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泥棒と猫

時刻は、20:00。
夜の8時である。

妻の小さな悲鳴を聞いたような気がして、
夫は、一階へ向かった。

妻が、開いたベランダから侵入してきた一人のおっさんと向き合っていた。

夫が言った。
「なんですか?」

おっさんは、ジャンパーの中から包丁を取り出して右手に持った。

妻と夫、そしておっさんの三人は、
しばらくの間、にらみ合った。

「か、かぁ…カネ」

夫には、「金」と言ったように聞こえた。

妻は、その発音から外国人の可能性も疑った。
だが顔は日本人だった。
緊張から噛んだり、発音がおかしかったりするのかも知れない、と思った。

夫は、棚のかげからナイフを取り出した。
自然な動きであった。

夫は、こういう時のために、家じゅうの部屋ごとに、
通信販売で集めたナイフを隠し置いていたのだ。

妻は、夫がいきなりナイフを取り出したことに驚いた。
そして、やめて欲しいと思った。
おとなしくお金を渡して帰ってもらえばいいのに、と。

なにも家じゅうの現金を持ってこいと言ってる訳じゃない。
今のところは、だが。

それに、この家に現金など少額しかない。
自分と夫のサイフにお札がほんの少し、小銭が少々、そんなところだ。

夫は、ズボンのポケットから茶色い革のサイフを取り出した。
そして、一万円札をサイフから出す。

「一万円やるから、帰ってくれ」

強盗に言葉はない。

「どっちか選べ」

と夫。
何と何を? という顔の強盗。

「この一万円を持って出ていくか、ここで殺し合いをするか、選べ」

妻は思った。
この人、マジか。

「…勝てると思ってんのか」
強盗が、くぐもったような声でしゃべった。
夫はひるんだ。

だが悟られてはならない。
この駆け引きに負けたら、きっと大変なことになる。

「さあ、どうかな。
 でも、あんたが俺を刺す間に、
 あんたは確実に体のどこかを刺されるぞ」と夫。

「それは首かもしれないし、
 どこか太い血管がある場所かもしれないし…」

追い詰める。

「金に困ってるから、こういう事したんだろ?
 ひょっとしたら保険証も持ってないんじゃないのか?」

夫はしゃべり続ける。

強盗は表情を変えずにじっと夫の話を聴いている。
無表情だった。
だが妻には、
怒りか、あるいは、いらだちの感情が少し見えた気がした。

「俺は、刺されたら病院に行く。
 あんなたは病院に行けるの?
 こ…国民健康保険とか入ってんの?」

「………」

強盗は無言である。

「じゃあ一万円もらって帰った方がいいんじゃない?」
妻も加勢する。

ベランダは、開いたままである。
逃げ道は、確保されている。
強盗は、考える。

妻は思った。
包丁を持って強盗をするという、
愚かな方法をとってしまったこの強盗に、
果たして合理的な判断ができるだろうか。

このままでは事態は動かない。

強盗が、意を決して夫に飛びかかってくるかもしれない。
そんな時の行動は、突然で、機敏だ。
防ぎきれないかも知れない。

妻にひらめきが訪れた。

妻は、着ていたカーディガンのポケットに右手を入れ、前に突き出した。
そして透き通る声で言った。


「わ、わたしは、 拳銃をもっている!」


空気が固まった。

「嘘です。すいません」

妻は、真っ赤になり、撤回した。

夫は、何事もなかったかのように、
左手に一万円札、右手にナイフを持って、
強盗との距離をじりじりと詰める。

「さあ、これを持って、帰ってください」

一万円札を持った左手を目いっぱい伸ばして。

強盗は、一万円札を受け取った。
夫婦は、ほっとした。

強盗は、これで何日分のエサが買えるか
瞬時に暗算した。


       ×       ×       ×


強盗のおっさんには、養うべき家族がいた。
子猫のミーだ。

猫の飼育には金がかかる。

最初は、ダンボール箱の中に、
短冊状に切った新聞紙を大量に入れて、
そこに尿や便をさせようとした。

しかし、
尿は新聞紙にしみこみ、ひどく匂った。

一晩も置くと、ぐっちょぐちょの濡れた新聞紙のかたまりになった。

それにトイレ自体がダンボール箱なので、
尿が染み込んで黒く変色し、
トイレとは呼べない物になってしまった。

おっさんが子供の頃は、
そのようにして猫を飼っていた記憶があったのだが、
思い違いだったのだろうか。

