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【人の知恵と神の知恵】250202礼拝メッセージ

「人の知恵と神の知恵」
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イントロ
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聖書は言います。
49:ルカによる福音書/ 11章 49節
それゆえ、神の知恵もこう言っている。『私は預言者や使徒たちを遣わすが、人々はそのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。』

今日のテーマは「知恵」です。

一般的に、知恵がある人は評価されます。
専門分野において優れた知識を持ち、適切な助言を与えてくれる人は、私たちにとって頼もしい存在だからです。

例えば、事故を起こした場合、法律の専門家の助言を受けることで、不必要な損害を避けることができます。
このように、知恵は私たちの生活を助ける重要なものです。

しかし、知恵が多ければ多いほど良いというわけではありません。
たとえば、2020年の新型コロナウイルスのパンデミック時、医療現場では試行錯誤を繰り返し、何がコロナに対して効果的なのか、その新しい知識が急速に蓄積されました。
しかし、ある重症患者の治療において、複雑な人工呼吸器の使用や特殊薬の投与にばかり注意が向けられた結果、酸素投与などの基本的な対応が後回しになり、より重症化してしまった事例が報告されています。
このように、過剰な知識や慎重さがかえって判断を遅らせ、患者の命を危険に晒す場合があるのです。

私たち人間の知恵は、ただ多く持つだけでなく、その知恵をどのように使うかが問われるのではないでしょうか。
どれほど知識や知恵を持っていても、それを正しく用いなければ、むしろ害を及ぼすことすらあります。

今回の聖書箇所で登場する律法学者も、たくさんの知識、知恵を持っていました。
しかし、彼らの知恵の使い方は神の目的から外れていたのです。

今日は「知恵」をテーマに、3つのポイントで見ていきます。

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1つ目のポイントは、人間の知恵は、律法を重荷に変える、ということです。

聖書は言います。
45:ルカによる福音書/ 11章 45節
すると、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、私たちをも侮辱することになります」と言った。

直前の聖書箇所では、キリストがまずファリサイ派の人に対して非常に厳しいことを言いました。
「あなたがたファリサイ派の人々に災いあれ」と。
その場には律法の専門家である律法学者達も居合わせており、その一人がキリストの言葉を聞いて反論しました。
「先生、そんなことをおっしゃれば、私たちをも侮辱することになります」と。

ファリサイ派と律法学者は似たようなイメージを持ちますが、違いがあります。
ファリサイ派は、律法を厳格に守ることで自分たちが清さを保ち、神の救いを受けるのに相応しい生活をしようと努めていた一般信徒の人たちです。
なので、ファリサイ派の人たちには大工や八百屋など様々な職業の人がいました。

一方、律法学者は聖書に記されている律法を研究し、その解釈を発展させ、さらに自分たちで新たな規則を作り出していた人たちです。

なので現代で言えば、律法学者とは聖書学者であり、ファリサイ派はその解釈に基づいて忠実に行動していく信徒達のようなものです。
つまり、律法学者はファリサイ派の行動を理論的に支える頭脳のような存在でした。

キリストが、まずファリサイ派の人たちに対して、「あなた達は外側を清く見せているが、内側は汚れている」と叱責したということは、彼らの行動の基となった律法解釈そのものが誤っていると指摘することにもなります。
ファリサイ派を叱るということは、間接的に律法学者をも叱責ることを意味するのです。
そのため、今回律法学者の一人がキリストに対して「先生、そんなことをおっしゃれば、私たちをも侮辱することになります」と言ったのです。

しかし、キリストはそのような律法学者に対しても厳しい言葉を投げかけられます。
46:ルカによる福音書/ 11章 46節
イエスは言われた。「あなたがた律法の専門家にも災いあれ。あなたがたは、人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分ではその重荷に指一本も触れようとしない。

キリストは律法学者に躊躇なく「災いあれ」と言います。
それは、律法学者達は、人々に背負いきれない重荷を負わす一方で、自分たちはその重荷に指一本触れず、助けようともしなかったからです。

