佐原秀樹選手の引退に思う(2010/12/8付)
記事の初公開日:2010年 12月 08日
「もう身体ばボロボロで、最良の状態を保ちつづけるのが難しくなった」という言葉で、好きなサッカー選手がまたひとり引退する。
佐原秀樹選手。
川崎フロンターレのDF。
中村俊輔選手と同じ歳の32歳。
全国高校サッカー選手権に出たいという理由でマリノスユースを蹴って桐光学園に入り、3年生でキャプテンとして全国高校サッカー選手権の決勝を闘い準優勝になった。チームメイトには中村俊輔がいた。相手チーム市立船橋には、北島秀朗(柏レイソル)や中村直志(グランパス)がいた。
富士通のチームをベースに川崎フロンターレが創設した年に新人選手で川崎フロンターレに入団し、今ではフロンターレの創設時から在籍する最後の選手となっていた。
まだ俊輔がマリノスにいるころ、「フロンターレに背が高くてすごーくキュートな選手がいるよ。ジャニーズ系。」と風のうわさが流れていた。(最近あるサイトでその頃の写真を見たが、本当にかわいい。当時を生で見た人達に嫉妬をおぼえるほど)
ブラジルチームに短期留学したり大怪我が続いたりでなかなか先発選手として定着できなかったが、DFとし身体をはった激しいプレーで先発にけが人が出た時や得点を守って試合を終えるときなどに投入されてその役割を果たしてきた選手。ついでに、イエローカード、レッドカードゲッターとして、ややお荷物的にフロンターレサポーターからブログなどで叩かれることも多かったが、根っこは愛されていたんだと思っている。
彼に大きな転機が訪れたのは、2007年シーズンのちょうど今頃。
29歳の彼にFC東京へのレンタル移籍が言渡された。
おそらくその裏は、レンタル移籍か、そのシーズン終了後の引退かの二者選択だったのだろう。川崎フロンターレ一途、自分こそが川崎フロンターレの歴史との自負もあっただろうから、迷ったはずだし、30歳を前にして初めて他チームに行くのは心細かっただろう。
迷った末に、FC東京へのレンタル移籍を決めた。
誰一人知り合い選手もいないFC東京に合流した最初のころは「新入生みたいだった」と他の選手から言われるほど、心細い思いをしていた背番号3。しかしシーズンが始まり数試合後にはセンターバックに定着し、FC東京サポーターから「佐原東京に家を買え!」「佐原借りパク」などのゲーフラが上がり、「佐原強奪計画」「サラサラヘアの佐原さん」なんてタイトルでFC東京サポーターのブログをにぎわすようになってくる。
とにかく、ナビスコのベルディ戦や古巣フロンターレとの多摩川クラシコなど因縁のあるゲームで熱いファイトを見せ、得点などの活躍をして、FC東京サポーターの心を鷲づかみにしていくし、ファンサービスでもやさしくていねいな対応で子供や女性達多くのファンを獲得していったようだ。
2008年シーズンの夏ごろには、FC東京の人気者になっていた。
俊輔ファンでJリーグではサンフレッチェ広島ファンの私が,08,09年シーズンはFC東京のゲームをほとんどTVで録画してでも見たくらいだから、このときのFC東京と佐原選手は本当に魅力的だった。
ヴェルディ戦でヘッドで得点し、サポーター前で自分の背番号を両手で指し示した姿、多摩川クラシコでキャプテンマークを付けて古巣と戦った姿は、いまでもしっかりと目にやきついている。
09シーズンには、ナビスコ杯決勝で古巣と闘い優勝。複雑な気持ちと言いながらも誇らしくカップを持ち上げた佐原選手は、FC東京への完全移籍も提示されたようだが、「残念だけど、FC東京が好きになってしまいました!」という名言を残して、古巣の川崎フロンターレに帰ることを選んだ。
FC東京のサポーターたちは、残念に思いながらも、気持ちよく佐原選手を送り出してくれた。知り合いの女性サポーターは、「残念だけど、やっぱり佐原さんの川崎愛には勝てない。来シーズンは、いち佐原ファンとして麻生に行って激励する」と言っていたが、本当に何度か麻生を訪問して佐原選手と会ってきたようだ。FC東京の時と、まったく変わらなかったと喜んでいた。
古巣での今シーズンは2月の故障が長引き、リーグ戦7試合、カップ戦など2試合の出場にとどまった。そして引退を決めたようだ。
佐原秀樹選手の引退のコメントが川崎フロンターレオフシャルサイトに掲載されていた。
http://www.frontale.co.jp/info/2010/1207_5.html
サッカー選手としては決して満足のいく選手生活ではなかっただろうが、それでもすがすがしい気持ちで選手生活に終止符を打つことができたという感じがそのコメントには表れてた。
愛する川崎フロンターレと同じくらいFC東京にチーム愛と感謝の気持ちをもっていることを最後のコメントにきちんと残していることも、このコメントが佐原秀樹の正直な本心であり、彼がしなやかで温かい心の持ち主であることを物語っている。
ベテランと呼ばれる時期に言渡された期限付き移籍という転機。
それを受け入れて、その先で新しい自信とファンを獲得できたのも、そのバックボーンに佐原選手と古巣川崎フロンターレの間にお互いへの愛と信頼があったからだと思う。
フロンターレは、佐原への尊敬の念を込めて、彼の背番号3番を2年間誰にも渡さず空き番号のまま守っていてくれた。
その気持ちに応えて、タイトルホルダーとして帰還しその3番を付けた佐原選手だった。
チームと選手の信頼関係やベテラン選手への尊敬の気持ちの表し方の1つとして、とても気持ちのいいものを見せてもらったと、佐原選手の引退をきっかけにこのことを思い出している。
佐原秀樹選手、あなたのプレーが見られなくなるのは本当に残念です。
選手じゃなくなったあなたがどのように生きるのか、それすらも見続けたいと強く思っている自分が、かなりの佐原ファンだったのだと改めて実感し、ちょっと気恥ずかしくなっています。
いまは、憧れの子が遠くに転校してしまい、取り残された小学生のような気持ちです。
佐原秀樹選手の3番よりも、おそらくずっと重い3番が、空き番号になろうとしている横浜Fマリノス。
この3番をどのように扱うのか…。
松田直樹選手のマリノス愛と同等のものをクラブはまだ示していないような気がする。
松田選手の選手生活は今後も続くようだが、いつか彼が引退する時、佐原選手のようなすがすがしい気持ちで、マリノスへの感謝を口にできるような「何か」を、松田選手はまだ受け取っていないと思う。