも登れるわけです。
彼らは外の階段を登って、そこで屋根の瓦をはがし始め、できた穴から病人を床ごと釣りおろしてキリストの前に運んだのです。
普通、屋根を取り替えたり、剥がしたりするなら、怪我をしないように下に誰か人がいないか確認してからやります。
しかし彼らは、家の中に人がいるのをわかっていても、それでもなお屋根を剥がしてまでキリストの元に行こうとしたのです。
はっきり言って非常識です。
ではなぜ彼らはこのような行動をしたのでしょうか。
体が麻痺した人、、、この人は自分で自分の体を動かすことができず、食べ物も飲み物も排泄も、家族や友人の助け無しにはできません。
看病したり、介護が必要な人です。
当時は、今みたいに社会福祉は充実していなかったことでしょう。
家族や身内達はこの人を見ながら、それと同時に生活をしていかなければいけなかった。
この人を見ながらというと、思うように仕事もできなかったでしょう。
だから経済的にも厳しい生活だったかもしれません。
また、看病をする中で、家族の近い物同士だからこそ出てくる、人間関係の摩擦などもあったと思うのです。
体が麻痺をする人を支えること、それは本人自身も辛い、、、そして周りも厳しいところを通らされるのだと思うのです。
私は、妻が摂食障害、また子どもが発達障害を抱える中で、家族に寄り添うことがどれだけ難しいか、自分の至らなさ、限界を感じることがあります。
自分がどんなに相手を理解し寄り添って協力していこうと思っても、本人の気持ちや痛みなどはどうしても自分には分からないことがある、助けたいと思っても結局できない、自分が相手のために良いと思っていることをしても虚しく終わるということがあります。
家族だから分かり合える、と思っても実際はそんなことはない。
相手が親でも子どもでも、パートナーでも、どうしても分かち合えない、助けようと思ってもできない現実を見るのです。
今まで私はこの箇所を読むと、体が麻痺していた人を運んできた人達のことを、素晴らしい家族友情愛として捉えてきました。
確かにそういう面もあるかもしれません。
しかし最近思わされるのは、実はこの人たちは、単に美しい家族友情愛だけというより、体が麻痺している人と一緒に生活する中で、自分たちではどうしても埋められない問題を抱えて立ちすくんでいる中で、キリストの噂を聞き、今まで散々手は尽くしてきたけど、もうこのお方の元にしか頼るものない、、、そのような思いが、なんとしてでもキリストの元に連れていく行動の動機になったのではないかとも思うのです。
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なぜ罪が赦されたのか?
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キリストはこの光景をみてどうされたでしょうか。
20:ルカによる福音書/ 05章 20節
イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
キリストはご自分の目の前に置かれた体が麻痺している人に対して「あなたの罪は赦された」と言われました。
もし私たちがこの体が麻痺した人であったら、どのように思うでしょうか。
おそらく「え?私の罪が赦される?そんなつもりで来たんじゃなくて、体が癒されるためなんだけど」
このように思うのではないでしょうか。
ここでキリストは、病は罪によって引き起こされることを問題にしているのではありません。
誰にでもある根源的な罪を問われるのです。
罪、、、先ほど言ったように、それは命の源である神から離れている状態を指すものです。
命を失っている状態の事です。
キリストは、たとえこの体が麻痺している人が、今までの人生でどんなに良いことをしていようが、キリストは躊躇せず「あなたの罪は赦された」と言ったことでしょう。
それは木から切り離された枝が、どんなに良いことをしていてもやがて枯れてしまうように、キリストはその人の永遠に繋がる命を見ておられるからです。
キリストは、あなたの病も確かに大変だろう、しかしまず一番重要なのは、あなたの罪、神と離れていることが赦され、再び神と繋がることである、と。
彼の罪を明確に指摘され、そしてそこで赦しの宣言をなさったのです。
なぜキリストは罪の赦しを宣言されたのでしょうか。
イエスは彼らの信仰を見て
「彼らの信仰」、麻痺していた人を連れてきた人たちの信仰です。
キリストに頼った。
