見出し画像

【隣人を愛するには】241110礼拝メッセージ

隣人を愛するには」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
イントロ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
聖書は言います。
29:ルカによる福音書/ 10章 29節
しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。

本日のテーマは「隣人」です。

「隣人」という言葉を日本語辞典で調べると、「となり近所の人」と書いてありました。
アパートやマンションに住んでいる場合なら、両隣の部屋に住む人や上下階に住む人たちが当たります。
一軒家であれば、お隣の家に住む人を指すでしょう。
つまり、引っ越しをした際に挨拶に行く相手が日本語辞典で言う隣人だということです。

私が結婚したとき、披露宴の席次表を作成しました。
このテーブルには新郎友人、あのテーブルには新婦会社関係、ここには親族など、誰がどこに座るかを決めるのです。
親族席の配置について親に確認を求めた際、「隣組を作って欲しい」という提案がありました。
隣組という言葉を私はあまり聞いたことがなかったのですが、そこには実家の隣近所で昔からお世話になった方々の名前がありました。
だから、親にとって隣組というのは、今までもそして今後もお付き合いしていく大切な人達なので、きちんと席を用意するのが当然だという考えでした。

「隣人を愛する」、、、それは自分や家族はもちろん、近くに住んでいる人を愛することを意味します。
何かあった時、困った時に物理的に一番近くにいる人に助けてもらう可能性が高い。
だから、隣人を愛することを重んじる。
引越しで挨拶をする理由がここにあると思うのです。
このように私たちは、家族や友人など親しい人や物理的にも近い人との関係を大切に、愛そうと努めます。

では、イエス・キリストは「隣人を愛すること」について、どのように言われているのでしょうか。
本日は、3つのポイントからこのテーマについて見ていきたいと思います。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
1つ目のポイントは、私たちは、制限をかけて隣人を愛する、ということです。

聖書は言います。
ルカによる福音書/ 10章 25節
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

この前の箇所では、弟子達が伝道の成功を喜びながら帰ってくるのに対し、キリストが「伝道の成功ではなく天に名前が記されたことを喜びなさい」と語られました。
その出来事の後、ある律法の専門家が立ち上がり、キリストに問いかけました。
しかも「試そうとして」とあります。
テストする。
つまり、この律法の専門家は、キリストに何かを教えて欲しいために聞いたのではなく、キリストが本当に正しい教師であり、聖書をきちんと理解しているのかをテストしようとしたのです。
そして言いました。

「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
永遠の命、、、それは死を超える命、神と共に永久に生きる命のことです。
この命を受け継ぐためにどのように生きればよいかをキリストに聞きました。

するとキリストはこう答えられました。
ルカによる福音書/ 10章 26節
「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」

キリストは、「あなたはどのようにそれを読んでいるか」と尋ねられました。
ここで「読む」と訳されている言葉は、別の訳し方をすると、「あなたはどのように唱えているか」という文章にもなります。
ユダヤの人たちは、一日2回、律法の大切な部分を唱える、という生活習慣がありました。
まして律法学者ですから、これをきちんと行っていたことでしょう。
だからキリストはこう言ったのです。
「あなたは律法の専門家であり、日々学び研究している学者だ。
ならば、律法に何て書いてあるか知っているはずだ。
あなたは、いつも自分の心に刻む生活の掟として、いつも何を口にしているか」
と問われたのです。

これは、律法学者に対して、律法の字面を単に読み取って「こういう意味です」と解釈するだけでなく、聖書に書かれていることに基づいて、あなたがどのように日々実際に生きているかを問うものです。
律法学者は最初、キリストを試そうとして問いかけましたが、キリストに「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と一言返されることによって、むしろこの律法学者の聖書解釈、知識、そして日々の生き方が公の場で問われることになってしまいました。

彼は答えます。
27:ルカによる福音書/ 10章 27節
彼は答えた。「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

