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十時愛梨を量子力学で理解する

なぜ量子力学なのか?

愛梨の手元にあるから。

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それはさておき。

量子力学の大きな特徴として「重ね合わせ」という考え方があります。我々が目で見ることが出来る世界では、例えばコインは裏と表は、表か裏かの「どちらか」の状態しか存在しないですが、量子の世界ではAとBという正反対の状態であっても、AでもありBでもある「重なり合った」状態がある、という考え方です。そして、この「重なり合った状態」を「雲のように広がっている」と表現することも多々あります。(超適当。学問的に勉強したい人はきちんと専門書を読んでくれ)

ところで、量子力学には「観測問題」というものがあります。先ほど「雲のように広がっている」状態、という表現をしましたが、量子力学の実験を行って出てくる結果は1回の実験につき1つです。色々な状態が重なり合わさっていたものが、実験をした途端に結果が一つしか無くなるってどういうことなんだ…、みたいな話が観測問題です。(超適当。学問的に勉強したい人はきちんと専門書を読んでくれ)

これ、まさに十時愛梨なんですよ。

量子力学の十時愛梨。

重ね合わせ、といえば十時愛梨。
例えば[プライベート・メイド]というSSRがあります。メイド服の衣装で、メイドさんのイメージ通り、甲斐甲斐しく尽くしてくれる愛情たっぷりな一面を見せてくれます。ですが、一方で特訓前は自由時間でプライベートビーチを訪れた場面で、愛梨とPとの二人きり。愛梨はここぞとばかりに甘えてきます。そんな風に、愛するだけでもなく、愛されるだけでもなく、その両方を併せ持っているのが十時愛梨なんです。まさに量子力学。

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また、[パンプキンパーティー]というSSRでは、天然でうっかりやってしまった言動なのか、それともイタズラっ気を出してわざとやっている言動なのかわからない、という場面が多々ありました。こんなところも量子力学。

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量子力学で十時愛梨をどう理解するか。

さて、量子力学には観測問題がある、という話を切り出してそのままにしていました。実のところこれは未解決問題なのですが、2つほどメジャーな説があります。

ひとつは「コペンハーゲン解釈」と呼ばれるもので、「雲のように広がっている」ものが、実験をして観測をした瞬間に一点に「収束する」という考え方です。これを十時愛梨に落とし込むと…
十時愛梨は「愛し愛される」とか、「天然か意図か」とか、色々な状態が重なり合っている存在であるが、コミュとして観測する際にどちらかの状態に収束している
と、考えることが出来るんじゃないでしょうか。

このコペンハーゲン解釈って、十時愛梨を説明する時にとても便利だと、個人的には考えていまして、「天然か意図か」という個別個々のシーンについても説明できますし、もっと大きな話をすればモバマスとデレステの関係も、元々は同じものがコミュとして「観測」される時に「収束」して、違うものが見えている、と考えることが出来るかもしれません。コペンハーゲン解釈はすごいぞ(※注:コペンハーゲン解釈もどきでしか無いし、正しいコペンハーゲン解釈では、収束の原因を観測だとは断定していない)。

ちなみにもうひとつは「多世界解釈」というもので、観測した瞬間に「世界が分岐して一つの状態しか残らなくなる」という考え方です。アイマスにおいては「作品間の相違は世界線の違い」として説明することが主流なので、ある意味「多世界解釈」の立場に立っていると言えます(※注:多世界解釈もどきでしか無い)。


ちなみに、どちらの解釈にしても、「観測」という行為が「収束」なり「分岐」なり世界を変えてしまうという立場に立っています。これをアイマスに当てはめてみると「コミュとして観測する」という行為が、アイドルの挙動を変えていることになります。
…いや、これ案外正しいのでは? だって、コミュでの発言は、Pなり他のアイドルなりとの会話の中で出てくるものじゃないですか。コミュという「観測」がアイドルの挙動を変えていますよね。やっぱり量子力学だ。


さて、最後に十時愛梨を理解する上で、コペンハーゲン解釈を採用すべきか、多世界解釈を採用すべきか、ということを考えてみたいと思います。私の考えとしてはコペンハーゲン解釈が合うと考えています。

なぜなら。十時愛梨の色々な言動を見ると、どのような場面でも十時愛梨は変わらないと思うんです。なにせグラブルでも「生来のマイペースさから、元の世界と変わらぬ様子で空の世界を謳歌する」って書かれるくらいですから、グラブルほどの異世界でも変わらないのに、モバマスとデレステの間で、違いがある気がしないんですね。

あと、[スロウ・サマー・ヘヴン]でも、ひんやりしてくれていても、アツくなっていても、「どっちも嬉しいです。だって夏ですから♪」と両極端な概念を併せて抱きかかえるような面もありますから、愛梨自身が分岐するというよりも、コミュにより(つまり我々の接し方によって)違った愛梨が見えている、と考えたほうが良いのかな、と思っています。

というわけで、私は十時愛梨とコペンハーゲン解釈は相性が良いものだと思っています。


まとめ。

どのみちエセ科学ですが、「世界線の違い」の一言で片付けられがちな話題を違った解釈でお話してみました。コペンハーゲン解釈すごいぞ(※注:コペンハーゲン解釈もどきでしか無い)。

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