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史上初の純粋テニス映画『チャレンジャーズ』が動体視力の果てに見た永遠の運動、あるいは人間の狂気について

ルカ・グァダニーノ新作にゼンデイヤ主演、かなりエンタメ寄りのトランスなアッパー映画だという前評判、目に映る範囲では口コミもかなり良さそうだったのに、日本ではおぞましいほど興行振るわず、スクリーン数もあっという間に減少し、スポーツ映画は当たらないのジンクスを多少考慮したとしても、いよいよ日本の洋画配給の危機的状況を感じずにはいられない今日この頃。かくいう私も昨年の第一子誕生以降ほとんど映画館に行く機会はなく、本作もついぞ劇場で観ることはかなわなかったので、なにも言う資格はないのだけど…。

肝心の内容については、ごめんなさい。
一応中学から大学まで細く長くテニスをやってた身から言わせてもらうと、まともに映画としての感想は思いつかないほど、テニス映画として味わい深すぎた。最初に断っておくと、本作はこれまで数多あったテニス選手の人生や恋愛、はたまた天才の苦悩や逆境との闘いについての映画ではない。おそらくは映画史上初、純度100%テニスについて撮っただけの映画なのだ。
映画の中でテニスを正面から描くことの難しさには多々思い当たる節があり、思いつくだけでもこれまで多くの制作陣が敗れ去り、あるいは、最初からコートに入ろうともしてこなかった。彼らが描くのはあくまでテニスの周辺で、それってコート脇のフェンス越しに眺める青春みたいなもの。そこでは、コートはただの幾何学模様で、ラケットはコスプレの小道具、ボールは無作法に跳ね回り、それに振り回される人間はまるで歌舞伎者のよう。こと映像におけるテニスアクションにおいては、たとえ素振りでも、たしかな遠心力と効率的な力学をかけ合わせたそれっぽいフォームを作るのが難しく、さらには、あの速いとも遅いとも優雅とも無骨ともつかない動きのテンポ感を演出するのがかなりのハードルになってきたんじゃなかろうか。(同じラケットスポーツで、ルールも近しい卓球のもつテンポ感と比較するとわかりやすい)
しかし、打つ、打ち返す、の単純極まりないコミュニケーションにともなう駆引と、とてつもない徒労、少なくともその原始的かつ理性的な反復運動に挑まないことには、ネットを挟んだコート上のボクシングはおろか、小さな盤面上に隆起する立体的運動、その諸運動の連綿たる「関係」の真髄に迫るにはほど遠いというもの。

その点本作のプロダクションクオリティ、ユニークで遊戯的な発想、何よりメインである3キャストの並外れた運動神経には心底驚かされた。冒頭、2人の決勝戦の第1セット第1ポイントから、すでに何かが違うと予感するに十分だったけど、極めつけはその後の過去シーン、ゼンデイヤ=タシ・ダンカンの登場後まもなくのウィニングショット。あの頭上に振り抜くフォアハンド…。決まった後のあまりにも様になった咆哮もふくめて、映画であれを見せられたら、競技としてのテニス描写についてはもう何も言うまい。正直フォームだけのルックについて言うならば、現実世界のトップランカーには、もっと我流のヘナチョコフォームの選手が当たり前に存在する。いやはや驚くべき執念、品質管理の賜物だ。

そもそも、ジュニアで名を馳せ、その後3つのグランドスラムを計6回制覇したらしいアート・ドナルドソンという人物像に関しては、正直それがどんなレベルなのか、テニスに馴染みない人にとってはイマイチ想像できないと思うのだけど、ふつうにめちゃくちゃヤバい選手である。今が落ちぶれてようが何だろうが、グランドスラムを複数回獲っている時点で、歴史上数えるほどしかいない名プレイヤーであり伝説級。たとえば現時点で、アメリカ人最後の世界ランク1位プレイヤーとなっているアンディ・ロディックも、劇中チラッと本人の写真が映るけど、グランドスラム制覇はキャリアを通じてUSオープンの一度のみ。それどころか、世界ランクは年単位の加算と更新方式で計算される都合、運良く世界ランク1位になった期間があったとしても、グランドスラム優勝は1度も叶わないまま引退した、なんて選手も歴史上ざらにいる。それくらいテニスという個人競技で、年4回のグランドスラムトーナメントに勝つのは難しいことなのだ。なので、6回優勝のアートはどう考えても超一流選手なのだけど、プレー中はもちろん、コート上での何でもない佇まい、汗の滲む額やうなじ、さりげない所作のひとつひとつまで、しっかりとその風格の名残りを醸し出していたマーク・ファイストと、それを真芯で捉えたカメラにはつくづく舌を巻いた。

