究極の合理的は自己中なのかも
論理にかない、因習や慣習に囚われない。様々な知識をもとに最適な行動をとることが合理であるとするのなら、この世からあらゆる娯楽は消えるはず。
そんなことをこの前どこかで読んだ。
少なくとも内蔵や脳、血液を悪くさせる酒や煙草は消え去るはずなのに、それがどうしたことか消えているわけではない。
ご飯だって極論だけど完全栄養食を毎日食べていれば生きるには困らない。
それでもなぜか毎日ご飯を作ったり食べたりするし、美味いものは美味い。
合理的であると判断するには相応の知識や教養が必要なのかもしれないけど、雑に合理的ではない物事を吸収しないとそれも成立しない。
合理的とは何かを考え始めると哲学は暇な人間が行き着く学問だと常々感じてしまう。
答えのない事象をそこまでして考えた古代の賢人たちはどんな生活を送っていたのだろうか。
自分の都合を推すために知識が必要なのか、それとも自分を守るために知識がいるのか。昨日の反省が言い訳かもしれないと考えだすとこんなことになってしまった。
自己中であり、世界に中指を立て、社会に口答えをする虚勢を張るためだけにこれからも無駄な教養をむさぼり続けるのかもしれない。
気づいたら土曜日が終わりそうになっている。
とりあえず働いて、帰ったらレポートを書こう。
今月でとりあえずバイトの日を減らそう。心からそう考えているけれど、果たしてどうなることやら。
そんなわけでちょっとバイト行ってきます。
昨日みたいに0時5分前投稿みたいなのはあまりやりたくないからなんとかお昼に書けた。偉いぞ自分。
ではまた明日。ぼちぼちAmazonで買った本が届きそうなのでそれもまた報告します。