違和感から分子的な思考へ
昨年、美濃市で行われた地域事業創出プログラムUDATSUBITOに参加し、自分なりの活動(美濃ぐるぐるラボ:詳細は別の機会に)を提案してから、行動に移そうとする中で、私はモノを作る、プロダクトを作る、何かをこしらえる発想に終始してしまいがちなところに違和感を感じていました(普段の仕事はグラフィックデザイナーで生み出す側ですから自然な考えではあります)。
ただ、今回、グラフィックデザイナーと言う肩書きを"一旦、置いて"参加したい想いがありました。自分の既得権を手放した時、どんな考えや行動になるのかにも関心があったためです。
そうして発表した企画そのものはある意味、意図通りに、私の普段の職域から外れた興味関心の高い内容になりました。
ですが、いざ活動内容を行動に移してみようとすると、デザイン的にかっこいいか?お金に結びつくのか?クオリティは?活動の持続性は?といった普段も割と考えているような思考に陥りました。
このまま「えいっ!」と始めることもできたと思いますが、何かを"こしらえる"ことへの違和感が拭えない。その感じている違和感こそが、今後のテーマの大きな部分を占める気がしました。
一度、パソコンのプログラムを書き換えるように、頭の中に出来上がった思考の癖を変えるように、何かをつくるようなことをやめて私が今やろうとしている事は一体何なのか?その輪郭を掴むために、まずは関係しそうな本を読んでみることにしました。
色々と読んでいく中で、特に下記の書籍は、共感・学びの多いものでしたし、感じていた違和感を整理するのにとても助けになりました。
細かな内容の紹介はまた別の機会にするとして、モヤモヤとしていた私の活動に、ある種、背骨となってくれるような内容でした。
・コモンズ(共通財)としての都市
・近接のデザイン
・距離の都市と近接の都市(ケアのある都市)
・ローカル(オープンで接続性のある固有の特徴を持った場所や人)
このローカル(地域という意味ではなく)という言葉を現在の視点であらためて捉えると、非連続だからこそ、個人のレベルでも生成されるデザインが起こっていくのではないかと感じました(もう既に起こっていて、気づいていないだけなのかもしれない)。そう考えた時、非連続とは私の中では、以前に美濃市にある物置と化していた元銭湯を、UDATSUBITOの皆さんで掃除をした際にも感じた「場所(存在)の分断」とも重なり、そうした一見、時代に取り残された場所は、ネガティブな"課題"ではなく、ポジティブな"要素"にも思えてきます。
既存の文化的・社会技術的システムから非連続となった中で、
ローカルである、場所や私たちは何ができるか?
ネットと物理的な距離が共存する環境で、どう暮らしを紡いでいくのか、興味はますます深まります。
また、『クリエイティブデモクラシー』では、マンズィーニが草の根的な活動と政策決定者との関係性にも触れている部分がありました。
誰もが "私たちによるデザイン" をするようになった時、またそれが、草の根の活動に終始しない場合に、手助けになるような視点だと感じます。
誰もがデザインする世界も変容してるいように感じています。
サービスなりプロダクトを提供(共有)する時、これまでユーザーと呼ばれていた存在もまた、作り手と見ることができるといったことなのだろうと想像しています(マンズィーニがデザインが起こる場を「ダンスフロア」、関係する人々を「アクター」と比喩するように)。
そうした時、どのようなデザインがあるのか?
どのような質なのか?
私自身、小さな分子として活動を続ける中で、
観察もしていきたいと思います。
UDATSUBITO第二期の情報は下記
9/14(土)14:00〜 に活動共有会もあるそうです!
ご興味のある方は是非。
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