一方、アートと並んでジュニアでは成績を残したものの、その後プロ転向してから伸び悩み、グランドスラムは予選に入るのが精一杯という、現実世界の実例に事欠きはしないだろう凡庸な選手、パトリック。正直にいえば、テニスファンとしてより興奮したのは彼の現在の描写のほうかもしれない。何の後ろ盾もない個人事業主であるがゆえにクレジットが使えず、仕方なく大会会場の駐車場で車中泊する。現実そんな選手がいる・いないは別として (多分いる)、この冒頭からのシークエンスが実に素晴らしい。こうなるともう、テニスの実力云々は関係なく、世界ランクを上げていくことなんてどうしたってままならない。世界各地で行われるATPツアー大会で賞金とポイントを稼ぐためには当然、車では簡単に行き来できないような方々を転戦して回らなければならない。しかし彼にフライト移動する金はない。とはいえ、生活のための日銭を得るには遠方の大会にも足を運ぶしかない。結果、無謀な行軍からの車中泊が日常茶飯。いつの時代のどこの紳士のスポーツなのだこれは、という有様。(余談だが、現代テニスが選手に課す過密スケジュールと身体的負担を問題視する声はかねてより多い)
パトリックのこうしたどん詰まりの状況には、実際プロとアマチュアの境目がほとんどなく、テニスの能力以上にメンタルやフィジカル、コーチングなど多岐にわたる自身のケアやマネジメント要素が勝敗を大きく左右し、あるいはチームに所属して契約金やサラリーをもらうようなチームスポーツとも違う、どこまでも孤独なプロテニス選手という職業の悲哀が詰まっている。これを映画の豊かさと言わずしてなんというのか。
アマチュア臭いサーブの癖を矯正していない、なんてマニアックなディテールもニクい。なにせ彼はもはや自分のコーチを雇う金もなく、昔の女に無謀な提案、とも呼べないような、一か八かのブラフをふっかけるよりほかに人生逆転のチャンスはないのだから。
さらに言えば、アートとパトリックのサーブの癖は、単なるそれぞれのキャラクターの記号的特徴に留まらず、テニスラケットの三角形のスロート(フェイスとグリップを橋渡しする部分) を、1人の女性をめぐる彼らの「三角」関係のメタファーにさえしてみせる。

極めつけは、この2人が互いのプライドと愛憎うずまく三角関係に10年越しの決着をつける舞台が、グランドスラムはおろか、それに準ずるマスターズ大会でさえなく、タイトルの由来にもなっているチャレンジャー大会である、という絶妙さ。もはやど直球すぎて逆に、これが大会ランク名称である事実など途中まで気にも留めていなかったが、改めて適切な設定すぎる。
キャリアの黄昏に立つ彼らにとって、チャレンジャーの意味するものとはなにか。彼らは何に挑み、挑まれているのか。
今やまったく立場の違う2人。共にすでに選手としての盛りは過ぎた2人。「引き際」という、かつて栄光を見た者であればあるほど見つけにくく、存在がどこまでも曖昧な代物を見つけなくてはいけない2人。それぞれの甘い記憶と、友情をとうに超えたトランスな執着と、過ごした時間、味わった苦痛、そのすべてを仕分けることも捨て去ることもままならず、ずいぶん遠くまで来てしまった2人。その2人 (そして3人) が再会を果たす舞台としてのチャレンジャー大会は、あまりにもうってつけであり、悪くいえばお似合いであり、そのどこまでもシュールでグロテスクな架空の事実だけで、正直テニスファンとしての自分は喰らいすぎている。

