喪失感 母の日に
2022年3月26日の深夜1時、母が亡くなった。81歳だった。
この感覚をなんと表現したらいいのだろう。単に悲しいとも違う、なんとも言えない感覚。ちょっと書くことで落ち着きたい。自分を分析したい。
25日、朝から妙な胸騒ぎがしていた。
胸が苦しいというか、なんというか。
イヤな予感とまではいかないが、なんとなく、おかしい。
昔からトラブルが起きる前に、近い感覚となることが多いのだか、
それとはわずかだか違う。でも、どこか似た感覚だった。
昼過ぎに、母が入所している介護施設から連絡が入る。
容態が急変した、という。
それまでは自力でトイレに行っていたのだが、起き上がれなくなった、と。
正直、この時点では、さほど心配していなかった。
長い施設での生活で、運動量は減り、足腰も弱っているだろう、と。
続けて、母の携帯から連絡が入る。
「最後に話しておきたい」などという。昔から大袈裟なタイプゆえ、
”うんうん”と聞いていると、
陶器の急須で入れた緑茶が飲みたい、のだという。
まだ〆切があり「じゃあ、明日持っていくから」と告げると
話の途中で、トイレに行きたいといいだし、電話の向こうの
看護師さんから電話を一旦切るように促され、会話終了。
その後、返信なし。薬で眠っているのだろう、と推測していた。
夕方になり、別の看護師から酸素吸入をつけたという連絡が入る。
「なんとも言えませんが、お会いになっていたほうがいいのでは」と提案される。
少し慌てて、施設に急行するとまだ意識はあり、会話もできた。
着道楽だった母は「あの着物は◎◎さんにあげて」としきりにいう。
だが、その◎◎さんが、誰なのかわからない。
話をすることが苦しそうだったので、「大丈夫、わかったから」と
なだめつつ話をとめて、看護師さんに痛み止めの追加を相談する。
定時に水で薬が飲めなかったそうだが、その時は飲めた。
痛みの緩和は医療麻薬でできているそうで、そのときは次第に落ち着いて
いくかのように見えた。
叔父、伯父と連絡が取れずイライラしつつ、見守る。そのときは安定した感じだった。
とりあえず、一旦自宅に戻ることにした。この選択が正解だったのかはわからない。結果、忌の際を見届けるという意味では失敗だった。
深夜1時、原稿を書いていると施設から電話。「先ほどお亡くなりになりました」と。
慌てて駆けつけてもどうにもならない。死亡診断書を書いてくれる医師との時間を調整し、11時に施設へ。
静かに寝ているように見えた。
25歳のとき、小中高と一緒だった友人が急死して、守り刀を胸に置かれたその亡骸を見たときは、その場に泣き崩れた。よくドラマなどで号泣するシーンがあるが(大袈裟だよ、そんなに泣かないだろう)と思っていた自分は、現実を知らないだけだったと悟った。
たったひとりの母親が死んだら、そうなるのかな? と思っていたのだが、意外なほど冷静だった。
不思議な感覚なのだが、遅かれ早かれ、と1年間覚悟していたので、受け止めなければならない現実がついにきたか、と。
もう二度と会えない、という当たり前のことに悲しみを感じたのは、部屋でひとりになってからだった。
5月8日は母の日だ。白いカーネーションを買った。生前、もっと親孝行をしておけば、と思った。孝行したい時に親は無し。昔の人の言葉は真理がある。
続くかも
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?