『耳をすませば』は、多感だったあの頃を思い出させてくれる映画
#夏に観たい映画 というお題があったので、ジブリの耳をすませばについて語ってみたい。個人的に、この映画は夏のロードショーで放映されるイメージがあるからだ。
私は学生時代、舞台となった東京都多摩市にある聖蹟桜ヶ丘まで行って、映画に出てくる名シーンを巡ったこともあるくらい、この映画が好きだ。
この映画の良さは、「多感だったあの頃の純粋な気持ちを思い出させてくれるところ」と「自分もこういう青春を送りたかったと思うような、手が届きそうで絶対に届かないリアル風ファンタジー」を描いているところにあると思う。
多感だったあの頃の純粋な気持ち
耳をすませばに出てくる主要キャラは、みんな純粋な気持ちを持って生きているように見える。小説が大好きで作家を目指している主人公の月島雫はもちろん、一見ツンケンして嫌な奴に見える天沢誠司も、実は楽器職人を目指して切磋琢磨する、夢にまっすぐな少年だ。他にも、雫に恋心を寄せる同じクラスの野球部・杉村や、その杉村のことが気になっている雫の親友・原田夕子も、自分の気持ちにまっすぐに生きている。
彼らが映画中で見せる、驚いたり、悲しんだり、照れたりする素直な反応は、そういうまっすぐな人特有のものだと思う。別に大人になったからといって、自分のそういった感受性がすり減っているとはそこまで思わない。しかし、耳をすませばを見ると「あぁ、中学生の頃ってこんな感じだったよなぁ」と再認識させられる部分があることも確かだ。例えば、雫の親友の夕子が杉村の些細な言動に一喜一憂する感じや、雫が地球屋のおじいさんに誠司君に追いつくために自分も小説が書きたいと泣きつく感じは、中学生の頃の多感さゆえの反応だよなぁ、と思う。
他にも、杉村の告白シーンでの雫と杉村のぎこちない感じとか、誠司の「俺、お前より先に図書カードに名前書くために随分本読んだんだからな」と雫に照れくさそうに告げるシーンも、甘酸っぱい気持ちになるというよりは、まっすぐで純粋だなぁ、と思う。
別に自分が、そういう純粋な気持ちをなくしてしまったわけではない。しかし、大人になるとそれ以外の要因(世間体や、仕事に関する悩み、社会・経済・人間に対する見方の変化、現実の生活で抱えるもの、等)が増える。そのため、よく言えば視野が広がり、悪く言えば「あの頃のまっすぐな気持ち」はどこか頭の片隅に置きざりになってしまっている。
そういう、「目の前の出来事に真正面からぶつかっていく純粋な気持ち」を思い出させてくれるような映画だと思う。
手が届きそうで届かない、リアル風ファンタジー
耳をすませばは「見ると死にたくなる映画」としてネットでよく名前が挙がる。
なぜだろう。
手が届きそうで届かないリアル風ファンタジー、というある意味、残酷な設定だからではないか。
観た人の多くは、「俺(私)もああいう青春を過ごしたかった」という感想を抱く。しかし実際には、こんなキラキラした青春を過ごせる人はほぼいない。
まず男女ともに夢があり(小説家と楽器職人)、それを実現するために行動していて(誠司はイタリアへ楽器留学までしてしまう!)、二人の夢を叶えるためにうってつけの場所(地球屋)があり、そこで二人きりで会って夢を話す機会があって、しかも二人とも相手のことを思いやって行動できるくらいの精神的な余裕やコミュ力があり、わりと美男美女で、学校でも二人の関係が冷やかしや嫉妬で邪魔されたりしない。そんな本人の資質や周囲の環境に恵まれた中学生が、日本中に何人いるだろう。ほとんどいないと思うのだ。なのでこの映画は、「限りなくあり得そうで、実はほぼあり得ない、リアル風ファンタジー」として見ればいい。舞台が、普通の人にもなじみのある学校や地元といった場所だから、自分にも起こりえた出来事のように感じてしまうだけだ。そう思うと、変に自分と比較したりせずに、この映画をファンタジーとして楽しむことができる。
おわりに
大好きな映画である、耳をすませばの良さについて語ってみた。
自分の中でこの映画は「理想の青春像」を描いたものだと思っている。
多くの人が「こんな青春を過ごせたら素敵だな」と思える要素が、この映画には詰まっているからだ。
ちなみに、もう少し現実に近い青春映画が好きなら、同じジブリ作品でも少しマイナーである「海がきこえる」をおすすめしたい。