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【罪人を招くキリスト】231119メッセージ


「罪人を招くキリスト」ルカ5:27ー32
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イントロ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 05章 32節
私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

今日のテーマは招き、招待です。
招き、招待というと皆さんはどのようなイメージをするでしょうか。

招待されてそこにいく。
誰かの誕生日パーティや結婚式、同窓会に招待される、友人の家に招かれるなど、人に頼まれてそこに行くことです。

私が子どもの頃、誕生日パーティというのがありました。
友達の誕生日に家でパーティをする。
事前に何月何日に誕生日会をするから来てくださいと招待されて、当日誕生日プレゼントを持っていって、そしてお菓子を食べたり遊んだりして、その人の誕生日をみんなで祝う事をしていました。
招かれる、招待されるというのは嬉しいものです。
自分に声をかけてくれた、誘ってくれたというとなんだか認められたような感覚になるからです。

招待してくれる人が、友人でも嬉しいのに、その招待してくれる人が、自分にとって憧れの人、素晴らしい人、偉大な人からの招待ならばその喜びはどれだけのものかとも思うのです。
例えば私の妻はドリカムが好きなので、ボーカルの美和さんから直々にコンサートに来て欲しいという招待がきたら、もう妻は嬉しさのあまり気を失うと思います(笑)

もちろんこういった方々も素晴らしいです。
しかしそれ以上に偉大なるお方であり、ご自分の命を捨てるほどに私たちを愛してくださっているキリストが名指しで私たちを呼び、招待してくださるのです。
「さあ私と一緒に来なさい」
そのように呼んでくださる。招いてくださる。

このキリストの招きに応えて、私たちは今日もキリストに従っていくのです。

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・誰を招くのか マタイ取税人
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ではキリストはこの時誰を招いたのでしょうか。
ルカによる福音書/ 05章 27節
その後、イエスは出て行き、レビと言う徴税人が収税所に座っているのを見て、「私に従いなさい」と言われた。
28:ルカによる福音書/ 05章 28節
彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。

キリストが招いたのは、レビという徴税人でした。
徴税人、、、この人たちは当時人々に嫌われている職業の人たちでした。
彼らは文字通り税金をユダヤ人から徴収する人です。
一般的には集められた税金というのは、徴収した人に何かしら益になるものとして還元されるものです。
例えば医療費が控除になるとか、社会福祉を受けられるなど。
しかし当時集められた税金というは、自分たちユダヤ人に使われるのではなく、彼らを支配していたローマ帝国、敵国のために集められていました。
しかも税金を徴収するのはローマの人ではなく、同胞のユダヤ人であったのです。

支配しているローマからしたら、自分たちが支配しているユダヤの国から自分たちが直接税金をとると反感を買いやすく、それが反乱を起こす要因になっては困ります。
そこでローマは、税金をとるのを自分たちではなく、支配しているユダヤ人同志にさせることによって、怒りの矛先をできるだけ自分たちローマにはさせないようにしていたのです。

ユダヤ人から見れば、同じ仲間であるユダヤ人が敵国ローマの代わりになって税金を取り立てているのですから、自分たちを裏切ってローマの手先となり、大切なお金を必要以上に奪っていく売国奴たち、そういう認識になるのです。
さらに、徴税人は決められた税さえローマに収めれば、残りは自分の懐に入れることができました。
背後にはローマの軍隊が控えているので、誰も逆らうことはできません。
ですからその力を利用し、多めに徴収すれば、その分は私腹を肥やすことができます。
市民から見れば、税金を必要以上に奪われる事によって、生活は苦しくなります。
本来なら子どもを塾にいかせることができた、祖母にもっといい医療を施すことができた、そのように苦しんでいる人がいる一方、片や自分たちから多くとった税金で徴税人達は優雅な暮らしをしている、、、。
ですから、ユダヤ市民から見れば徴税人というのは、自分たちを裏切って敵国の手先となり、しかも自分の私服を肥やすためにより税金をとるので、皆から忌み嫌われていました。

今回登場する徴税人のレビ、、、これはおそらくマタイのことです。
他の福音書でも似たようなことが書かれていて、そこでは名前がマタイとなっています。
彼がなぜこの徴税人という職業を選んだかはわかりません。
それなりの必然性があったかもしれない。
彼がいつものように職場である収税所で座って考えていたことは、人々から税金をどうやって多く取り立てていけばいいか、そしていかに効率よく自分の利益を増やすこと、それが彼の日常だったと思うのです。
周りからは敵国ローマの手先だと思われ皆から忌み嫌われる。
それは承知の上です。
人々から批判されれば、それは貧乏人のひがみだと言い返したかもしれません。
そして自分が周りから軽蔑されたら、もっと多くお金を儲けて、つまり批判していた市民からお金をもっと巻き上げて復讐してやろう、と考えたかもしれない。
人々に批判された時に、自分を慰めてくれるのはお金である。
周りの人々がいくら言おうが、自分にはこれだけお金があるから存在していい、、、というお金によって自分の存在価値を証明しようとしていたと思うのです。
だからお金を持つことに執着していくのです。
彼にとってはそれが日々の生活であり、日常であった。
しかしそこにキリストが来られ彼を見てこう言われたのです。
「私に従いなさい」

