人生は神ゲー?クソゲー?
今日も隔週で行われている読書会があった。今回も自分がトンチンカンなことを言って流れを止めてしまったと反省している次第。
今回は「回向」(えこう)というものがメインとなった。
回向とは、転換・変化・変身を意味する言葉で、自分が積み重ねてきたことについて無駄であったと気がつけるかどうか? みたいなことだった。気がする。
自分でもよく分かっていないしこれは聞かれても「もう調べてくれ」としか言えないくらい今でも分からない。
インド的な考え方における回向とは、「消化」することなんだそうだ。
何かを食べることで力が出たとしても、元々食べたモノに力があったわけではない。何かを消化し自分の中で吸収し還元することが回向なのだそうな。
他にも沢山話を聞かせてもらっていた中で、最後の方に「やっぱり人生はゲーム」という意見があった。
これについては前回の読書会の感想を書いたnoteの記事を読んでもらうと理解しやすくなるかもしれない。
一応リンクを貼っておきます。
読んでない人に向けてざっくり抜き出すと、「善悪ってそもそもが虚構であり、自分たちはあくまでも民主主義のゲームの中に生きている。そこでゲームルールにそぐわないプレイをするものが排除され続けているだけなのかもしれない」ということ。
この意見に別の方が反論した。
「いやいや、人生は人生だ。リセット効かないもの」
「じゃあゲーム的要素がないことを証明するには?」
「そもそものゲーム自体が人生の模倣だ」
「だからその中におけるゲーム性は?」
ー以下略ー
この最初に人生はゲームだと言った方に聞いてみた。
「前回もそんな感じのことを言われてたけど今発言している自分自身はゲームの中にいるのか、それともその自分を俯瞰している状況なのか?」という質問をした。
それについてはこんな答えが返ってくる。
「ルールがあればそれはゲームなんだ。でもルールは真実ではない場合が時としてある」
その例がこんなものだった。
・働けばお金がもらえる
その人はこれについておかしいと言っていた。
働かなければお金が得られない。じゃあその働くことのコマンドを実行するにはまた別のルールが絡む。
結局生きる中でルールが存在する以上それはもうゲームなのではないか?
という意見。
となるとここで生まれたのが「じゃあ人生は神ゲー?クソゲー?」問題。
昔「人生は神ゲー。グラフィックも最高で選択肢も無限、エンディングも分岐し続けるしキャラクターやイベントの数も無限…」みたいな文章が流行った。気がする。少なくとも自分の周りではそうだった。
でも今はどうか?
「リセット出来ない状況でスタートしてある程度手札や環境は決まっているし成長するまではそれを変えることは出来ない。起こるイベントは大抵理不尽だしアバターである自分自身の容姿などもいじることは難しい。エンディングは死ぬまで迎えることが出来ない…」
ならもうこれクソゲーではないか??
そのクソゲーでもルールの範疇を超えた行動をすれば社会にBANされかねない。出る杭は打たれるの意味は「出過ぎた行動をすれば運営によって修正されてしまう」ことに変わっていくのかもしれない。
となると大富豪のルールに革命というものがあった。それは特定の数字やマーク?を揃えるとそのゲーム中の身分の強さが入れ替わるというもの。
特定条件下でしかそんな大逆転が許されないのに現実でそれが許されるはずがない。
そう考えたら最近の人の人生ゲームの過ごし方は随分と多様化しているように見受けられる。
ガンガンいこうぜの精神でプレイングを進める人、最初からステータスを上げていく人、まったりプレイのエンジョイ勢…
このエンジョイ勢の割合が社会においてどれだけの割合でいるのかが気になる。
仮にこのエンジョイ勢が増えれば増えるほど社会は停滞するのではないだろうか?
どうぶつの森みたいな自分のペースでするゲームも今のその人生感にマッチしているようにも感じる。自分の好きな生活を疑似体験するある意味箱庭構築ゲーム、確かに流行るわけだ。
今の世の中でどれだけガンガンいこうぜの人がいて、ルールの裏をついたトリッキーなプレイングをする人がいて、そしてそれらを上手く制御するゲームマスターがいるのか。
この割合によって当事者らの人生ゲームに対する評価は変わるのだろう。
まぁでも大抵の人は自分の人生に納得か諦めをしているだろうからクソゲーだと言う人の方が多い気もする。分からないけど。