律法、、、これは元々神がモーセに与えたものです。
十戒に始まり、神の民として歩むための詳細な規定が記されています。
私たちは律法と聞くと、「〜しなければいけない」という規則集をイメージするのではないでしょうか。
確かに人間の作った規則集はそのようなものがほとんどでしょう。
しかし、神がモーセに与えられた元々の律法とは、それとは根本的に異なるものです。

神がモーセに律法を与える際に、最初このように言われました。
出エジプト記/ 20章 02節
「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。

ここから律法が始まるのです。
ここで重要なのは、聖書の律法は元々「◯◯を守れば救われる」という条件として与えられたのでは無いことです。
むしろ神は、「私はすでにあなた方をエジプトから救った」と宣言された上で律法を与えられました。
つまり、律法とは、守ることによって救われる条件ではなく、すでに救われた者としての応答なのです。

実際、十戒では「〜してはならない」と日本語で訳されていますが、原文では「〜するはずがない」とも訳せます。
「あなた達は、私にすでに救われた者である。
だからあなた達は、私以外の神を拝むはずがない
あなた達は自分の命を私によって救われた者、命の大切さを知っている者だ。
だからあなた達は他人の命を殺すはずがない」このように言われる。
だから律法は「あなた達がこれらを全部守ったら救ってあげよう」というリストではありません。
すでに神が民達を愛しエジプトから助け出して下さったからこそ、「あなたたちは私の他に神を拝むはずがない」このように言うのが聖書の律法なのです。

私たちも本当に愛する人であれば、自然とその人のことを大切にしようとするでしょう。
その人以外の人を愛して裏切ったり、傷つけたり、その人の大切にしている物を盗んだりしようとは思わないでしょう。
まして、その人は命を懸けて自分のことを助け救ってくれた方なのです。
そうであれば、この人以外を愛するはずはない、、、これが神が人間に定めた愛の律法、神への愛し方なのです。
このように考えていくと、神が定めた元々の律法の意味とは、単に〜してはダメだ、という規則集ではなく、愛の関係に基づく指針であることがわかります。

実際、キリストは別の箇所で、「律法の要約は、神を愛し、そして神が愛して造って下さった作品である隣人を愛することである」と語られました。
したがって、聖書に記された律法は本来、私たちに重荷を負わせるものでは無いのです。

しかし、律法学者達は本来の「愛の律法」を重荷へと変えてしまいました。
彼らは自分達の知恵によって律法を複雑にし、いつの間にか「これを守らなければ救いを得られない」という救いを得るための条件へとしてしまったのです。

このように律法が救われるための条件になると、人々は「自分は果たして律法を満たして行動しているだろうか」とか「自分が知らない戒めがまだあって、知らず知らずのうちに律法を破ってしまっているのではないか」と絶えず不安に駆られるようになります。

当時は今のように印刷技術が発達しておらず、律法の記されている聖書は会堂にしかありませんでした。
民衆が自由に聖書を手に取ることはできず、現代のように気軽に聖書を購入したりアプリで参照したりすることもできません。
そのため、一般の人々は律法をどのように守れば良いのかを、専門家であるファリサイ派の人たちや律法学者達に頼るしかなかったのです。

私たちも何か事件やトラブルが生じた場合、専門家に相談することがあります。
現代では六法全集などを買ったり、ネットで調べることができますが、それができない時代には、専門家の助けが不可欠です。
同様に、当時の人々は「この行為は律法違反になるかならないか」などを判断してくれる律法学者を必要としていました。

こうして、律法学者達は、律法に照らして人々の行動を「良い」「悪い」で評価し、「この場合はこうしなければならない」と指導する役割を担うようになりました。
しかし、その結果、律法は「神が救ってくださったことによる感謝の応答」という本来の目的を失い、「破れば救いが得られない」といういつもビクビク恐れて守りざるを得ない冷たい掟へと変質してしまいました。

さらに問題なのは、律法学者達の教えが、人々に重荷を負わせるだけで、それを背負う力や励ましを与えなかったことです。
彼らは罪を指摘し、人々を追い込んでいきました。
「あなたは罪人だ、あなたも罪人だ、このままでは救われない」と、追い詰めて罪の重荷を人々の背中に積み重ねていきました。
その結果、人々は宗教的重荷を重ね、苦しむことになってしまったのです。