するとレビはそのままキリストに従っていきました。
何もかも捨て去って立ち上がってキリストについていったのです。
なぜレビはすぐに従っていくことができたのでしょうか。

27 レビと言う徴税人が収税所に座っているのを見て
この「見て」ということは他の箇所で使っている普通の「見て」という言葉とは違う、もっと強い意味を持っている言葉をルカはここで用いています。
この「見る」とは、ちらっと視線を送る、ではなく、じーっと見つめる、という意味です。

今までレビが他の人から感じていた視線というのは、役職上、軽蔑の眼差しや裁きの意味合いが強かったでしょう。
「あいつは、俺たちの税金を取っていい思いをしている、なんてひどいやつだ」
そのような目線を日々受けていた。

私たちも人の目というのが気になることがあります。
自分は一体周りの人にどのように思われているだろうか。
あの人は自分を軽蔑しているのではないか、あの人は私を見下しているのではないか。
そのような周りの視線を感じることがある。

しかしレビはこの時、今まで誰からも見られたことのない愛のある眼差しで、自分が見つめられることを初めて体験したのだと思います。
自分がお金をどれだけ持っているかどうかではなく、自分という存在自体を受け止め、自分をありのまま生かしてくださる、という今までに出会ったことのない愛の眼差しで見つめられる体験をレビはしたのです。
このキリストの愛のある眼差しの中で彼はキリストに従っていった。

私たちもキリストに招かれ救われる時というのは、私たちがキリストに従っていきます、と信仰決心をしてから従っていきます。
確かにそこには、キリストの招きに対する自分たちの応答があったと思うのです。
しかし振り返ると、キリストの愛の眼差しは私たちが信仰決心する前から注がれていたのではないかと思うのです。

私たちは悔い改めたからキリストは招いてくださったのか。
いや、キリストは、私たちが悔い改める前から、神の元から離れて、あなたなんていらない、私は自分の力で生きていく、と反抗していた時から、もうすでに私達に目を留めて下さっていた。
それは、自分には何ができるできない、とかお金をどれだけ持っているとか、社会的に認められている、というよリ、私の存在自体を、私の命を尊び、受けとめて下さる愛の眼差しをキリストは注いで下さっていたと思うのです。
このキリストの愛のある眼差しの中で、私たちは立ち返りキリストと出会うのです。

レビはキリストの招きに応じて、宴会を開きました。
29:ルカによる福音書/ 05章 29節
そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人たちやほかの人々が大勢いて、一緒に食卓に着いていた。

レビは自分を招いてくださったキリストのために盛大に宴会を家でしました。
ここで疑問に思うのは、レビは何もかも捨ててキリストに従ったと書いてあるのに、なぜ自分の家があるのか、なぜ宴会をするお金があるのか。
一切を捨てて、というのは家や財産を全て売り払ってキリストに従っていく、というイメージをしますが、一切を捨ててというのは、彼の今までの生き方、歩みからの決別することです。

今まではどれだけ効率よくお金を人々から取ろうかと考えていた。
それはレビにとってお金は、人々からの批判や中傷から自分を守るためでもあったからです。
どんなに周りから批判されても、自分にはお金があるからこそ、自分の存在価値を証明できる。所詮彼らはヒガミだろうということで自分を保つことができる。
しかしレビはここでキリストと出会ったのです。
愛の眼差しを受けた。
その時、レビにとってのお金は自分を支えるためのものではもう無くなったのです。
お金より価値あるものに気付いたのです。
私の存在を支えるのは、このキリストの眼差しである、愛である。
だからこの方のために、自分の財産、能力、賜物を用いよう、そうやって今までと全く違うお金の使い方、家の使い方に変わっていくのです。
お金が、自分の存在を証明するためのものから、キリストのために喜んで用いる手段になった。この生き方が、全てを捨ててキリストに従う歩み方だと思うのです。