律法学者である彼は正しい答えをしました。
私たち人間が心を尽くして愛するのは神であり、そして隣人を自分のように愛することである、と。
これはまさに律法の要約であります。
さすが律法の専門家であり、見事な答えを言いました。
キリストも言われました。
28:ルカによる福音書/ 10章 28節
「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

あなたはきちんと律法を弁えている、完璧な答えだ。
それを実際に実行していけば、あなたは命が得れる、と。

律法学者とキリストとの対話、、、本来ならこれで終わっていいはずです。
ところが、律法学者は満足しませんでした。
ルカによる福音書/ 10章 29節
しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。

「正当化する」という言葉は、義と認めるという意味の言葉です。
自分の聖書の読み方は正しく、その生き方が間違えていないことを証明するために、キリストに問い返したのです。
「私の隣人とは誰ですか」
なぜ彼は正しい答えをしたにも関わらず、「私の隣人とは誰ですか」とキリストに問うたのでしょうか。

ある記事を読んだことがあります。
ある人が電車に乗りました。
最近その人は、腰や膝を痛めて杖をついて歩くようになった。
だから、揺れる電車に立ち続けるには一苦労する。
そんな様子を見て、今まで座っていた若い方が「どうぞ」と笑顔で席を譲ってくれた。
しばらくして、その若者が自分より先に電車を降りようとしたのでお礼を言うと、その若者が電車を降りてからクルッと振り返り、笑顔で自分に手を振ってくれた、と。
その人は「ありがたい」と思いとても嬉しなり、自分の腰と膝が治ったら自分も積極的に譲っていきたいと思った、と。
今まで自分は席をゆずるというのはあまり真剣に考えてこなかった。
しかし、いざ自分が譲られる立場になった時、自分も可能な限りやろうと思った、と書いてありました。

しかし、その記事には続けてこう記されています。
「ではもし自分が席を譲るとき、一体どこまで席を譲ったらいいのだろうか?」と。
自分が座っていて、目の前に立っている人が辛そうであれば席を譲ろう。
だがもし、目の前の人が元気そうであれば、席は譲らなくていいのか。
目の前にいる人より、後ろや横にいる人がもっと辛そうであれば、自分はその人達に対しても席を譲った方がいいのだろうかと悩む。

席を譲る、、、ささやかな行為かもしれません。
でも今日のテーマで言うと、隣人を愛する行為です。
困っている人や辛そうな人を助けることです。
しかし、席を譲る対象となる私の隣人は、一体どこまでの人を対象とすればいいのでしょうか。
自分が座っていて、目の前の人、その後ろの人、右側や左側の人など隣人の範囲が決まっていないと、電車に乗る時気軽に座ることさえとてもできなくなってしまいます。
自分が疲れている時も、席を譲らなければいけないのでしょうか。
もし、自分が疲れているからといって座ったままでいると、内心どこかで自分を正当化し、言い訳をしながら、罪悪感を抱きながら座ることになるのではないか。

これは席を譲ることに限らないと思うのです。
募金活動や支援も同じです。
恵まれない人達に支援を届ける団体は数えきれないほどあります。
ハンガーゼロ、ユニセフ、国境なき医師団など。
一体どこまで支援を続ければ良いのか?
もし隣人を特定しなければ、片っ端から支援をする必要が生じるため、私たちの財産はあっというまに全て使い果たしてしまいます。
そうなれば、自分自身がとても生きていけなくなります。
だからこそ、私たちは問うのです。
「私の隣人とは一体誰か?」と。
どこまでが隣人なのかを特定し、制限をかけなければ、私たちは人を愛することなんてとてもできないと思うからです。

この律法学者も、そのような葛藤を抱えた、いわば私たちの代表です。
彼も、神を愛し隣人を愛することを真剣に生きようとしたことでしょう。
しかし、隣人愛に真剣に取り組めば取り組むほど、どこまでの人を愛せばいいのか、その枠を決めてもらわないと、愛に生きれない自分に気付くのです。
自分の愛の貧しさを知る。
だからこそ、キリストから「それを実行しなさい」と言われた時、彼は狼狽えました。
そして、制限無しだととても隣人を愛することができない自分を正当化するために、聞き返したのです。
一体私の隣人とはどこまでの範囲なのか?家族までなのか?友人か?両隣のご近所さんまでか?と。

