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I+E=M(運は省くものとする)

『無理ゲー社会』を読み終わった。自由主義へと進んでいるこの社会においては自己責任という前提条件のもと自由に生きる権利が付与され続ける。

タイトルにもしていた「I+E=M」の公式はそれらを端的に表したものとなる。

「I」はIntelligence、「E」はEffort、「M」はMeritを指し、日本語で書くなら「知能+努力」によって客観的な能力を測ることが可能になるということだ。

メリトクラシー、能力主義はメリットを支配者とするための社会制度である。

例えば元々の知能に勉強をするという努力をすることによっていい大学に入り、学歴を手に入れる。これは目に見える形のメリットとなるだろう。

ただ、これの問題は「全ての人に公平に機会があるのだから生まれ持っている環境や障害があろうと努力をしないのは怠慢」みたいなバイアスがかかったり、「お金を持っていることは努力をしたからであって貧しいのは本人が怠慢だからだ」みたいな自己責任論がまかり通ってしまうことがあげられる。

この能力主義が受け入れられている別の言葉に「アメリカンドリーム」なるものがあるし、それはなんともどうにもならない。

この能力主義を推しているのがインテリ層である能力主義によって自らの資産価値を向上し続けることが可能な人たちなのがなんとも面白い。

そしてもっと面白かったのが、こういった能力主義推進派たちは運の要素を除外しているということだった。

今ここにいるのは何かしらの運が良いからだ、という前提条件を抜いて「全部自分が頑張ったから」とするのはどうにもアンフェアな気がしてならない。

多分このI+E=Mを考えるにあたってもおそらく本人以外知ることのないEを無視してしまうかもしれないというバイアスがかかるのもなんとも怖く、このメリトクラシーの考え方はなんとも難しい。

サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』という本を去年買ってからその分厚さに尻込みしてまだ手をつけられていない。

このサンデル曰く、メリトクラシーを止めるには運に全てを置換することによって達成される。らしい。例えば大学の受験をするにあたって、そもそもの受験を廃止して全員を抽選で決めるようにすれば教育を受ける機会は平等に分配される。

でもそれだと大学における本質である学びを求める人にとっては自らのIとMを否定されるに等しくなってしまう。

さらに、この平等と公平を保つ強引なやり方を押し進めると学校のテストだって「そのクラスの授業を真面目に聞いてきたのだからだれだって満点を取ってもおかしくない」といった理屈でクラスの人たちの点数を乱数で決めることだってまかり通る。

なんならオリンピックとかも決勝クラスに出る選手なら誰が金メダルでもおかしくない。としてくじ引きで金メダルを決めることだって問題ない。

問題しかないだろう。と考えた人はきっと平等と公平の意味をそれぞれ理解している人だ。

この本では最初に「平等」と「公平」の意味をそれぞれ整理されている。

平等は結果平等であり、公平は機会平等を指していた。

範囲も日時も採点基準も全部平等に設定して行うテストは「公平」だ。

その結果において赤点を取る学生と満点を取る学生における点差をなくすことが「平等」となる。

おてて繋いでゴールする徒競争は平等であり公平だ。

だが、果たして公平な条件で赤点の人間と満点の人間を同じものとみなすのが平等となると話が違ってくる。

それこそが能力主義であり、そのテストにどれだけ努力したかが問われるものが公平なテストだろう。

平等なテストは存在しない。してはならない。

赤点を取るかもしれない知能が乏しい学生に向けた簡単なテストと普通に点数を取れる学生に本来のテストを課し、その結果を同じものとして扱うのはアンフェアだ。

欠けているところを埋める形で本来の生活に近づけるのが平等であって、それらはある意味公平な状況で行われている。

平等と公平を分けて考えると少しスッキリした。

そして、結果としてどれだけのトラブルが起こっても今の社会においては全員が平等になることは絶対にない。

所得が低い要因が教育を受けなかった、あるいは受けられなかった人の生涯年収を数ヶ月で稼ぐ大富豪は不公平なのか?

戦争や革命、崩壊に疫病の四騎士によって世界的に平等が付与されたって今の社会のバランスが変動することはおそらくないだろう。

金持ちはどこまでも金持ちだし、それこそ貧しい人は欠けている「I:知能」を見つめ直し、既にやり尽くしている「E:努力」を続けなければならない。

そして怖いことに、その金持ちはそれよりもはるかに整った環境で有り余るバイタリティの伴う知能をフル回転して努力し続けるので結果としてその溝が埋まることはないだろう。

富める人たちからすれば圧倒的に有利なつるかめ算が続き、貧しい人たちからすれば先の見えないゴールへ走り続ける地獄のフルフルフルマラソンが続く。

少しでもその差を縮めんとこうやって本を読んでいる自分は一体どの位置にいるのだろうか。そんなことをふと考える。

この無理ゲーの社会で安楽死や尊厳死を求めるということはリベラリズムになるのか、それともメリトクラシーになるのか、はたまたメリトクラシーによって構成されているリベラリズムなのか。

揺らぎ続ける公平な社会で、平等に与えられている機会で生きるのは意外と難しそうで、そして面白そう。ある意味希望にも似た感想を抱くことができた。

そんなことをこの前風呂に入りながら「は〜!なるほどね!!」としみじみ呟いてました。面白かったです。

この橘さんが書いている他の本もこの平等な社会でどうアナーキーに生きるか?みたいなところについて触れられているので今度心に余裕があるときに読もうと思っている。いつになったら読めるだろうか。そうしてまた架空の積み読ストックが増えていく。読まなければ。

そんなわけで今日はこの辺で終わります。

ではまた明日。おやすみなさい。


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