虫も殺せない男

年をとり、僕は虫一匹殺せない人間になった。
そう書くと善人と思われ、以前の僕なら嫌悪を感じたものだが。

人間年をとると、小さな命に思いをはせるようになるものだ。
虫にも人と同じく生命が宿り、まっとうして他界することを考えると、むしろ逆に、人の命ですら、ほんらいは虫けら程度の価値しかないのではないかと考えるようになり、なんとなく虫一匹殺せない人となった。

ゆうべ飲みかけの冷えたコーヒーの水面に小さな羽虫が浮かんでいた。

まだ息があった。

僕はティッシュをこよりのように細く伸ばして羽虫を救い上げ、テーブルの上にぽとりと落とそうと試みた。
しかし人間スケールで考えたそのアイディアはあさはかだった。

虫は濡れたティッシュペーパーに羽根がくっついて離れない様子で、どうにもならずもがいていた。
そのうちぺりりとはがれるだろうと高をくくって放置していたら、しだいに乾燥してきて、ほとんど同化して大変な状態になった。


小さな羽虫にとって水は脅威である。
水に接触すると表面張力によってとらえられる。

虫の気持ちになって思いやることの難しさを知ることとなった。


何か細いもので手助けを出来ないかと、シャープペンシルの芯を伸ばして羽虫の体の下に差し入れて持ち上げようとするが羽根がすでにがちがちに付着していてはがれない。
無理に力でやろうとすると羽根ごと羽虫の体からもげてしまいそうであった。小さな羽虫にとって人の力は強大である。

ようやくテーブルの上にぽとりと落ちた羽虫は、無事なのかどうかわからなかった。
弱く動いていたが、羽根がこれまで通り動かせるかどうかわからなかった。

羽虫はいつの間にかテーブルから消え、テーブルの下を確認しても落ちたのかどうかすらわからなかった。

(了)

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