先ほども言いましたように、それは彼らの立派な信仰云々というより、自分たちの限界、互いに愛し助け合おうと思っても愛し合えない、分かち合えないという自分達の現実に立ち尽くして、もうキリストに頼るしかない、このお方の元に行こう、そういう彼らの思いを見て、キリストはあなたの罪は赦された、と罪の赦しを告げられたのです。
罪の赦しというと、一般的には、神の前で自分の罪を認め悔い改めることによって、悔い改めた本人が神から罪の赦しを受ける、というのが教会の基本的な考えです。
私たちも、キリストの罪の赦しを受け取る時というのは、自分が今まで罪人であった、神から離れていたことを認め、キリストの十字架と復活によって赦されたことを信じることです。
だから、今回の場合を考えた時、本来なら体が麻痺している人自身が悔い改めることによって、キリストから罪が赦される宣告をするものだと思うのです。
しかしここでは、キリストは体の麻痺した人に向かって信仰を尋ねられたのではないのです。
ここでキリストは「あなたの罪を赦すが、その前にあなたは私を神の子と信じますか?」このような質問をしたわけではない。
ただ目の前に吊り下ろされてきている病の人を見て、そして運んできた人たちの信仰をただ見ただけで「あなたの罪は赦された」と言われたのです。
この「あなたの罪は赦された」という言葉は、「罪が赦されてしまっている」とも訳せる言葉です。完了形なのです。
すでに赦されている。
これから罪を赦してもらうために、あなたは悔い改めをしなければいけないとは言っているのでは無いのです。
全くの無条件です。
無条件に「もう、あなたの罪は赦されている」と済んだこととしてお語りになるのです。
父なる神が、もうあなたの罪を赦すことをして下さった。
だからこの体の麻痺した人がすることは、自分がもうすでに罪を赦されている人間だということに気づくことです。
その事実を受け入れるということです。
教会が人々に告げるのもそうです。
「さあ、あなたは鋭い心の良心を持って自分の罪をことごとく悔い改めなさい」
と言うより、
「あなたの罪がもうキリストの十字架と復活によって赦されていることを知って欲しい。この神の愛の中に立って欲しい、気付いて欲しい」
そのように告げることなのです。
この神の赦しの中に、屋根から吊るされて飛び込んでくる。
この時、病だった人や運んできた人たちがどれだけ自分の根本的な罪を理解していたかは分かりません。
しかしそれでも、このキリストの元に、神の愛の中に上から飛び込んでくる。
この様子をキリストはどんなに喜んで見てくれていたかと思うのです。
「よく私の愛の赦しの中に来た。さああなたに告げる。あなたの罪は赦された」と。
しかしこの様子を見ていた律法学者達は呟きます。
21:ルカによる福音書/ 05章 21節
ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々は論じ始めた。「神を冒瀆するこの男は何者だ。罪を赦すことができるのは、ただ神だけだ。」
キリストが「あなたの罪は赦された」と宣言をした時、彼らは疑問を抱いたのです。
聖書では、人の罪を赦すことができるのは、ただただ神だけである、と。
この認識は正しいのです。
人の罪を赦せるのは、神だけです。神学的に合ってます。
ただし彼らは、目の前にいる男、イエス・キリストが、人でありそして神であることを信じようとはしませんでした。この方に頼ろうとはしなかった。
彼らにとって見ればイエス・キリストは、皆に最近注目されている、不思議な力を持つ1人の人間に過ぎなかった。神の子とは信じられなかったのです。
だから、ただの人間が、神にしかできない、罪の赦しを宣言するのは、神を侮辱し、冒涜しているのだと考えたのです。
そこでキリストは言います。
22:ルカによる福音書/ 05章 22節
イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「何を心の中で考えているのか。
23:ルカによる福音書/ 05章 23節
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
24:ルカによる福音書/ 05章 24節
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、体の麻痺した人に、「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。
キリストは言います。