そう、この律法学者の「私の隣人とは誰ですか?」という問いは、隣人愛に真剣に生きようとする時に生じてくる当然の質問なのです。
誰が私の隣人なのか、愛の対象を特定して制限をかけなければ、とても愛し続けることはできない、、、これが私たち人間の姿です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
では、この問いにキリストはどのように答えられたでしょうか。
2つ目のポイントは、キリストは、憐みによって隣人を愛する、ということです。

聖書は言います。
ルカによる福音書/ 10章 30節
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追い剝ぎに襲われた。追い剝ぎたちはその人の服を剝ぎ取り、殴りつけ、瀕死の状態にして逃げ去った。
31:ルカによる福音書/ 10章 31節
ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。
32:ルカによる福音書/ 10章 32節
同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。
33:ルカによる福音書/ 10章 33節
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その場所に来ると、その人を見て気の毒に思い、
34:ルカによる福音書/ 10章 34節
近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
35:ルカによる福音書/ 10章 35節
そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

キリストは、律法学者の質問に対して直接答えることはせず、たとえ話をされました。
「ある人」とは、ユダヤ人であると考えられています。
当時、エルサレムからエリコへ下る道というのは、危険な道で有名でした。
約27キロの急勾配で、道はところどころ狭い山道があり、旅人を襲撃する山賊たちの絶好の隠れ場でありました。
このため、旅人が襲われることが頻繁にあったようです。

ここに出てくる「ある人」も山賊・追い剥ぎの被害に遭い、服が剥ぎ取られ、殴られ、半死の状態になりました。
その時、たまたま祭司、レビ人が通りかかりました。
彼らはどちらも、神殿で務めをし、神の言葉に従って生きる者達です。
しかし、この人たちは半死状態の人を見ても、反対側を通り過ぎて行きました。
彼らは同胞であるユダヤ人を見捨てて行きました。

私たちから見ると随分薄情な人、とも思えますが、彼らにはそれなりの理由がありました。
半死状態の人は、近寄って触れてみないと、生きているか死んでいるか分かりません。
もし死んでいた場合、祭司やレビ人など神聖な務めをしている者は、律法により1週間務めから離れる必要がありました。
そうなると、大事な神に仕えることができなくなります。神を愛することができなくなる。
そのため彼らは触らないようにして反対側を通り過ぎました。
これが彼らの律法の読み方でした。

しかし、旅をしていたあるサマリア人は、その人を見て気の毒に思い、手当てをして宿屋に連れて行きました。
サマリア人は当時、ユダヤ人と敵対していた民族です。
結婚はもちろん、一緒に食事をすることすらなかったのです。
しかし、そのような敵対関係であったサマリア人が、傷つき苦しんでいたユダヤ人を助けたのです。

とてもわかりやすいたとえ話だと思います。
今までこのたとえ話を読んだ多くの人は「私たちもこのサマリア人のように敵味方隔てなく愛そう」といった道徳的な教えを学びとり、そこから多くの慈善団体や活動が生まれました。
確かにそれも一つの良い解釈です。
見出しにもありますように「善いサマリア人」と、道徳的に素晴らしいサマリア人のように私たちも隣人を愛そう、敵を愛そうというものです。

しかし、キリストがこのたとえ話で伝えたかったのは、そのような道徳的な教えだけなのでしょうか?
サマリア人は、なぜ敵であった旅人を助けたのか。
その理由はこれだけです、23節の「気の毒に思」ったから。
他の理由はありませんでした。
この「気の毒に思う」という言葉は、はらわた、内臓が痛むという意味で、まるで自分の内臓が痛むような感覚で、相手の痛みを自分の痛みとして感じることです。
そして著者であるルカは、この「気の毒に思う」という言葉を神にしか使っていません。
人間には使っていない特別な言葉です。
つまり、ここで使われている「気の毒に思う」とは、私たちが傷ついている人を見て感じる同情とは異なり、神にしかできない、相手の痛みを本人以上に理解することです。