こうしてレビは、キリストの弟子はもちろん、自分の仲間の徴税人たちや他の人々をも招いて、キリストのために喜びの宴会を催したのです。

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・正しい人とは?
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しかしそのような喜びの宴会に対して文句を言う人がいました。
ルカによる福音書/ 05章 30節
ファリサイ派の人々やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに文句をつけて言った。「なぜ、あなたがたは、徴税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのか。」

ファリサイ派、律法学者達というのはとても優れた人たちです。
彼らは善良であり、信仰深く、貧しさに耐えた人たちです。
信仰を貫くために、ローマの権力が支配している社会とは妥協してはならないと、真面目に考えていた人たちでした。

私たちはファリサイ派、律法学者というと、ドラマとかの悪役のような、いつもキリストにつっかかってくる悪人というイメージで、人相の悪い人達だとつい思ってしまいます。
しかし彼らは善良の人たち。

ファリサイとは、ヘブル語で「分離された者たち」という意味からきた言葉だと言われています。
彼らは貧しい生活に苦労しながらも、律法を良心的に完全に守ろうとし、あらゆる外国の影響から分離して、離れて影響を受けないように努力していった人たちです。
だから彼らは、彼らと同じように純粋に律法を守る人たちだけと食事をしていました。

そのような彼らから見たら、当時罪人と言われていた徴税人たちと一緒に食事をするということは、罪人の仲間になっていることであり汚れていることを意味していたのです。
だから彼らはキリストや弟子たちに向かってこう言うのです。
「あなた達は、なぜあのような不正をして利益を貪っている徴税人たちと一緒に楽しく食べたり飲んだりしているんですか。
あの人たちは私たちの住んでいるこの社会で、我々から税金を多く巻き上げているんですよ。
あの人たちがいるから私たちが生きていくのに迷惑になるんじゃないですか。
彼らのせいでますます生活が苦しくなっているのです。
それなのに、なぜあなたたちは彼らと食事をし、友になるのですか」

今の私たちで言うと、物価高で生活が苦しくなっている時に、今より税率がさらに上げられ、しかも上がった分は国に行くのではなく、その利益で私腹を肥やしている人たちがいる。
その人達と親しくしているのであれば、ファリサイ派のように、なぜあんな人たちと仲良くするのですか?楽しくしているんですか?むしろ厳しく注意しなさいよと文句を言いたくなるのではないでしょうか。

ファリサイ派の人たちの指摘はきちんと筋が通っているのです。
徴税人たちの不正によって、自分たち市民の生活が苦しくなっている。
そんな人たちと友人になるということは何事か、と。

ここで彼らは、当時罪人として代表される徴税人とキリスト、またその弟子達が一緒に食事をする事に対して文句をつけたのです。

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・なぜ招くのか 正しい人を招くためではなく罪人を招くため
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それに対し、キリストは言われました。

ルカによる福音書/ 05章 31節
イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
32:ルカによる福音書/ 05章 32節
私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

なぜキリストはレビを招いたのか。
それはレビが罪人であり、病人だから。
キリストはご自分が医者なのだと言われます。
医者が必要なのは、病人である。
健康な人には医者はいらない、とキリストは言われるのです。

あるキリスト教書籍で弁償論を漫画にした本があります。
「神なんていないという前に」という信仰書です。
例えば、「神がいるならなぜ悪い人を放っておくのか」とか、「なぜ神は善悪の実を置いたのか囮捜査ではないか」、、、このような疑問に漫画で答えるというものです。

このなかの一つに、
まだ信仰を持っていない方がなかなか教会に行こうとしない理由として、「ちゃんとしてから教会に行こうと思っているから」
というのを紹介していました。

教会とはある程度人格的にできた人、聖人みたいな人が行くところであり、今の私なんてとてもそうとはいえない。
だから、ちゃんとタバコをやめてから、とかきちんとアルコールをやめてから教会に行ってみようと思うから教会にはまだ行きません、と。

それに対しこの本はコミカルな絵を使って答えていきます。
もしあなたがウイルス性の風邪にかかった時、「私はこの病気が治ってから、お医者さんのところに行きます」と言うだろうか?と。
そう言ったらおそらく友人はこうアドバイスするでしょう。
「いや、病気を治すためにすぐに病院に行くのです。
治ってから病院に行くのではありません。
あなたがやることは、悪い状態のまま病院で医者に診てもらうことです」と。

病人が一番必要なことは何か。
それは自分には医者が必要であると認めることです。
自分は病がある、問題がある、自分ではどうすることもできない、、、そのように認めて医者に診てもらう事によって、初めて病の回復が始まるのです。
自分で治すのではありません。医者に診てもらうのです。
方や、自分が病気であるにも関わらず、それを認めず、まだまだ自分は健康であると思って医者を必要としない人ほど危険なものはないのです。