この話を聞くと、私たちは律法学者達とは、慈悲のないひどい人たちと思うかもしれません。
しかし、これは当時の律法学者だけの話ではないと思うのです。
現代も、たとえば政治家やタレント、また会社などが賄賂やスキャンダルといった不道徳な行いの報道があると、私たちはどうするでしょうか。
多くの人はメディアやSNSを通じて、よってたかって批判し、一斉に非難の声を上げます。
「あの政治家も悪い」「あの芸能人も悪い」「あの会社も悪い」と糾弾する。
時には職場の上司や部下、あるいは家族に対しても同じことをしてしまいます。
「あの人はこれができていない、あれができていない、だからダメなやつだ」と。

私たちは、誰でも気軽に発信できる時代に生きています。
しかし、この便利さの裏側で、他人に罪を着せ、批判すること、裁くことが上手くなってしまったのではないでしょうか。
私たちは得意になって相手の罪を指摘し、大声で非難してしまうことがある。
そして、罪を指摘し、裁いたらそれでおしまい。
その人が悔い改めて立ち直ろうとしても、愛の手を差し伸べることをほとんどしません。
その人の更生して、再出発を支えることは「行政などがやればいい」と思い、人の罪の重荷に対して自分は指一本触れることをしない、、、。
このように考えると、今の時代にも、他人に罪の重荷ばかりを載せて指一本触れない律法学者やファリサイ派のような人たちがたくさんいることに気付かされます。
そして、それは周りの人たちだけでなく、自分自身の中にもこのような律法学者の性質を持っているのではないでしょうか。

だからこそ、キリストは言いました。
「神は元々、人と愛の関係を築くために律法を与えた。
しかし、あなた達はその律法を単なる規則集としてしまった。
ただ果たすべき義務のリストに変えてしまった。
さらに、相手が「できているか、いないか」そればかりを気にして、互いに罪の重荷を載せ合い、助け合うことをしていない」と。

私たちはなぜ礼拝をするのでしょうか。なぜ祈りをするのでしょうか。なぜ聖書を読むのでしょうか。
救われ続けるために礼拝をするのでしょうか、祈るのでしょうか、聖書を読むのでしょうか。
いやそうではない。私たちを救うために命をかけてくださったキリストを愛しているからです。
愛するキリストともっと会話をしたい、、、だから祈る。
もっとキリストの言葉を聞きたい、、、だから聖書を読む。
目には見えなくとも、今日も生きておられるキリストの臨在を感じたい、、、だから私たちは礼拝をするのです。
これこそが、私たちがキリストに対する愛の表現なのです。

もしこれが「礼拝に行かなければいけない」「聖書を読まなければならない」「祈らなければならない」という規則になった途端、愛の関係が失われてしまいます。
仮に表面的には実践していても、内側にある愛は抜け落ちてしまう状態になってしまうのです。
私たちは簡単に、愛の律法を冷たい規則集のようにしてしまう性質がある。

律法学者は知恵がある人たちでした。
彼らは律法をよく研究し、膨大な知識を持っていました。
しかし、知恵や知識があるからといって、人々に健全な教えをするとは限りません。
むしろ、その知恵が邪魔をして本質を見失うことさえあります。
そのために、キリストはファリサイ派だけでなく律法学者にも「災いあれ」と厳しい言葉をかけたのです。

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2つ目のポイントは、人間の知恵は、神の預言者を殺す、ということです。

聖書は言います。
7:ルカによる福音書/ 11章 47節
あなたがたに災いあれ。あなたがたは、自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。
48:ルカによる福音書/ 11章 48節
だから、あなたがたは先祖の仕業の証人であり、それに同意しているのだ。先祖が殺し、あなたがたが墓を建てているからである。
49:ルカによる福音書/ 11章 49節
それゆえ、神の知恵もこう言っている。『私は預言者や使徒たちを遣わすが、人々はそのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。』
50:ルカによる福音書/ 11章 50節
それで、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代が責任を問われることになる。
51:ルカによる福音書/ 11章 51節
それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ、言っておくが、今の時代はその責任を問われる。