おっさんは、ペットショップで猫用のトイレとトイレの砂を購入した。

同時に、猫のエサ用の皿と、飲み水用の皿を購入した。
そして同時に、目についた猫じゃらしもひとつ購入した。

猫用のものは、総じて高い。
低賃金労働者のおっさんには厳しかった。


動物を育てるのは楽しい。
生活に張り合いが出る。
おっさんは、猫のために働いた。

資格もなく、技術もなかったが、下働きのような仕事をもらって
毎日働いた。

遠方の仕事のときは、一日じゅう家を空けた。
帰宅が深夜をまわることもあった。

そんな時は、エサを大量に皿に出しておいて対処した。

おっさんは、仕事に慣れてくるにつれ、
会社に対して、意見や要求をするようになった。

仲間ができて、トラブルが増えた。

もともと人と関わるのは得意なほうではなかったのだ。

ある日、会社で大喧嘩し、
止めに入った上司の腹に、膝蹴りを食らわせて大問題になった。

結局、会社を辞めることになった。

収入がなくなっても、猫には金がかかった。

アパートの部屋は一階だったので、
窓を開けっ放しにして、外に出るよううながした。
最初は、外に出るのを警戒していたミーも、
しだいに探検するようになっていった。

最終的に野良猫になって、
どこかの誰かの家にころがりこんでくれないかと期待していた。
そうすれば、金もかからない。

だがミーは、おっさんの部屋から離れなかった。

ミーは、外に出たまま帰ってこない夜もあったが、
それでも野良猫や、他の家の猫になることはなかった。


おっさんには、泥棒になるという方法しか思いつかなかった。

       ×       ×       ×


一万円を受け取ったおっさんだったが、
そのまま家を出ようとは思わなかった。

「この家には、まだ金がある」

キャッシュレス時代だが、
一万円しかないとは思えなかった。

「まだあるだろう。
 そのサイフの中身、ぜんぶ出せ」

「え…」

夫は、迷った。
ここで引いてはいけない。
これ以上はダメだと突っぱねるべきか。

しかし、
殺し合いか、金を出すか、二択の場合、
その金額は一万円で妥当なのだろうか。

考えている夫に、おっさんは言った。
「殺し合いか、金を出すか、てんびんにかけてんだぞ。
 金額が釣り合わねえ」

考えてることと同じことを言われた。
確かにそうかも知れない。
夫は思った。

「わ、わかった」
夫は、サイフの中の札をすべて取り出して
震える手で、じゅうたんの上に置いた。

一万円札が三枚と、千円札が5枚ほどあった。

おっさんは、それを拾い、ずぼんのポケットにねじ入れた。

その時、聴きなれた声が聞こえた。

「みー」

開いたベランダの窓から、一匹の子猫が入ってきていた。
ミーだった。
おっさんは、
ミーの活動テリトリー内の家に強盗に入ってしまったのだ。

「シマちゃん、だめ! こっちおいで!」

妻が自分の子を守るようにヒステリックに子猫を呼んだ。

ミーは、おっさんの目をじっと見上げていた。
なぜおっさんがこの家にいるのが不思議だと、
その目は言っていた。

おっさんは、涙しそうになった。

もっと離れた場所で、盗みに入るべきだった!
おっさんは、激しく後悔したが遅かった。

おっさんは、左手で、子猫を抱き上げた。

「ああああ! シマちゃああん!」

妻はもう、半狂乱になっている。
よほど子猫を可愛がっていたのだろう。
そして、間違いなく、
自分の家の猫になってもらいたいと願っている。

おっさんは、ほっとすると同時に、
自分が、
何のために犯罪をおかしているのかわからなくなった。


「よし、俺は帰る」

おっさんは、若い夫婦に宣言するように言った。

「待ってええ! シマちゃんを、猫を置いてって!」

妻は、今にも強盗に飛びかかって素手で殺しそうな勢いで叫んだ。

「わかったよ。 可愛がってやれ」

おっさんは、子猫を足元に置いた。

ミーは、一瞬、頭をおっさんの足にこすりつけたあと、
夫婦の元へ歩いた。

       ×       ×       ×

テレビのニュース番組にて。

「昨日、午後8時ごろ、東京都杉並区の住宅に包丁を持った男が侵入し、三万五千円を奪って逃げました。男は犯行現場から最も近いとんかつ屋で、ロースカツ定食を食べているところを発見され、逮捕されました。なお、けが人はいませんでした」


(了)

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