細かいこと、大きなこと
僕は「校正」が大嫌いだ。自分が吐き出すように書いた文章を直されること。
それは走っている最中に「走り方が良くない」と言われているようなことで、その直したい人には「走っている」ということへの理解というか、思考がない。
時間は存在しないとする考えもありますが、僕は全てにおいて「時間」の上に自分はあると思っている。
もちろん、「時間を無駄にするな」という気持ちはなくて、
ちゃんと意識して時間は使おう、という考え。自覚して怠ける時間というのも、いい。この同時代に生きているということへの意識。
僕の文章は作品ではないし、完璧を目指している暇はない。間違えが残っても何ら問題ない。なぜなら、そうやって僕は時間を使い、生きていたから。
一度書いた文章を直しても、僕には何にも価値を感じない。
それは、ただ、「正しくなった」だけで、そんなことは目指していない。
過去に何回も連載が終わり、出版企画が止まったことがある。
僕の文章を直そうとする担当者とぶつかるからだ。
彼らは仕事として、出版社、新聞社を背負っている。一つ一つの関係で書かれたものの積み重ねで、彼らの企業としての価値や質は作られている。それはわかる。
結論。僕は「文章としての正しさ」を生業とする企業の依頼には向かない。
僕は、句読点を好きなだけ打つ。これは編集者の石黒謙吾さんから学んだ勇気である。ずっと国語が1だった僕に「文書を書く自由」を教えてくれた恩人だ。
彼の教えによって、僕は国語や作文のルールから解き放たれ、それを自己表現としてもいい、と、意識できた。それから僕は常識的、つまり「読めてわかる」文章の世界を意識しながら、自分のやり方を突き詰めている。
今書いているこうした文章が、まだまだ解き放たれていないということも自覚している。まだ、まだ、ただの文章だ。誰かにわかりやすく読んで理解してもらおうとする邪念がある。
石黒さんと作った「ナガオカケンメイの考え」(新潮社)は、とにかく読みづらい。
何を言いたいかが、わかりにくい。ただ、これほど僕らしい文章はない。
おそらく、石黒さんが新潮社の担当者といちいち、戦ってくれたからできたと思う。「ご指摘はわかりますが、ここを直すと彼じゃなくなります」と。
僕はライターではない。
散々直されて、喧嘩になった時に僕が吐き捨てるいつもの言葉。僕はわかりやすく、誰もが同じように捉えやすい文章を書くつもりは毛頭ない。誤字すら、僕だ。
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ナガオカケンメイの考え
あの「ナガオカケンメイの考え」の続編です。基本的に怒っています。笑なんなんだょ!!って思って書いています。
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