キリストは続けて律法学者達を批判します。
預言者とは、神の言葉を預かり、それを人々に語り伝える使命を担った人たちです。
神は旧約時代、多くの預言者を通してご自分の愛の言葉を人々に伝えようとされました。
時には、耳の痛い厳しい言葉を語る必要がありましたが、それは人々がそのままでは滅びに至ることが分かっていたからこそ、そこから方向転換を促すためのものでした。
しかし、残念ながら多くの預言者達は、同時代の人々に受け入れられることなく迫害され、命を奪われていきました。

ここでキリストは、預言者が殺されてきた歴史は、アベルからゼカルヤにまで及ぶと言います。「アベル」とは、アダムとエバの間にできた2番目の子どもです。
兄カインがいましたが、ある時兄弟二人が神への献げものをした時、アベルの献げものだけが神に受け入れられたことによって兄カインから妬みをかい、結局アベルは兄に殺されてしまいました。
アベルは預言者ではありません。
しかし、神の御心に忠実に生きた人でした。
ここでキリストはこのアベルの死を、神の言葉に従う彼が敵対するもの、兄によって命を奪われる歴史の始まりとして位置付けているのです。

51節にあるもう一人の預言者「ゼカルヤ」は、列王記下に登場する言者の一人です。
彼は王とその側近達が神を捨て、他の偶像を拝むようになったことを指摘し、王達に悔い改めを求めました。
しかし、王はそれを拒み怒って、ゼカルヤを殺害しました。
神の言葉を忠実に伝えたために命を奪われたのです。
キリストはこの二人の名前をあげることによって、旧約時代に神が遣わした多くの預言者達が、人々の手によって殺されてきた事実を示しました。

なぜ預言者は殺されていったのか。
その大きな理由は、自分たち人間の知恵によって神の言葉はいらないと判断したからです。
神を裁いたからです。
神の言葉に従うよりも、自らの善悪の基準で「こんな神の預言者はいらない」「神の言葉は私には必要ない」と言い放ち、排除したのです。

こうした預言者を迫害する人間の知恵は、律法学者達によって最大の山場を迎えます。
彼らはやがて、最大の預言者であり、神そのものであるイエス・キリストを迫害し、ついには十字架によって殺すという行動に出たのです。

実際、彼らはこの後激しい敵意を抱くようになります。
53:ルカによる福音書/ 11章 53節
イエスがそこを出て行かれると、律法学者たちやファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、イエスの言われたことをあれこれ口に出しては、
54:ルカによる福音書/ 11章 54節
何か言葉尻を捕らえようと狙っていた。

律法学者だけでなく、ファリサイ派の人達もキリストに激しい敵意を募らせ、本格的に殺害計画を立て始めました。
そして、その計画はやがて実行に移されます。

一方で、彼らは預言者の墓を立て、過去に殺された預言者達に敬意を表わそうとしました。
この行為自体は立派に見えます。
しかし、彼ら自身が目の前にいる最も偉大な預言者であるキリストを殺そうとしているのです。
それは、彼らが先祖達と同じ過ちを繰り返すどころか、それ以上の罪を犯すことに他なりません。

このように、歴史上のどの預言者よりも偉大なキリストを十字架にかけ、その命を奪おうとしていく、、、これこそがまさに私たち人間の知恵が生み出した究極の罪の結果であり、そして、この責任は、彼らだけでなく、今の時代を生きる私たちにも問われることになるのです。

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では私たちはどうしたらいいのでしょうか。
3つ目のポイントは、神の知恵は私たちを天の国に導く、ということです。

聖書は言います。
52:ルカによる福音書/ 11章 52節
あなたがた律法の専門家にも災いあれ。あなたがたは、知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々まで妨げてきた。」

律法の専門家達は、律法を人間の知恵で解釈することによって、愛の律法を重荷に変え、そして、神が遣わした預言者を迫害しました。
それによって、「知識の鍵」、、、これは聖書の知識、信仰によって天の国に入る道を自ら閉ざしてしまいました。
しかも、律法学者自身が天の国に入らないばかりか、彼らの誤った教えによって、天の国に入ろうとする人たちをも妨げていたのです。
このように、聖書に記されている救いの道を、自分たち人間の知恵で解き明かそうとした結果、天の国行く道を閉ざしてしまったのです。

