正悪って、好き嫌いのことね

正義、って曖昧です。正義は好きではない。正義か悪かはどちらでもいいと感じている。正しいこと、悪いことがどうして生まれるだろうと考える。
 正義が嫌いなのは、戦争や喧嘩のもとには正義があるからです。正義感が強いほど争いは大きくなる。悪いとわかっている人は争わないです。テレビや物語の正義の味方はいつも悪を徹底的に叩き潰して胸を張ります。テレビのヒーローはけた外れの優位性があって平和を守ります。力ずくでこそヒーローになりえるのです。そこに相手の事情や論理はありません。こちら側の平和が第一だから子供のあこがれなのです。
 私は昭和30年代生まれで、ウルトラマン、モスラの時代です。ときどき悪人側のことを思うドラマを見てきました。モスラは理不尽に向かうために人の街を壊しました。憐憫はなく「仕方のないことだ」と言いました。
 さて、正しいこととは、うれしいこと、楽しいこと、不快でないこと、安心なこと、何度もあって続いてほしいこと。悪いことは、嫌なこと、嫌いなこと、不快なこと、イライラ、不安なこと、やめてほしいこと。これらの複数人の共通な部分、みんながそう感じることが正しいこと、あるいは悪いことの根拠だと思うのです。
 それは人の感情のことになる。だったら人それぞれに違うじゃないか、ということになる。統計的なものだから、一番多いもの最頻値(もーど)がたぶん常識人だろうと。その両端には稀なものが現れる。たぶんそこは非常識と呼ばれる集団で、サイコパスとか、紙一重とか言われるのでしょう。正悪が感情のものである限り、マイナーな人たちは正しいことを理解できないでしょう。ハグすることが楽しい人には、ハグという行為は正しいこと。嫌いな人にはハグは悪い行為になる。セクハラだって相手に寄るわけだし。苦しいと楽しかったり、神の元にあこがれる人がいて、生きることは悪になる人もいる。そこに理解や納得はありえないとおもう。
 つまり、絶対的な基準を信じると争いは絶えない。感情で生きる私たちには共通認識に限界がある。分かることは何もない。理解とは分かることでなく、認めることだとおもうのです。脳内の物質分布や濃度で個の世界はどうにでも変わってしまうという認識は必要だと思うのです。
 妄想閑話 でした。

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