だから、このたとえ話に登場するサマリア人とは、単なる善良の人間であるサマリア人ではありません。
神の子であるイエス・キリストのことを指しています。
キリストは、敵対関係であった人が半死状態であるのを見て、気の毒に思い、憐れみを示されました。
本来、助ける必要や義務も全くない相手だったにも関わらず、ただただ憐れんで助けられたのです。

では、キリストにとって敵対していた人とは一体誰でしょう?半死状態だった人は誰のことを指しているのでしょうか。
それは、私たち人間です。

私たちは「神なんていらない、自分1人で生きていける、神は私を縛る存在で、いちいち口出ししてくる者だ」と考え、神を拒んでいました。敵対していた。
しかし、そのような私たち人間が半死状態になってしまったのです。
それは単に怪我をするとか、病になるとかだけでなく、魂が死にかけていたことでもあります。
家族、友人、仕事などの人間関係に傷つき、生きる目的を失っていた。
親友と思っていた人から裏切られ、他人を信じることができなくなっていた。
長年続く夫婦や親子関係の対立により、家族の絆が崩壊し、家庭でも自分の居場所を感じることができず、生きる意欲を失い、死を間近に感じるような半死状態に陥っていた、、、それが私たち人間の状態です。

このような状況の時、この世の宗教や道徳、賢く生きる処世術といったものは、私たちのことを助けてくれません。反対側を通り過ぎていきます。
私たちが元気で調子がいい時には、これらが役立つこともありますが、半死状態の時はただただ通り過ぎていく。
誰も助けてくれない。

しかし、私たちがずっと拒否していて敵だと思っていたイエス・キリストは、そんな私たちを見て気の毒に思われたのです。憐れまれた。
神の御心がぎゅうっと痛んだ。
そして、キリストは傷ついている私たちを助け、救うためにこの地上に来て下さいました。
私たちの傍に来てくださり、私たちの隣人となって下さいました。

私たちが今ここに集っているのも、キリストが隣人となってくださったからではないでしょうか。
生きる目的が分からず、半死状態の私たちのところに来てくださった。

日本語の聖書で今日の小見出しでは「善いサマリア人」となっていますが、外国の聖書ではこのようになっているのが多いそうです。「憐れみ深いサマリア人」。
キリストは、神から離れ、死にかけている私たちの姿をご覧になり、気の毒に思い、この地上に来られたのです。

だから、このサマリア人のたとえ話は、単に善いことをしようという道徳訓だけの話ではありません。
この話は、孔子や釈迦、ソクラテスなど単に立派な人が語ることができる話ではないのです。
神の子キリストについて記された話だからです。
そのため、このサマリア人のたとえ話はキリストにしか話すことはできないものなのです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
では私たちはどうしていけばいいでしょうか。
3つ目のポイントは、私たちが隣人となっていく、ということです。

キリストは、サマリア人のたとえ話をされた後、こう質問されました。
ルカによる福音書/ 10章 36節
この三人の中で、誰が追い剝ぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
37:ルカによる福音書/ 10章 37節
律法の専門家は言った。「その人に憐れみをかけた人です。」イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

このたとえ話から分かることは明白でした。
隣人となったのは、サマリア人です。
しかし、律法の専門家は、37節「憐れみをかけた人です」と言い、直接サマリア人とは答えませんでした。
彼の中では、敵対していたサマリア人をまだ自分の隣人として認めていなかったのです。