このように、ちゃんとしてから教会に行く、というのも同じであると。
自分が良くなってから教会に行くのではない。
むしろ私ではどうすることも、治せない罪、問題があり、だから私には医者が必要だと。
そして罪を治してくださる医者とはイエスキリストです。
だから罪を持っている私たちが必要なことは、私には医者であるキリストが必要なのである、と認める事です。

私たちがキリストと出会う時というのも、多くの場合、自分には何かしら問題を抱えて、または家族や友人の問題を通して立ち行かなり、今の自分ではもうどうしようもない、自分には医者が必要だ、助け手が必要だと思った時がきっかけだったことを多いのではないでしょうか。
ああ、自分はこのままだと手に負えない、自分で自分のことを治すことも救うこともできない、、、自分には医者が必要だ、と。
自分は問題を抱えている1人の罪人であると認めること、、、そこから医者でもあるキリストの治療が始まるのです。

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正しい人とは?
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ここで、私たちは
私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
この御言葉を見ると、病人は、当時罪人と言われていた徴税人のことであり、正しく健康な人はファリサイ派や律法学者達のように思えます。
そのように理解すると、キリストは、まるでファリサイ派の人たちには、あなた方は健康だから、正しい者だから私とは関係ない、と拒否をしているようにも思えます。

しかし思うのです。
本当の意味で正しい人、健康な人というのはいるのだろうか。
神、キリストの前で自分は正しい、健康であり、完璧であると言える人はいるだろうか、と。

神の目から見て、真実に正しい人などはいません。1人もいません。
私たち人間は神の前では全員罪人であり、一見どんなに成功していて幸せな生活を送っていようとも、何かしら問題を抱えた1人の罪人、病人に過ぎないのです。
そう考えると、キリストはぶつぶつと文句を言う、自分たちは正しい人、健康だと思っているファリサイ派の人たちや律法学者にも、私の元に来なさいと招いておられるんだと思うのです。
そう、医者でもあるキリストは、罪人のレビだけではない、自分は律法を守っているから、信仰生活を守っているから正しく、健康であると思っている彼らにも愛の眼差をもって見つめられていると思うのです。
神であるキリストから見れば、彼らも神の愛から離れている1人の病人、罪人であるから。
だから悔い改めて、方向転換して、彼らが自分が罪人である、病人であることを認め、ご自分の元に立ち返って欲しい、神の愛に気づいて欲しい、、、、そのようにキリストは徴税人達だけでなくファリサイ派の人たちにも招いておられると思うのです。

私たちの周りにも、自分は別に神がいなくても困っていない、自分は自分の力で生きていける、と思う人がいると思います。
しかし医者であるキリストはそのような方にも、愛の眼差しを注がれている。
どうかその人たちが、いつか神の助けを必要としている罪人であることに気付いて、私の元に立ち返って欲しい、そのように今日もキリストは愛を持って招いておられると思うのです。

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結語 共同体
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 05章 32節
私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。

レビは職業上、人々から罪人と言われてました。嫌われていました。
しかしそこにキリストが愛の眼差しを注がれたのです。
そしてレビを招かれました。
それは、キリストが、正しい人ではなく罪人を招くためにこの地上に来られたからです。

この「来た」というのは完了形です。
すでに来られた。
病人が医者のところに行ったのではない。
医者自らが、私たち罪人の元に来てくださった。天から来てくださった。
そして医者でもあるキリストによって招かれたレビは、自分と同じような仲間たちを招く者へとなりました。
そう、キリストに呼ばれ招かれた者は、招く者へと変えられていくのです。

レビは喜んでみんなを招いたでしょう。
「みんな来てくれ、私たちを救うお方が来られた。
医者のほうから、自ら私たちのところにやって来てくださった。
そうだ、私は病人であった。病んでいたのだ。罪に病んでいた。
それをキリストの眼差しの中で私は気付かされた。
私を真実に立たせて下さる方が来て招かれている。
さあ、みんなでこの救い主、医者であるキリストの元に集まろうではないか。」そうやって招いていったと思うのです。

今日も私たち教会は、キリストのために宴会をします。礼拝をするのです。
キリストに招かれた者たちは共にこのキリストを祝うのです。
そしてそれぞれの賜物を活かして、今度は私たちが周りの人たちを招いていこうではありませんか。

祈ります。
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祈り
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天のお父様、あなたの招きによって私たちは従うものとなりました。
どうぞ今日も、あなたの招かれる御言葉をしっかり聞く心を私たちにお与え下さい。
そしてあなたに招かれたものとして、喜んで、周りの人たちを招待する者として私たちを用いて下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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