美しい心
相変わらず興味が尽きない「民藝」。
この中になんども出てくるのが
「美しい心がなければ、美しいものは見えないし、作れない」
という考え方。最近、ずっとこれを考えています。
きっかけはやはり静岡。父が居なくなって、母一人は寂しいだろうと、なるべくいつもより多く静岡にいてあげるようにしていくうちに、都会の情報から取り残され、やや、焦りながら大量の雑誌と一緒に、時間だけはありますから、いろんな本を読んだりする。
家はほぼ森の中で、晴れた日なんかは最高で、そんな中にいると、焦りと同時に、どことなく心が澄んでくるのが感じられます。
気分が少し和らいで、そうすると普段、気づかなかった木の芽吹きや、鳥の声などに気持ちが向くようになる。
ふと、思ったのです。
そうか、オーケストラをホールで聴いたり、アートを観るってそういうことか、と。
美しいものは、説明ができません。
言葉になかなか表せられない。
でも、美しい心を持った人による美しいものは、なんとなく伝わってくる。
しかし、それもやはり「美しい心」を持っていないと感じることができません。
昔、ある人が「感動するには、お金がかかるんだ」と言っていました。
その時はよくわかりませんでしたが、要するに、時間とお金を使って、いろんな美しいものを見たり、聴いたりしなければ、響く心を自分の中に備えられない。
いくら情報として詳しくても、また、誰かの感動を引用して格好つけたとしても、自分の心が感じなければ、意味がない。静岡にいて、いろんな焦りや欲から少し解放されてそう感じました。
美しい心をまず、手に入れましょう。
そうすると、美しいものやこと、音が聞こえてくると思います。
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ナガオカケンメイの考え
あの「ナガオカケンメイの考え」の続編です。基本的に怒っています。笑なんなんだょ!!って思って書いています。
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