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
皆さんはどちらが易しいと思うでしょうか。
おそらく今の私たちの感覚としては、どちらが易しいかと言えば、あなたの罪は赦された、と言う方が易しく思うのではないでしょうか。
なぜならこれが本当でも嘘でも、他人には一見わからないからです。
罪赦されたことが本当に実現したという目に見える形での証拠が無いからです。
しかし、律法の観点から言えば、易しいのは体の癒しの方です。
いくら体が麻痺していても、病を治せる可能性はゼロではない。
この当時、おまじないで奇跡的に病気を治した人は、キリストだけではなく、他にもたくさんいました。
だから起きて歩くという癒しの行為は人間でもできる、と。
しかし人間が、人の罪を赦すことなんてとんでもない、罪の赦しの権限は神にしかできないと律法学者達は信じていた。
そこでキリストは、律法学者達の疑いを晴らすために、「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われました。
するとその人はすぐさま皆の前で立ち上がり、キリストのお言葉通りに、寝ていた床を持って、神を賛美しながら帰って行ったのです。
このようにして、この人は罪赦されただけでなく病まで癒されたのです。
これは単なる病の癒しではありません。
キリストは罪を赦し、そして病を癒すことによって、ご自分が地上で罪を赦す権威を持っていること、つまりキリストご自身が神の子であることを人々に知らせるために病の癒しをここで行われたのです。
ここで罪赦されたということだけで終わってしまったら、言葉だけの抽象的な概念に過ぎず、人々はキリストが神の子かどうかは確信は持てなかったでしょう。
しかしキリストは、起きて床を担ぎ、家に帰るという目に見える具体的な実りをもたらすことによって、ご自身が罪を赦す権威を持っていることを人々に知らせたのです。
25:ルカによる福音書/ 05章 25節
その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた床を担いで、神を崇めながら家に帰って行った。
体が麻痺した人は今まで立つことも、歩くこともできなかったのが、自分の足で起き上がることができるようになりました。
今や彼は床を担いで歩き始めたのです。
今まで人に担がれて運ばれなければいけなかった人が、今度は担ぐ者へと変えられ、神を賛美していきました。
そう、キリストによって罪赦され、癒され、命を与えられたものは神を賛美し、神を愛するものへとなるのです。
なぜならそれが、私たち人間の元々の的を得た生き方、本来の道を歩む、神を愛し人を愛する生き方だからです。
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罪赦された共同体
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聖書は言います。
20:ルカによる福音書/ 05章 20節
イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
キリストが家の中で神の言葉を語られた中、体が麻痺している人が屋根から釣り下されて来ました。
キリストが語られていた愛の言葉の中に飛び込んでいく彼ら。
そこで聞いたのは、「あなたの罪は赦された」という御言葉でした。
私自身、小学生1年生くらいの時から母に連れられて教会に行ってました。
その時は神を礼拝するなど信仰的な動機で教会に行っていたのではなく、教会にきていた友達と遊んだりゲームをすることが楽しと思っていたからです。
中学生くらいになるとキャンプに参加するようになり、そこで洗礼の勧めをされました。
しかし私は、「もっと神様のことを知ってからでいいです」と言って断っていました。
そうやってずっと先延ばしにしていたのです。
なぜなら私自身が、問題を抱えた罪人であるということを、そこまで分からなかったからです。
正直人生にそこまで困っていなかったから。
私は別に優秀なわけではないですが、まぁ普通に学校生活も、部活も勉強も人間関係も送れていたからです。
しかし20歳の頃、大学生活の人間関係でうまくいっていない時がありました。
友人関係でギクシャクしていた時に、素直に謝れなかったり、変なプライドによって人を傷つけていたりなど、友人を自分のように愛せない自分自身の罪の姿を感じていたのです。
ちょうどその頃副牧師に洗礼のことを勧められました。
