雑感~ユダヤ教のこと
NHKの番組でスティーブンスピルバークの生い立ちを見た。インタビューで子供のころの記憶を語った。「ユダヤ人だということを薄々わかっていた。小学校のある時いじめにあって言われた。”お前はユダヤ人だからキリストを殺した仲間だ。俺たちにあやまれ”と。」
西欧では、ユダヤ人 という名目のいじめが珍しいことではないらしい。
”人の進化700万年史(ちくま新書)”だったか。最後の章に、”ユダヤ人集団の遺伝的特性”という目次があった。ユダヤ人がどこでいつごろ発生し、どのような経路で世界に広がったかを遺伝子分析から解くというもの。種の発生分布とおなじような手法だ。ユダヤ人の根拠や分布がそんなに大事な関心事なのかと驚く。
1986年刊の“ネオテニー”を読んだ。ここにも、”ユダヤ人の幼少期の特性”、という記述が出てくる。イスラムでもプロテスタントでもなく、”ユダヤ人”というキーワードが重いのだ。なぜそんなに気にする?まるで別の種、亜種のような扱いに戸惑う。
NHK取材番組を見る。イスラエル人の入植行動、つまりパレスチナの生活圏を武力で侵略する行為について彼らの挙げる根拠は聖書だ。”ここは我らの地だ、聖書にそう書いてある。彼らは侵略者だ、取り戻す。” 政府もそれを支持している。それを信じるのかどうかの判断はどうなのだろうか。ヒトは優勢主義思考を生まれつき持っているのだろうか。それは成長に従い文化によって書き換えられる仕組みなのだろうか。逆なのだろうか。
”ユダヤ人”という言葉が、西欧文化では大きな重みをもっていることに驚く。ユダヤ人の定義をみると、①ユダヤ教を信心している人。②ユダヤ教信者の母を持つこと、となっている。信心が遺伝し教義がヒトの生態に組み込まれているとは想わないだろう。しかしそうであるような表現をあちこちで見て、西欧世界ではそれは常識。アジア人との乖離なのだろうと想う。
2022年公開の映画、”クリエーター” が好き。西欧圏の人類からAIロボットを駆逐する政策と、AIロボットが新しい種としてヒトと共生していく政策のニューアジアとの戦争を描く。圧倒的な武力で西欧圏はニューアジア拠点とAIロボットを駆逐していく。映画での”クリエーター”とは新兵器で子供型のAIロボット。能力は、機械(武器)の動きを停止する力を備える。映画内でのニューアジアの本拠がチベット山岳地のチベット仏教の寺院というのも違和感が無くて良い。
私たちはどこまで柔軟で、あるいはどこまで事に固執するのか解らない。人それぞれ、という表現が良いのかも知れない。一人の理解の幅は狭く、隣人の多様性はそれをはるかに超えている。私たちは誰とでも仲良くできる。血族を超えて家族を作る。種を超えてペットを迎える。音や音楽に熱中し抽象的なアイドルを追う。絵や造形にあるったけの財を投じる、同じように、AIやロボットとも心を通わすことだろう。
先日セミナーに誘われた。不可解な熱狂に触れた。
セミナーは結果的には、天然水の販売代理店の勧誘だった。100万円ほどで販売権を買うと、関連会社の水素燃料事業会社の未上場株を、お礼にいただけるという話。上場すれば億単位の値が付くという説明。
内容は宗教では無いけれど、その場の雰囲気は、教主と信者との絶対的な関係を感じられてて不思議な空間だった。壇上での説明は明確でよどみなく、力強く自信にあふれて、大きな飛躍も無く着実な順路で、壇上の絵と写真、数値や図表、新聞記事やニュース画面を巡って行く。違和感は、要所要所で聴衆から賛美と歓喜の声、拍手が湧くのだ。前の席には新規出席者、これは圧倒されて話を聞いている。後ろには紹介者である既存契約者が居る。かれらは打ち合わせたように(おそらく)声を掛ける。あたかもあやふやな数値と記号に纏う霧を払拭するかのような感覚。”信じるモノは救われるぞ”と言われているような感覚。
経済の話しをすると、この会社は言葉だけで数十億の収益を生んでいるだろう。需要と供給に相互理解が有れば経済として成っていく。信じるかどうかはあなた次第、なのだ。
熱い言葉の扱いに長けている人が居て、快く動かされる人がいる。それは個人が選択するもので尊重されるべきだとおもう。その人の根拠にどんな物語があろうと、異を唱える根拠こそどこにも無い。