そしてキリストは言われます。
「行って、あなたも同じようにしなさい。」

ただしここで疑問に思うのです。
最初キリストは律法学者とのやりとりの中でこのように答えられました。
ルカによる福音書/ 10章 28節
イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
しかしこの37節では
「行って、あなたも同じようにしなさい。」
とあるように、28節では「実行しなさい」の後に「そうすれば命が得られる」と言われましたが、37節では「あなたも同じようにしなさい」の後に「そうすれば命が得られる」とは言っていません。
本来、28節に倣って、37節も「行って、あなたも同じようにしなさい、そうすれば命が得られる」と言うべきではないでしょうか。
しかし、キリストはその部分を言われませんでした。

なぜか?
それは、永遠の命を得るのは、私たちが隣人をどれだけ愛したことによって得るのではなく、ただただイエス・キリストの憐れみによって得られるからです。
キリストは、半死状態の私たちを憐れみ、救うためにこの地上に来られ、最終的に十字架にかかり、その後復活されました。
このことによって、私たちは神と共に永遠に生きる道が開かれたのです。

だからこそ、キリストは37節で「行って、同じようにしなさい」と言われた後に、「そうすれば命が得られる」とは言われませんでした。
それは、制限付き、条件付きでなければ隣人を愛することができない罪人である私たちを、それでもキリストが愛し、隣人となって永遠に生きる命を与えて下さったからです。

私たちがこの命を生きる時、もはや自分を正当化する必要はなくなります。
私たちはすでにキリストによって命を得ている。
だから、私たちは永遠の命を得るために誰が自分の隣人かを定める必要はないのです。
すでにキリストによって命を得ているからこそ、困っている人がいれば、ただただその人の隣人になっていく。
そこには敵も味方も関係ありません。
その時の状況に応じて、聖霊によって示された人の隣人となり、愛し、助けていく。

サマリア人が行ったことは、大袈裟なことではありませんでした。
旅の途中、自分の持っていた油や葡萄酒を使って怪我の手当をし、そして自分が乗っていた家畜に乗せて宿屋に連れ行き、休ませたまでです。
次の日には銀貨2枚を宿屋に渡して、彼は自分の旅や仕事を続けました。
彼は自分ができることをしたまでです。
世間で目を見張るような特別に大きなことをしたわけではありません。

私たちも、今やキリストに救われ、命を得た者として傷ついた人を助けていく。
些細なことで構いません。
席を譲ろうと示されたら譲ればいい。
自分の体調が厳しかったら無理に譲る必要はない。
その時は相手のために心で祈ればいい。
私たちは、もういちいち自分を正当化する必要はありません。
そこから解き放たれ、自由に神を、人を愛せる者。

今やキリストが私たちの隣人となり、助け出されたというこの喜びの中で、今度は私たちが隣人となって生きていく、、、これがキリストによって永遠の命を得た人の生き方です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
結語
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
聖書は言います。
29:ルカによる福音書/ 10章 29節
しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。

本日は「隣人」をテーマに3つのポイントで見てきました。
1つ目、私たちは、制限をかけて隣人を愛する
2つ目、キリストは、憐みによって隣人を愛する
3つ目、私たちが隣人となっていく

キリストは今日も言われます。
「愛の貧しさを感じている者達よ。
自分を正当化しないと隣人を愛することができないと思っている者達よ。
そんなあなた達を救うために私はここに来た。
私があなた達の隣人となった。
この愛を受けて、あなた達は全く自由に神と人を愛していきなさい」

だから私たち教会は、キリストの憐れみによって永遠の命を与えられた者として、今度は私たちが、傷つき困っている人たちの隣人となっていこうではありませんか。

祈ります。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
祈り
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

天のお父様、隣人を愛そうと真剣に考えれば考えるほど、自分の愛の貧しさを思い知ります。
自分を正当化しないと生きていけない心の貧しいものです。

しかし、そんな私たちをあなたは憐んで下さいました。気の毒に思って下さいました。
そして、実際にこの地上に来られ十字架と復活によって永遠の命に至る道を切り開いて下さいました。

どうか、あなたによってすでに命を得ている、その喜びに生きて、今日も目の前の人を愛し助けていく者とさせて下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。


いいなと思ったら応援しよう!