私がそれに対してなかなか踏ん切りがつかず、うーんと迷っている時、母親に言われました。
「飛び込んじゃえば分かるのよ」
それを聞いた時最初私は、「そんな飛び込める勇気があればとっくに洗礼を受けているよ」と思いましたが、人間関係で自分の力ではにっちもさっちもいかないという現状にいたからこそ、「ああ、もうこの神の子イエス・キリストに頼るしかないんだ、、、」そのように思うようになり、キリストの元に飛び込んで行きました。
それは立派な信仰云々ではなく、もう罪の現実に困り果てた中で押し出されるようにキリストの元に飛び込んだのです。
そしてその後洗礼を受けました。
今振り返ると、自分がキリストの元に飛び込むまでに、どれだけの周りの人の祈りが積まれていたのかと思うのです。
私をキリストの元に運ぶために、周りの人が祈ってくれていた。御言葉を語りかけてくれた。
それは母であり、当時の牧師、副牧師であり、教会の人が自分の名を上げて祈ってくれていたことを思うのです。
それが、一歩ずつ一歩ずつ私をキリストの元に近づいていかせてくれた。
時に教会生活からは遠回りしているように見えて、実は私はキリストの元に近づいていたのです。
私は何十年もかかりました。
周りの人から見たらどれだけ歯痒かったことでしょう。
フラフラしてなかなか決心のつかない私を見て葛藤があったと思うのです。
しかし、そういうった周り人の信仰が私をキリストの元に飛び込ませてくれた。
そして私は聞くのです。
「あなたの罪は赦された」
キリストの十字架と復活によって、もうすでに私の罪が赦されたということに気が付く。
命の元である神に繋がっていることを知る。
その事実をただただ受け入れるのです。
その時キリストを十字架にかけるほどに私は神に愛されていることに気づいていったのです。
今まで知らなかった神の愛を知る。
すぐに自分の罪全てを知ったわけではありません。
救われてから、神の愛を知れば知るほど自分が、この神の愛を無視して生きていたことを段々と知るのです。
皆さんも、キリストの元に行き、「あなたの罪は赦された」という言葉を聞くまでに、そこにはどれだけの周りの人が労をなしたことでしょう。
周りの人の信仰、祈りが積まれたことでしょう。
ある人は、「いや、私は自分の意思で教会に行ったんだ」と思っていても、実は周りの人たちの信仰によって、祈りによってキリストの元に運ばれていったのではないかと思うのです。
だから今度は私たちが、家族や友人のことをキリストの元に運ぶ者となるのです。
床に運ばれていた病の人が、床を担ぐ者となったように、今まで周りの方の信仰によってキリストの元に運ばれてきた私たちが、今度は運ぶ者へとなるのです。
自分1人で運ぶのではありません。
担架を運ぶには4人以上必要です。
だから私たちは共に一緒に祈るのです。
私たちは自分1人で運ぼうとするのではない、教会として、共同体として、あの人のことを祈り続けて運ぶのです。
なかなかあの人はキリストの元に飛び込まないな、と思っても、一見遠回りをしているように見えても、実は一歩ずつ一歩ずつ、キリストがいるところに近づいている。
そして今回の箇所で病の人が屋根から飛び込んだ時、下にはキリストが愛の眼差しで迎えてくださったように、キリストは喜んでこう言ってくださる。
「あなたの罪は赦された」
だから私たち教会は共に、神の愛から離れて生きている周りの人たちを、キリストの元に運ぶために、今日も共に祈りを捧げていこうではありませんか。
祈ります。
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祈り
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天のお父様、私たちがどんなにあなたから離れているような時であっても、あなたは待っておられ、そして私たちの周りの友人たちの祈りや関わり、信仰によって、あなたの元に来れたことを思います。
自分であなたの元に来たというより、周りの人の支えによってあなたと出会えたことを今一度心にとめたいと思います。
そしてあなたと出会い、「罪は赦された」、その宣言を聞き救われていきました。
今日も「あなたの罪は赦された」とこの御言葉が私たちに響いていることを感謝し、あなたの元から離れている人たちのために共に祈りを捧げていくことができますように。
イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。