本来ならば、この責任を私たち人間が責任を負わなければいけません。
しかし、神の知恵であるイエス・キリストが、私たちの愚かな知恵による罪とその責任を負って下さいました。

今日招きの言葉を読みました。
24:コリントの信徒への手紙一/ 01章 24節
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
25:コリントの信徒への手紙一/ 01章 25節
なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

神の知恵は、私たち人間の知恵を遥かに超えた偉大なるものです。
その神の知恵が人格となって現されたのが、イエス・キリストです。
ただし、神の知恵は偉大であるが故に、私たち人間の目には時として愚かに映ることがあります。
なぜなら、私たちが想像する知恵や力とは全く異なる方法で神の救いが実現されるです。

人間の知恵で考えれば、武力や権力によってこの世界を変えようとするでしょう。
しかし、神の知恵であるキリストは、十字架に向かう道を選ばれました。
わざわざ預言者として殺されにいきました。
この後、律法学者達に罵られ、弱々しい姿でただ十字架に張りつけられたイエス・キリスト。
その姿は、人の知恵、常識から見たら全く愚かで無力に見えました。

しかし、キリストは十字架で死んだ後、復活しご自分が誰よりも賢く、強い方であることを示されました。
人間には絶対に克服できない「死」をも打ち破られたからです。

こうして、私たちが預言者を殺し続けてきた責任を、キリストが自ら十字架で全て負って下さいました。
その結果、今や私たちは、かつて人間の知恵では決して入ることができなかった天の国に入る道を開かれたのです。

この神の知恵であるキリストが、十字架にかかるほどに私たちをそれほどまでに愛してくださったからこそ、私たちも神を愛することができるようになりました。
本来の愛の律法を全うする生き方が、ここで初めてできるようになったのです。
かつて私たちを重くしていた律法は、キリストによって、愛の律法へと変えられました。

だから私たちは、キリストを愛するが故に礼拝をするのです。
愛する人の声を聞くために聖書を読むのです。
愛する人とたくさん話すために祈る。

このように、私たちは律法を守っているかどうかを恐れて生きるのではなく、全く自由に神と人とを愛していくことができる、、、これがキリスト者の生き方です。

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結語
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 11章 49節
それゆえ、神の知恵もこう言っている。『私は預言者や使徒たちを遣わすが、人々はそのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。』

今日は「知恵」をテーマに3つのポイントで見てきました。
1つ目、人間の知恵は律法を重荷にする
2つ目、人間の知恵は預言者を殺す
3つ目、神の知恵は私たちを天の国に導く
です。

今日も神は私たちに言われます。
「自分の知恵が一番正しいと思い込んでいる者たちよ。
神である私よりも、自分の善悪の判断が正しいと思う者たちよ。
そのあなたの知恵が、愛の律法を重荷にし、互いに罪を負わせている。
そして、ついにはキリストさえも殺すことになった。
しかし、その責任を私が全て負い、あなたたちを救い出す」と。

だからこそ、私たち教会は、自分の知恵に頼るのではなく、神の知恵であるキリストの言葉を信頼して、神と人とを愛していこうではありませんか。

祈ります。
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祈り
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天のお父様、私たちはよく、律法を単なる規則集のように捉えてしまいます。
あなたとの愛の交わりを、心から楽しむべきものではなく、まるで果たすべき義務のようにしてしまう者です。
さらに、できていない人を見ては裁き、自分より優れている人を見ては、何か欠点を探そうとしてしまう弱い者です。

このように私たちは、本来愛の関係を築くために与えられた律法を、隣人や自分を裁く道具にしてしてしまう愚かな者達です。

しかし、そのような私たちを救うために、あなたが自ら十字架にかかり、私たちの罪の責任を負って下さいました。
それによって、天の国に入る道が開かれました。
どうか、この救いを心から喜び、あなたとの愛の交わりを深めていくことができますように導いて下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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