そして、この二者が取り合う (と同時に二者を支配する) 元天才女性プレイヤーという、ひとり、あまりにもフィクショナルな、まるでサタンかユニコーンのような超常的存在を、いとも容易く (としか言いようがない。そもそも並の俳優には不可能なのだから) 体現してみせたゼンデイヤ。
既成の何物にも平伏すことのないタシ・ダンカンはある種、この物語のもっとも悲劇的な生贄であり、同時に、平面的な世界から完全なる別次元に張り出した頂点、世界を吊り支える神のような存在でもある。彼女は徹底的に自分のイデアに貪欲であり、選手としてのキャリアに決別しアートと家庭を築いた現在でさえ、決して現実に妥協することはない。彼女は敗北を許さない。それは敗者に厳しいのではなく、全員にひとしく勝利を求めているがゆえに。彼女がアートを、パトリックを、そしてなにより自分を憎むのは、3人の出会いから気づけば10年が経ち、あのとき輝いていた全員が、今や勝利に見放された負け犬のように生きていると感じるからだ。まるで勝負が終わったかのように振る舞っているからだ。それはタシ・ダンカンのテニスじゃない。彼女はどうしようもなく、その自我の巨大さ、偉大さ、周囲と現実の至らなさに苦悩する。
かつて終わった男と、今終わりゆく男と、それぞれに送る彼女の視線。楽しんでいるようにも、苦痛に歪んでいるようにも見える。2人の男も視線を返す。時に困惑、時に誘惑、最後には挑戦のまなざしを。視線の交換といってしまえば月並だけど、コートに立つ2人のプレーヤーと観客席の3点で描かれる三角形が、これほど豊かに「関係」を語るという事実こそ、これまで誰も拾えていなかった発見ではないか。それは、夢中でキスをする2人、スクリーンの上で愛を交わすカップル、そして、それを観ている奇妙な映画の観客との美しい相似を描いてみせる。

まだジュニア選手だった3人が、パーティ会場から抜け出し、荒波うちつける崖の上で語らう<テニス=人生>論。タシは言う。テニスとは関係である、と。マルクスかお前は、と心の中でつっこまずにはいられないが、この映画に描かれるテニスはもはや、単なる競技としての小宇宙を大きく拡張する。

古来よりテニスの世界には、試合の勝ち負けとは明らかに次元の異なる、美への過剰な信仰がある。それは、完璧なバランスで拮抗した2つの力が、死力を尽くして勝利を求める儀式の上にしか成立しないが、時に、汗水たらし必死に積み重ねる勝利の遥か頭上を、完璧な勝敗の分岐、ただ打ちひしがれた肉体、誰が決めるとも知れず、しかしながら誰もがひれ伏さざるをえない圧倒的な美が、我が物顔で通りすぎていく。
それは、ひとつの勝利で舞いこむ世界の頂への距離を示す点数や、たった数年の間にため込まなければならない生涯給与といった諸々を、ただの紙の上の数字へと堕落させる。そして、ただ審美のうちに、それ以外のすべてがどうでもいいもの、取るに足らないものだと人に錯覚させ、マニピュレイトし、幻惑する。
その呼称が、美でも愛でもあなたでも私たちでも、もはやどうでもいい。どうやらこの世には、人生を賭けて、いや、丸ごと捨て去ってでも、手に入れるべきものがあるらしい。それが何であるか、という決断は保留したまま、それでも人は勝ちとるために争うことをやめられない。狂気か馬鹿か、そのどちらもか。

その永遠のテーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ、まったく自明でない真理を、人間は未来永劫追い求め、争い、傷つき、疑い、疲弊し、絶望し、朽ち果てる。まさしく狂気の沙汰だが、スポーツという行為、文化、経済、その混然たる全体の中に、そのような永遠の運動が、慣性法則が、一般意志が、まるで残像のように、メタファーのように、たしかに見えたのだと感じる時がある。錯覚かもしれない。それは人間の動体視力の限界に揺らぐ。
最後の試合の勝敗が決するとき、ゼンデイヤ=タシ・ダンカンがまなざすその先には、きっとそんなものが映っているに違いない。

正直この映画が映画としてどうだとかは途中からよく分からなくなってしまった。傾向としては、やや仰々しく、同監督の過去の作品より明け透けで、より下品で、馬鹿だと思う。劇伴の使い方も、これが好みかといえば、あまり好みでないかもしれない。(トレント・レズナーの音楽はいつも大好きだけど) きっと近い将来、もっと上品で、知的で、行儀のいいテニス映画が作られる可能性はあるだろう。

しかしそれでもこの映画は、私がかつて見たことない次元で、テニスと映画をひとつにしてしまった、と言える。テニスだけで人生の歓びと悲劇を同時に描いてしまった。それでいて徹頭徹尾テニスについて、テニスという概念を見つめ続けた映画でしかない。もっといえばこの映画には、人生とテニスと映画は不可分であると、三すくみの三角関係だと、そんな大いなる誤りを不躾になげてくる瞬間がたしかにあった。それは賢い映画には真似できない。スポーツなんて、馬鹿じゃなきゃできないから。馬鹿にならないと、速く動けないから。馬鹿しか天才になれないから。生きていけないから。馬鹿とは結局、既成の現実にフィットしきれない狂気の発展途上にすぎない。少なくともこの信念の限りにおいて、本作は私にとって史上初の、純度100%のテニス映画として長く記憶されるだろうと思う。

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